精霊たちの祝祭

 

 

 

■精霊たちの祝祭


 遊戯ゲームという古い文化の一翼をコンピュータが担うようになったとき、それが人間の現実をどれほど変えたかを思うと僕はぞっとする。

 コンピュータゲームの本質は、人間と対話する点にある。それは人間の動作に反応し、その反応が人間の次の動作を促すことで、相互作用を継続させる(*1)。

 コンピュータを介してこのような対話・・を続けるとき、僕たちは一体なにと戯れているのだろう? 


 人間は有史以前から、人間ならざるものと対話してきた。それは精霊や神と呼ばれた。

 その対話は祭器が――木の枝や鏡、聖像などの装置デバイスが媒介した。巫覡シャーマンや神官がそれを扱った。

 祭器はやがてカードやウィジャ盤となり、いまコンピュータとして僕たちの周りに横溢するようになった。そう捉えれば、ゲームを享受させる電子機器デバイスはそもそも日常からの逸脱を――人間ならざるものとの対話を志向していることになる。


 ダークサイドをプレイした当初から、僕はそこに理解を超えた世界の広がりを感じて眩暈を起こしそうだった(その感覚が「時空交叉」かも知れない)。けれどゲームの向こうに精霊、あるいは幽霊のような存在を本当に実感したのは、ダークサイドで2回だけ開かれた公式イベント「躰乖祭たいかいさい」を通じてだった。

 第1回の開催期間は、2012年12月から2013年1月まで(これは1周年にちなむものだった)。僕は知らなかったが、このイベントはネットの一部界隈で話題になったらしい。当時のことを綴ったブログも見つかるので、その中からひとつ引用してみよう。

 なお第2回は2017年末から翌年にかけて開かれたが、その記録はほとんど残っていない。2018年2月7日、イベント終了から日を置かずダークサイドが終焉を迎えたからだ。




 ◆ ◆ ◆




ゲームキャラクターの祝祭「月のウラガワ」

    ――――たくらん「闇のゲーオタ封怪記」(http://blog.livedoor.jp/trackround/archives/2013-12-3.html、2013年12月3日公開、2017年11月17日閲覧)


 さて、前回取り上げた海外インディーゲーム「SCP Containment Breach」についての追記から。

 ニコ動実況から一躍日本人に流行ったこのゲームについて、理不尽なバグが恐怖を際立てる点を考察したわけですが、そもそも私たちが不気味なものに惹かれるのはなぜなのか。それは世界の残酷さを暴きたいからだと私は思うんですよ。この清廉潔白な世界も一皮めくれば汚く残酷なのだ……という、こじらせ系ラスボスが言いそうなやつです。この人とかね。

 面白いのが、その衝動が人々を巻き込んで大きな世界を創造してしまうことです。前回も触れましたが、SCPは単なる都市伝説ではなくて、英語圏掲示板「4chan」に投稿されたSSを発祥とする創作コミュニティなんですよ。異常な物体や場所を保護・研究する「SCP財団」の報告書、という体裁で多くの物好きさんが恐るべき物や現象を創作し、その連鎖が巨大なSCPワールドを構成するわけです(ちなみに最近非公式の日本語訳wikiページもできました。ゲームの次は本家も流行るか?)。

 これ、私などやはりクトゥルフの暗黒神話体系を思い浮かべます。ゲームやマンガの元ネタとしても有名ですが、もとはアメリカの怪奇小説家ラヴクラフトの設定を基にたくさんの作家たちが創り上げたシェアワールドなのですね。体裁はホラー小説なのですが、そこに私は1920~30年代当時広まっていただろう科学や合理偏重の考えに対する無意識の反発を感じるわけです。

 何が言いたいかというと、SCPもクトゥルフも、社会が隠蔽しているものを表出せしめんとする集団的活動であって、一種の祝祭なのではないかと(こじらせ系的に)。


 という前置きから紹介するのが、日本のインディーゲーム「月のウラガワ」です。暗く異形の空間「月霊學園」が舞台なのですが、まず“まとも”な存在がいない。“教師”のほとんどは人間に似つかない化け物ですし、生徒は全員人形。プレイヤーはその人形の一体になって学園を探索するわけです。現実を厭う皆さんが好きそうでしょ?

