第19話


 衣替えが終わるのを見計らったかのように季節は梅雨へと突入していった。


 翔太たちの学生服は白いシャツへと様変わりし、ぱっと見にはさわやかだが、シャツのボタンはひとつも嵌めずに誰もがその下に色とりどりのTシャツを着てささやかなお洒落を楽しんでいた。といっても、無論、科長や生徒指導などの怖面の教師陣の前では慌ててボタンを嵌めるのだけれど。


 雨の日の教室は人いきれと湿気でむうっとして、若さと汗の独特の匂いがたちこめていた。


 持田はそれをうっとうしそうに「男くさいったらありゃしねえ」とぶつぶつ文句を言った。


「男しかいないんだからしょうがないじゃん」

 斉藤が汗を拭き拭きたしなめると、

「もー、お前見てるとそれだけで暑苦しい」

 と持田がノートをばたばたやって風を送った。


 昼休みに翔太たちは食堂でカレーなど食べて戻ったところだった。


 田口さんは真面目に学校に来ていて(出席日数がすでにぎりぎりなせいもあるけれど)、二年生の教室でもどうにかやっているらしかった。放課後のブラバンの練習が終わると、楽器を持って帰るが翔太はもうそれを不安に思うことはなかった。


 ただ気がかりなのは、まだ活動予定を提出できていないことだった。


 大島に尋ねたところ「お前らのやりたいことやればいいだろ。俺が知るか」と冷たく突き放され、大島が頼りにならないということだけがまたしても明らかになっただけだった。


 やりたいこと。そう言われても、翔太はやりたいこととできることは違うだろうと思っていた。いかんせん、人数が少ない。田口さんの所属するバンドみたいなブラスロックは確かに格好いいし、あんなのできたらいいなと思うけれども、あれをやってしまったらもうブラバンじゃない。「軽音楽部」になってしまう。そんなことをあの生徒会長が見逃すはずがない。きっと来年度からブラバンと軽音は統合されることになるだろう。


 そういうんじゃないんだよな。翔太は思った。やはり、そこは純然たるブラバンじゃないと。


 翔太たちが自分の席に座り、斉藤がいつものように食後のデザートと言わんばかりに鞄から袋菓子を出して食べ始めると、野球部の立原がやってきた。


「いたいた、どこ行ってたんだよ。探したよ」

「食堂でメシ食ってたんだよ。なに、なんかあった」

「あのさあ、ちょっと相談があるんだけど」

「ふん」


 翔太は斉藤が机に広げた菓子をつまんで口に放り込むと、傍らに立っている立原を見上げた。


 立原はなにか深刻な顔で翔太たちを見回すと、

「来月なんだけど」

「ふん」

「野球部、試合あるんだよ」

「ああ、夏の高校野球ね」

 持田も菓子を食べながら横から、

「甲子園、お前らには関係ないだろう」

 と笑った。


「ないよ。そんなことは分かってんだよ。でも、関係なくても試合はあるじゃん」

「まあ、そりゃそうだ」

「それでさあ、頼みがあるんだけど」

「なに」

「……応援、来てほしいんだけど……」


 立原が言いにくそうにぼそっと低い声で呟いた。途端、三人はどっと笑った。


「応援って、なんで俺らが」

「ただの予選だろ?」

「決勝まで残ってからだろ、応援は」


 翔太は笑いながら立原の腕のあたりを叩いた。冗談はよせよと言わんばかりに。


 しかし立原は笑うことはなく、むしろ半泣きみたいな顔になって、

「そうじゃなくって。お前らブラバンだろ。ブラバンに応援に来てほしいって言ってんの!」

「はあ?!」

 三人は同時に叫んだ。


「頼む!」


 立原がぎゅっと目を瞑り、拝み手になった。翔太と持田は顔を見合わせた。


「頼む、この通り。頼む」

「……立原~~……。お前、知ってんだろ。ブラバンって言っても俺ら四人しかいないって」

「知ってるよ。でも毎日練習してんじゃん」

「練習と人数は関係ないだろ」

「それがさあ、先輩が……」

「先輩?」

「来月の予選、A高。あそこ、野球部の試合にブラバンが応援に来るんだって。毎回必ず。そんでさあ、先輩らが俺らにもそういう応援とかないとかっこ悪いとか言いだして……」

