第35話

ホールに着席を促すブザーが鳴る。コンクールの始まりを予告するアナウンスが流れ、騒がしかった客席は次第に静まり始めていた。




「田口さん、戻ってこないな」




 開会の挨拶がすみ、プログラム一番の学校の演奏が終わった時、持田が前かがみになりみんなの顔を見た。




「なにやってんだ、あいつ」




 大島はそう言いはしたものの、斉藤の到着が遅れていることで気が気ではなく、もう頭はどうやって彼らに棄権という苦渋の決断を告げようかそればかり考えていた。またチャンスはある。今回駄目でもあきらめるな。文化祭でも演奏できるんだから。いや、そんなんじゃ彼らの心に響かない。どうすればいい。大島はステージを睨んで、いくつもの言葉をシュミレーションしていた。




 持田は大島のやきもきした気持ちを察したのか、翔太に向って、


「そもそも誰に電話しに行ったんだ?」


「さあ……」


「まさか弟とか」


「ああ、そうかもね。警報出てるんだったら心配だろうし」




 ステージに次の学生たちがぞろぞろとあがり、それぞれの楽器のポジションを修正したり、確認したりしている。




「……どこもやっぱり人数多いな」


「ああ」


「あれ、全員来てんのかな。電車止まって来れない奴とかいんのかな」


「いるだろ、そりゃあ」


「それでもあんなに人数いるのか」




 そうやって持田は演奏の合間合間に何事か話しかけてきた。翔太は持田が不安のあまり何か喋らずにはいられないらしいのが分かる気がした。田口さんは演目が進んでも席には戻ってこないし、斉藤が辿り着く気配はまるでない。大島も動揺のあまり目はうつろで、さっきから溜息の連発だった。




 そんな中で常山だけは静かに「すごいね」とか「うまいね」などと控えめに感想を述べていた。




 プログラムが進み休憩を挟んで大島が席を立つと、入れ替わりに生徒会長が翔太たちの座っているところへやって来た。




「もうすぐ出番だな」


「……はあ」


「ブラバンのコンクール出場、二十年ぶりらしいよ。校長が言ってた」


「はあ……」


「これでひとまずブラバン存続は安泰なんじゃないか」


「……」




 翔太はすっと視線を逸らした。




 会長は何もブラバンを潰そうと思っているわけじゃないというのはもう分かっていたが、このコンクールに出る為に骨を折ってもらったというのに、ここでやっぱり棄権しますってなったら……と思うとなんと申し開きすればいいのか分からなかった。




「どうした?」




 翔太をはじめ持田や常山の態度が妙に頑なであることに心づいた会長は尋ねた。




「あいつは? あのトロンボーンのデブ」


「……」




 翔太が無言でいる、と代りに常山が会長を見上げながら答えた。




「斉藤君、雨で電車もバスも止まっててまだ来てないんです」


「えっ」




 翔太はやっぱり会長の顔をまともに見ることができなかった。自分のせいではないが、会長に申し訳ない気持ちでいっぱいだった。




 会長は無言で翔太を見つめていた。




「おーい、今、ぐっちゃん……じゃない、田口がイチロー……じゃない、ええと、バンドの奴に頼んで車出してデブ拾いに行って貰ってるって」




 そう言いながら大島が走って戻ってきた。そして会長の顔を見るとぎょっとして立ち止った。




 会長はいつものクールな様子で、


「間に合うんですか」


 と尋ねた。




 問われた大島は教師であるというのに妙にどぎまぎしながら、


「ぎりぎりかもしれんけど」


「……そうですか」


「校長には言うなよ。言うなら、俺が言う」


「……」


 それには会長は答えなかった。ただ何か思案するように口元に手を当て、眉間に皺を寄せていた。




 その時、再開のブザーが鳴った。着席を促すアナウンス。会長は「それじゃあ」と言うと、客席へと戻っていき、代わりに大島がどさりと脱力するように腰をおろした。




「マジで間に合うんすか」


 翔太が噛みつくように大島に尋ねた。




「分らん」


「先生」


「俺に分かるわけないだろ」




 大島はキレたような乱暴な口調で吐き捨てると、腕組をしステージを睨みつけた。大島も焦っているのだ。無理もないことだった。




「あ、田口さん」




 常山がぽろっと漏らした。見ると通路を田口さんが戻ってくるところだった。




 翔太はまたしても、今度はすがりつくように田口さんに尋ねた。




「田口さん、斉藤は……」


「イチローにデブの電話番号も教えたからうまく拾ってくれると思うけども……」


「間に合うんすか」


「……後はもう運を天に任せるしかないな」


「……」




 持田はさっきから無言で交通情報を調べ、息を凝らしてそれらのほとんど絶望的とも言える情報を一人で見つめていた。




 凄まじい混乱と渋滞と。持田は斉藤がもう辿りつけないとほぼ確信し、しかし、それを翔太に言うことができなくて、今はこの絶望に一人で耐えていた。




 コンクールが再開され、また他校の演奏が繰り広げられても、もう常山もさっきのように感想は言葉にしなかった。




 時計は残酷に針を進め、それぞれの頭上を絶望の黒い雲が立ちこめていた。巨大な嵐の前触れのように雲は彼らを圧倒し、息もできないような苦しさをもたらしていた。




 アナウンスがとうとう翔太たちのリハーサル室への案内を告げた。が、誰も立ち上がろうとはしなかった。少なくとも、四人は。




 それを受けて大島は静かに口を開いた。




「行くぞ」




 このまま彼らをここにいさせることが可哀そうで、大島は自分の生徒たちを次々に席を立たせ、先頭に立ってホールを出た。




 悲壮な様子で鞄と楽器を手にしロビーに集合すると、大島は翔太の肩に手を置いた。




「今日が最後じゃないから」


「……」


「お前ら一年だし、まだあと二年、あと二回チャンスある」


「……」


「来月は文化祭もあるし」


「……」




 この言葉を彼らに言わなければいけないことが、大島は心底辛く、翔太の肩に置いた手をそっとはずすと、大きく息を吸い込んだ。




「棄権……」




 実行委員に連絡してくる。大島がそう言いかけると、背後で大きな声がした。




「ちょっと待って!」




 びっくりして全員が振り返った。




「棄権なんてしなくていい」




 静まり返っているロビーに靴音を響かせて近づいてきたのは、生徒会長だった。




「俺がデブの代わりに出ます」


「えっ!」




 思わず全員が叫んだ。いや、正確には田口さん以外が。田口さんは憮然とした表情で会長を睨んでいた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る