 個人プレイのゲームですが、ネットを通じて活動履歴が共有されるところがミソで、探索中に他プレイヤーの痕跡を見つけたりもする。学園の「カフェテリア」がチャットルームになっていて、情報交換やゲームの考察が盛んなのも特徴ですね。

 そのあたりはまず体験してねというところですが、詳しく紹介したいのは躰乖祭と呼ばれるイベント(これで「たいかいさい」と読みます)。私も最近知った後追いなんですが、唖然としたんですね。

 このゲーム、プレイヤーは「霊獣躰」というケモミミ少女キャラに変身できるのですが、このキャラはプレイヤーが自作でき、かつゲーム内で共有されるんです。人気キャラは集中的に使われますし、その使用回数はランキングされてさらに人気を押し上げたりもする。

 それで躰乖祭とはですね、この霊獣躰たちが最後の一躰となるまで戦うイベントなのですよ。


 詳しくは「ダキニちゃんwiki」というページで読めますが、この内容が凄い。

 霊獣躰は詳細なパラメータを持ち、それはプレイヤーがどう動かしたかによっても微妙に変化するのですが、イベント中はその数値に基づいてプログラムが霊獣躰を自動的に動かすのです。

 そう、躰乖祭はプレイヤーが直接介在できないのですね。

 あるものは異形の怪物に殺されたり、危険な現象に巻き込まれて傷を負ったりする。そして霊獣躰同士が接触すると戦いが始まり、ゲームの対戦アルゴリズムが互いのパラメータをもとに攻防を計算する。

 イベント時に登録されていた霊獣躰は約300躰。予選期間終了時点で生命力の高い上位8躰が決勝ステージにあがり、そこから先は最後のひとりになるまで続く。その活動記録は日々公式サイトに更新され、それを一喜一憂して眺めるプレイヤーたちがカフェテリアで盛り上がる。少しでも推しキャラのパラメータを高めるために自分のプレイにはげむ人もいる。


 こう書くとまるでローマの見世物かと思うかも知れませんが、私の印象はそうではなく、これはまさに祝祭なんだと。まるで巫女の舞いを眺めるような……。

 キャラクター達の自動的な戦いが生み出す感動というのは、MUGEN動画にはまったことのある人なら理解してもらえると思います(*2)。

 霊獣躰は超人的能力を持っているので、戦いのログには1秒間に百を超える攻防が残っていたりする。「●●は斬撃を加えた!」みたいな文字列が百行以上続くわけです。

 戦いはそう簡単に決着がつかず、どちらかが戦場を離脱すればまた放浪が始まる。人間に手の届かない世界で、人間でない存在が戦い続ける。

 そこから私たちは物語を読み取る。

 クトゥルフやSCPでは人間が物語を書きますが、「月のウラガワ」では人間でないものたちから物語が生成されるわけですよ。

 躰乖祭は1ヶ月半にわたって続いたらしいですが、リアタイで目撃した人が羨ましい。システム上の問題もあったらしく、もう同じようなイベントは行われないらしいですからね。

 まあとにかくその膨大なログの一部でもぜひご覧ください。

 最後に、ゲーム公式サイトにはファンのSS投稿機能がある点も紹介しておきます。決勝ステージで起きたことがSSになっていたりと、これがまた奇妙な読後感。

 彼女達はプレイヤーの分身であり、別の領域とつながる巫女であり、物語の紡ぎ手でもあるんです。躰乖祭とは、そんな彼女達による祝祭なのですよ。




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 これは「ゲーム」なのだろうか?