「そんなこと言われても、なあ」


 翔太が斉藤の方を見ると、同意するようにこくこくと首を振った。


「無理だよ」

「そこをなんとか! 俺がお前らと同じクラスだから絶対頼んでこいって言われてんだよ。断られたとか言ったら、俺が怒られる」

「そんなこと言っても無理なもんは無理だよ。俺はともかく斉藤ともっちーは素人だし」

「頼む! ほんと、頼む! 絶対応援来させろって言われてんだから。お前ら来ないと俺永久に補欠だよ」

「上の奴ら出て行ったらレギュラーなればいいじゃん」

「それまでひたすらベンチってやってられるかよ!」


 立原はいよいよ泣きそうになって、すがるように叫んだ。


「頼む、マジで頼む! この通り!」


 翔太は困りきって二人の顔をもう一度窺った。

 持田は無言で首を横に振った。斉藤も眉根を寄せ気の毒そうな顔はしているものの、決して肯定的な意見ではなさそうだった。


「……だいたい、俺らで勝手にそんなの決められないし」

「じゃあ誰が決めんだよ」

「部長。田口さん。二年の」

「頼んでよ」

「やだよー。田口さんだってやだって言うよ」

「頼むから! 恩に着るから! 聞くだけ! 聞くだけ、聞いてみてくれよ。そしたらさ、俺も先輩に言い訳できるし」

「……分かったよ。聞くだけだからな」

 立原がその場を去ると持田は溜息をついた。

「お人好しというか、なんというか」

「オッケーしてないんだからいいだろ」

「本当に田口さんに言うつもり?」


 斉藤が食べ終わった菓子の袋を丸めながら尋ねた。


「まあ、言うだけは……」


 翔太は田口さんがオッケーするはずはないと思っていた。A高のブラバンにどのぐらい人数がいるのか知らないが、野球部の応援に出張ってくるのだとしたら、それなりの人数がいて、ちゃんと応援曲のレパートリーがあるはずだ。そんなところと張りあって出て行ったところで、自分たちにできることなど何もない。それは現在自分たちを指導というか、まあ、引っ張ってくれている田口さんが一番よく分かっているはずだ。


 放課後、翔太は約束通り立原から頼まれた内容をそっくりそのまま田口さんに話した。すると田口さんは一瞬唖然とし、それから笑いだした。


「なんの冗談? 野球部の応援ってなに?」


 けれど、三人が無言でいるのに気付くと笑うのをやめ「え、なに? マジな話?」と恐る恐る尋ねた。


「マジっす」


 斉藤がこっくり頷いた。


「マジか!」


 田口さんが叫んだ。残る二人も同様に頷いて見せた。


 そりゃあ本気にする方がどうかしてるだろうなあ。翔太は愕然としている田口さんを上目づかいに見ていた。


 断られるのは仕方ないけど立原がかわいそうだな、とも思っていた。あいつ、中学も野球部だって言ってたよな。野球好きなんだな。背も高いし、足も速いし、選手としてそう悪くないはずだけど、はなからベンチって決まってるのはかわいそうだ。といって、どうしてみようもないのだけれど。


