影のあなたの

芦花公園

 ――ワーリカ、きちんとお立ちよ。


 遠く遠くに母さまの声が聞こえる。ワーリカは背筋をぴしっと伸ばして壁に手をつく。

 ピシャッという音と、それからしばらくして背中にじわじわと広がる痛み。それが何回も続いて、いつしかワーリカはまた微睡の中に潜る。


 ――ワーリカ、きちんとお立ちよ。


 母さま、どうしてもねむいのよ。


 ――ワーリカ、きちんと、きちんときちんときちんと……


 気付くと旦那様の顔が目の前にあった。ワーリカはややはっきりしてきた頭で思い出す。

 ここは、旦那様のお屋敷の、納屋で、わたしは、お仕事を怠けたお仕置きを、受けている最中。

 旦那様は最後にワーリカの頬を思い切り殴りつけてからどこかへ行ってしまう。目の前に火花が散った。それでもワーリカの目を完全に覚ますには至らない。

 旦那様の飼い猫のエチェンカが毛糸を追いかけてごろごろと床を転がっている。ワーリカは二年前に死んだ父親のことを思い出す。父親もああやって床を転がりまわって死んだ。理由は分からない。時折ああして転げまわっていたからなにかの病気だったんだろうけど、ワーリカの家はお医者を呼ぶほどお金がなかった。

 父さまアチエーツ、ああ父さまアチエーツ

 ワーリカは父親のことを思い出すと叫びだしたいような気持ちになる。

 売れない小説を書いて、その売れなかったぶんを自分で買って毎晩酒を飲みながら燃やしていたような生活能力のまるでない父親だった。何も遺さないで死んでいった。母親は働き詰めで体を壊し、父親が死んですぐやっぱり何も遺さないで死んでしまった。ワーリカは親戚をたらい回しにされたあと、クリムキンさん旦那様に二束三文で売られてしまった。

 それからずっと、ワーリカは、朝太陽が昇ってから、その次の朝雄鶏の鳴くころまで働いている。旦那様の赤ちゃんの子守をして、お掃除をして、ミルクを絞って、ジャガイモの皮をむいて、子守をしている。

 しかしワーリカは父親のことを恨んだことはない。思い出すたびに胸が張り裂けそうに懐かしくて会いたくなるのだ。

 もう一度あの、行ったこともない外国の、珍しくておどろおどろしくて素敵な話を聞きたいのだ。

「ワーリカ!赤ん坊が泣いているじゃないか!」

 奥様に後頭部をひっぱたかれてよく見ると、猿のような赤い顔をしている赤ん坊が見える。

 すみませんと謝ると奥様はきちんと見とくんだよ、と言いながら寝室へ行ってしまう。


 ――ヒトフタミ、ヨ、イツム


 ワーリカは父親から聞いた物語に出てきた歌を歌う。


 ――ナナヤ、コ、コノタリ


 赤ん坊は泣き止まない。より一層泣きわめく。爆発するんじゃないかと思うくらい、大声で泣きわめく。

 でも、それでいい。

 暖炉ペチカの前でこの歌を歌って、赤ん坊が泣いている間だけ、影さんに会えるのだ。

 影さんは苔色の壁紙をなぞるように移動してきてワーリカに寄り添う。


 ――フルベ、ユラユラ


 影さんは赤ん坊の顔を塗り潰す。赤ん坊が少しだけ静かになる。


 ――フルベ、ユラユラ


 ワーリカのまぶたがゆったりと落ちて行く。影さんが優しく体を撫でる。


「ワーリカ!階段を綺麗におし!」


 奥様の怒鳴り声で目が覚める。


「また叩かれたいのかい?やることは山ほどあるんだよ、この怠け者」


 ワーリカはのろのろと立ち上がる。ああ、ねむい。ねむいのよ。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る