 確かに霊獣躰は人間が設計するが、躰乖祭では人間は霊獣躰の戦いを見るだけだ(さらに言えば、霊獣躰のなかにはプログラムによる半ば自動的な方法で設計されたものもいる)。

 引用したブログにあったように、これはゲームというより、民俗学的にいう祝祭なのかも知れない。ただし一般的な祝祭が神話のエネルギーを再生産するものだとすると、これは神話を生み出す祝祭だ。


 アメリカの文化人類学者グレゴリー・ベイトソンは、ニューギニアの一部族のフィールドワークを通じ、その独特な儀式「ナヴェン」を論じている。この儀式では、男性は女性に、女性は男性に、その衣装からふるまいまでなりきってしまう。ベイトソンは、社会的役割という強力な抑圧を開放するためのものではないかと説明している。部族社会では強い自己主張や感情の抑制などが強いられ、そこで生じる心理的緊張が、社会で求められるものと真逆のふるまいという形で表出する、という話だ。

 しかし社会的役割という抑圧を受け、心理的緊張を強いられるのは、僕たちの社会でも同じだ。

 ダークサイドの躯躰、その意志をもたない人形としてのデザインは、責任や判断力を求められる社会的抑圧を開放するものと言えないだろうか。

 そして霊獣躰というシステムは、“個人”であらねばならないという抑圧からも開放してくれる。プレイヤーはゲームを通じて彼女たちになる(憑依、という言葉はまるで精霊を降ろすかのようだ)。それは複数のプレイヤーの集合体ともいえるし、自律的に動く彼女たちをみるとプレイヤー個々の意識すら不要に思える。

 少なくとも実際にゲームをプレイし、「躰乖祭」に参加した経験から、僕はダークサイドに宗教儀礼的なものを感じた。


 仮ヶ音さんの話を信じるなら、“かさね”はまさにそのことを意図的に実現させるためにダークサイドを設計したのだ。


 


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*1 遊びの学術的研究の基礎を築いたロジェ・カイヨワは、人間を「ホモ・ルーデンス(遊ぶ人)」と説いたヨハン・ホイジンガの先行研究を踏まえ、遊びを「自由で」「時間・空間的に隔離され」「先が見通せず」「非生産的な」「規則ある」「虚構の」活動と定義した。

 ではコンピュータゲームの定義はというと様々な見解があり、たとえばアメリカのゲームデザイナーであるクリス・クロフォードは、あらゆる創造物のうち「金銭を得るためにつくられ」「相互作用があり」「明確なゴールを持ち」「競争相手が存在し」「相手を攻撃できる」ものを(コンピュータゲーム産業における)ゲームだとした。中川大地は『現代ゲーム全史』で「〈現実〉なり〈自然〉と誤認可能なほどに豊かなレスポンスを打ち返す人工のフィードバックシステム」が技術的に可能となったことが、娯楽としてのコンピュータゲームを成立させたと説明している。さわやかは『僕たちのゲーム史』で、「ボタンを押すと反応すること」を変わることのない本質と捉えて日本のコンピュータゲーム史を概観した。ここにある相互作用、フィードバックシステム、反応することといった言葉に、僕はコンピュータゲームの本質をみる。すなわち人間と、人間ならざるものとの対話の媒介である。それこそがコンピュータを用いない遊び全般との違いなのだと思う。


*2 ここで言及されているのは、同人用の2D格闘ゲームエンジン「M.U.G.E.N」のこと。ユーザが自由にキャラクターやステージを追加できるのが特徴で、オリジナルだけでなくゲーム、マンガ、アニメ等の既存キャラクターが無数にこの世界に召喚されている。作品の境界を越えた夢の競演を繰り広げるキャラクターたちの戦いは、AIの自動操作によるトーナメントやリーグ戦の動画にもなっている(膨大なその全体像はファンサイト「ニコニコMUGEN wiki」で確認できる)。

 有名な大会動画のひとつである、2007年の「凶悪キャラグランプリ」を僕はかなり後になって観たのだけれど、人間が介在せずAIが自動進行する戦いの数々に、奇跡を感じ、心が揺さぶられるという事実に衝撃を受けたものだ。そこで僕が受けとる物語は、一体どこからやってきたのだろうか……。

 

 

 

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