「あのう、野球部に田口さんが直接断り言ってくれませんか」

「なんで」

「俺らが言っても野球部納得してくれないと思うんすよ。一年だし。クラスの奴もかわいそうだし。田口さんが言ってくれたら、野球部も諦めると思うんです」

「野球部ねえ……」


 田口さんは何事か思案するように拳を手にあて、ふむとしばし黙り込んだ。


「実際問題、無理っすよね」


 翔太が田口さんの顔を覗きこむように尋ねた。


「だって四人しかいないし」

「まあ、そうだな。四人じゃあな。いいわ、俺が野球部に言うわ。でも、調度いいわ」

「なにがですか」

「生徒会に出す活動予定表」

「はあ」

「あれには運動部の応援って書いとけよ」

「えっ」

「いいから書くだけ書いとけばいいんだよ。実際できるかどうかは別だろ。ま、言うなれば予定は未定ってことで。だいたい、他に応援にいけそうな運動部がないだろ」

「そういうのアリなんすかね」

「だってお前、なんか書いて出さないとさあ」

「それはそうなんですけど……」


 田口さんはくるっと斉藤を振り向いた。


「おい、デブ。お前、他にもなんか適当に活動の名目作って予定表書いといて。そんで生徒会に持って行っといて」

「適当にって言われても。ブラバンって普通なにするもんなんですか」


 斉藤は放課後のおやつに買った甘いパンを片手に聞き返した。


 田口さんは椅子に腰掛け楽器のケースを開けてマウスピースをセットしながら言った。


「俺が中学ん時は老人ホームの慰問とか行ったな。それから文化祭」

「コンクールは?」

「は?」


 翔太がぱっと閃いて口を挟んだ。


 田口さんを筆頭に斉藤と持田も翔太の顔が輝くのを見逃さなかった。そして思った。まずい、この熱血野郎がまたしょうもないことを思いつきやがった、と。


 三人がそんな風に思ったことなど翔太は気づくはずもなく、まるで名案とでも言わんばかりに喋り始めた。


「俺、中学ん時出たことあるんすよ。コンクール。あれはやっぱりブラバンならではっていうか、テンションあがりますよね。野球部で言うなら甲子園? せっかく毎日練習するんだから、目標がないと」


 翔太はすでに興奮していた。コンクールは地区予選から全国大会まで長い道のりだった。その一つ一つをクリアしていく達成感。一丸となって奏でる音楽。練習に打ち込み情熱を注ぎこむことの充実感。翔太の胸にそれらの思い出が一気に去来していた。


 その気配を持田はいち早く察知し、突然両手をぱんと打ち鳴らした。それはまるで夢の世界へぶっ飛んで行く翔太を目覚めさせるような一打ちだった。


「まー、とりあえず練習しますか! 田口さん!」

「お、おう。そうだな。じゃあデブは明日までに予定表書いてきて。さー、今日もロングトーンからやるぞ」


 持田の意図が分かったのだろう。田口さんもそそくさと話題を切り上げて立ち上がり、メトロノームをセットした。


「よし、チューニングするぞ」

「え、ちょっと待って、田口さん、コンクールは……」

「藤井、早く用意しろ」

「田口さん……」

「藤井」


 田口さんが翔太を睨んだ。翔太はしおしおと黙って自分の定位置に座ると楽器を取り上げた。


 なにもそんなにうっとうしがらなくても。翔太は寂しさと、むくれた気持ちとをマウスピースから楽器に吹き込んだ。きんと硬質な音が飛び出す。


 斉藤も持田も翔太と目を合わせないように俯いて田口さんの指示を聞いている。


 四人じゃ何もできない。翔太はその言葉にはすでに飽き飽きしていた。部員随時募集中の張り紙も校内の掲示板に何枚も貼ってある。しかし効果は一切なく、部室を覗きに来るのはたまたまクラブハウス周辺へやってきた連中の好奇の目だけで、ブラバンに入ろうなどという者は一人たりとも現われていない。


 だったら。だったら、どうする。翔太は田口さんの合図で始まったルーティンな練習をしつつ、真剣に考えていた。いつしかその眉間にはくっきりと深い皺が刻まれていた。無論、あとの三人もそのことにちゃんと気づいていた。気づいていて、知らん顔をしているのだった。

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