第34話

 背後ではますます雨が強くなるような気配。激しい雨音。翔太が振り向くと、持田は眉をひそめてなにか会話しているようだった。




 翔太は着席するとパンフレットを開き、自分たちの出番を確認した。7番目。これだと昼前には出番が来るだろう。




 ホール内をきょろきょろと見回していた常山が、後方から二階席にかけての観客席の人数の多さに驚き、


「結講お客さん入ってるんだね」


 と翔太に話しかけた。




 が、翔太には常山の声があまり耳に入っていなくて、次第に冷たくなっていく指先を温めるように拳を握っては、開いて、前方のステージを凝視していた。




「タダだからな」


 代わりに答えたのは田口さんだった。田口さんは「心配すんな」と言うように常山ににっこり微笑んだ。


「タダなんですか」


「金とったら誰も観に来ねえよ」


「はあ」




 常山はもう一度客席を見渡した。父兄と思われる人たち。他高の生徒たち。どこかで見たようなと思われる顔は自分たちの学校の教師陣だった。




「あ、先生たち来てる」


「……タダだからな」


「あ、あれ、生徒会長」


「……」




 その呟きには田口さんはもう答えなかった。




 そうしている間に持田が席へとやって来た。翔太は半分腰を浮かせて勢い込みながら、


「斉藤は?」


 と持田に詰め寄った。




 すると持田はみんなに顔を寄せるように体を折り曲げ、なぜか小声で、しかし、緊迫した面持ちで、


「やばい」


 と一言言った。




「やばいってなにが」


 大島はすでに蒼白になっていた。




「大雨警報」




 持田はそう言うと、はあっと大きく息をつき、眉間に刻んだ皺をますます深くしながら言葉を継いだ。




「警報出てるんだって。で、今、斉藤んちの方のバスも電車も止まってるって」


「マジで!」




 翔太は叫んでから、慌てて自分の口を押さえた。


「雨でバス止まるってあるか、普通」


 田口さんもさすがに焦ったのか、せきこむように持田に詰め寄った。




「途中の高架が水没ってるらしいっす」


「バスなら通れるだろ、車高あんだから」


「バスだから、通らないんすよ。公共交通機関は無茶できない」


「電車は」


「俺も今ネットで調べたんすけど、落雷で全線止まってるって」


「……そんな……」




 ぼそっと呟いたのは、翔太だった。それは、ここしばらくご無沙汰していた、しかし、懐かしい感情「絶望」。


「そんなことって……」


「そうなると、他にもたどり着けない学校とかあるんじゃないの」


「全員ってことはないだろ。少々人数欠けても影響ないんじゃないの」


「……俺らは五人しかいないんすけど……」


「……」




 そんなことってあるだろうか。翔太たちは唯一無二の、たった五人きりのブラバンなのだ。今一人でも欠けたら到底演奏などできない。




 翔太の胸を、あの懐かしい絶望が埋め始めていた。泣きたいような、叫びだしたいようなやり場のない感情で、握りしめた拳に固く力をこめた。でなければ暴れ出しそうで。




 持田が大島を見ながら、


「……棄権っすか」


 と、探るように尋ねた。




 大島はここへきて初めて顧問として、いや、教師として生徒から試されていると思うと飴玉を誤飲したように咽喉が締め上げられる苦しさに言葉を失った。




 大島は彼らにまだ諦めるとか挫折というものを味わってほしくはなかった。大人になれば嫌でも経験することになるのだから。せめて今は、頑張ったら報われるのだということを味わって欲しい。




 この学校に赴任してきた時、大島は生徒たちが常に不貞腐れていてなんの夢も希望もなく、やる気のないことに驚いていた。自分達はどうせ頭が悪いからと、あらかじめすべてを諦めてしまっているのがありありと見て取れた。そんな生徒たちの全員に可能性だのチャンスだのをどうやって教えることができるかまるで分らなかった。




 自分の仕事は彼らを最低の成績であろうともとにかく卒業させることでしかないことにも、嫌気がさしていた。




 そこへ突如現れたブラバンの復活。それは大島に教師の使命を思い出させるものだった。




 大島は悲しそうな持田の目を見返した。




「まだ時間ある。諦めんな。デブが来るまで待とう」




 大島はそう言うと腹をくくってどしんと椅子に腰をおろした。




「お前らも落ち着いて座ってろ」




 その言葉に常山も持田ものろのろと椅子に座った。常山が翔太に「藤井君」と呼び掛けた。




 プログラムを見たのであろう他校の生徒たちが翔太たちをちらちらと見ては頭を寄せ合って、何事か囁き合うのが目に入る。好奇の視線。




「翔太、座ってろよ。俺、ちょっと電話してくるから」




 田口さんは翔太を押さえこむように椅子に座らせると、一人ロビーへと出て行ってしまった。




 一同はただざわめきに包まれているホールの熱気の中で、嵐にもまれるような心を抱えて座っているより他なかった。




 緞帳の下りたステージが翔太にはひどく遠く感じられた。まるで拒絶されているかのように。




 ふと気がつくと隣に座っている常山が鞄から楽譜を取り出して、膝の上で広げていた。




 常山は翔太の視線に気がつくと、


「ここ、難しいから。自信ないから」


 と恥ずかしそうに笑った。




 見ると楽譜には音符が見えにくくなるほどびっしりと書き込みがしてあり、注意されたこと、また、注意しなければいけないこと、強弱やアクセントについても事細かに書いていていて、それは常山がいかに真面目に練習に取り組んでいるかの証だった。


 楽譜を見つめる常山の頭の中では、今、情熱の薔薇が鳴り響いているのだろう。自分たちの練習の軌跡が、鮮明に浮かんでいるのだろう。




 翔太は例によって涙ぐみそうになり、視線を逸らした。




 消えない。こんなに頑張ったという事実は、決して消えない。上手くいかなくても。




「あのさ、自分たちの出番の二つ前になったらチューニングとリハーサルの時間がちょっとだけあるんだよ。そこでおさらいすればいいよ」


「藤井君」


「うん」


「ブラバン、誘ってくれてありがとう」


「え、なに、急に」


「いや、言ってなかったなと思って」


「……」


「おもしろいよ、ブラバン」


「……そっか」


「一人では、できない」


「……うん」




 もう翔太は常山の顔をまともに見ることができなかった。一人でいたいと言っていた常山が「みんなで」と言ったこと。それは翔太にとってずしりと重く響いた。




 今は祈るような気持ちで斉藤の到着を待つばかりだった。時計を見ると、もう開始時刻の10分前だった。

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