一章2 『京都ならぶぶ漬けを出していた』

 夢の中で、僕は空っぽな箱の中にいた。


 光はどこからも差し込まず、あるのは無機質な闇。

 聞こえるは自分の息遣いだけ。

 氷のように冷たい床に、指を滑らせる。そこには埃一つさえ無かった。

 だんだん感触が無くなっていき、床に触れているのか、宙を撫でているのか分からなくなっていく。

 いつの間にか辺りは光とも闇とも違う、真っ白な空間に包まれていた。

 床も壁も天井も白く染まっている。


 いつになったら出るの、この部屋から。

 誰かが僕に問う。

 あの色とりどりの時間は、どこに消えてしまったの。

 また聞こえる、透明な少女の声。

 その問いは、空っぽな宙に消えた。

 沈黙。僕と彼女は黙り込む。


 過去を思い返す。あるいはあの日々へ帰る。

 聞こえるのは、皆の笑い声。

 僕は結局、独りぼっちだったけれども。

 眺めているだけで、楽しかった。その中に入れたら、もっと幸せだったろう。

 けれどもそれは、遠い昔の話だ。


 何も無かった宙。そこにふと、七色の光の粒子が集った。

 床も壁も天井も、鮮やかに彩られている。

 無色の空間が、だんだん色付いていく。

 あの手に入れられなかった時間が今、目の前に広がっていく。

 

 胸の中に様々な疑問が湧いてくる。

 だけどそれ等を少女はどうだっていいじゃない、と一笑に付した。

 幸せな空間に私達が満たされるなら、と。


 一人、一人の世界は、一つの箱。

 私達はここから一歩も出ることができないから、外を確かめる術は無いけど。

 でも誰かを招いて、遊ぶことはできる。わずかな間だけでも、箱を重ねて共有できる。


 喜びも、悲しみも、退屈も、苦痛も。

 記憶も、現在も、希望も、明日も。

 ここも、遠くも、近くも、夢の中さえ。

 そして、本当の自分も。


 私達は箱の中を見せ合うことで、語り合える。

 たとえ君の中身が空っぽでも、怖がらないで。

 求めればきっと、誰かが満たしてくれるから――


 僕はよく分からなかったけど、とりあえず頷いておいた。

 じゃあまたねと少女は手を振り、にっこり笑った。

 彼女は瞬く間に、どこかへ消えてしまった。


   ○


 女の声が聞こえる。


 最初は画面の向こうから聞こえる声優さんの声だと思ったが、少し違和感を覚えた。それは機械を通して聴いたにしてはあまりに近すぎる声だった。それに誰かが僕の肩を掴んで、体を揺すっている。おそらくそいつが僕を起こそうとしているのだ。考えられる候補は二人。一人はこの家で働いている家政婦。家に住み着いている彼女なら可能性は高いかと思ったが、雇ってから一度もこんな無礼なことはされた覚えが無い。となると残る犯人候補は、やかましくてうるさいあの同級生だ。


「……うるさいぞ、心(こころ)」

 目も開けずに文句を言う。これからまた三十時間ぐらいは画面とにらめっこをしなければならないのだ、こんなことで体力を消費するのはあまりにも勿体無い。


 だが返ってきた声は、その二人のどちらのものでもなかった。

「え、心? あ、というか起きてくださいよー! 私、お腹空いてるんですー!!」

 ……耳の奥で反響しまくる心以上にやかましい、というか道路工事のように神経を崩壊させるような騒音だった。僕はその音源の正体を確かめるために、瞼を持ち上げた。


 一瞬、見惚れてしまった。それぐらい可愛らしい少女だった。瞳は優しげで、赤らんだ頬がふっくらしている。だけど顔だけ見ても太っているという印象は無く、小顔だった。背丈は女子にしては大きく、間違いなく僕よりは高かった。服は水色のワンピースで、お洒落だが制服らしい固い雰囲気も感じた。胸囲はおそらく平均程度。

 あと、おそらくこの少女は剣道の類に打ち込んでいる。背筋が物差しを入れたように伸びていること、綺麗な正座も推測の根拠だ。だが彼女は決して強者では無いだろう。手の平の豆が右手にも多いし、間違いないはずだ。


 まぁ、彼女が何者であろうとも、僕の取るべき対応は一つだけだ。

 僕は入り口のドアを開いて、彼女に言った。

「とっとと、帰ってください」

 彼女は豆鉄砲を食らったようにぽかんとしたが、すぐに顔を真っ赤にしてブチ切れた。

「な、な、なんなんなんですか、この小学生!!」


 ……この女は、僕と全面戦争を始めたいのだろうか? まぁ、ここは一つ、大人(まだ中学生だが、電車の料金は大人だし問題無いはずだ)の余裕というものを見せてやろうじゃないか。

「よく分からんが、とりあえず落ち着け」

 僕の言葉は、彼女の怒りにさらに油を注ぐ結果になった。


「これが落ち着いていられますか! 君の部屋に呼び出されたと思った矢先、いきなり出て行けって!! もう、もうっ、もう!」

 彼女がどれだけ怒っても、頬を膨らませてぷんすかという様子なので全然怖くなかった。

「呼び出したって……。僕は何もしてないぞ?」

「しーまーしーた! そこにある機械の履歴を確認してみてください!」


 少女が指を指したのは、埃を被ったスリーディープリンターだった。段ボールより小さなものだが、新しいパソコンやボックスを通販で買った時は世話になった。これさえあれば、外に出ることなくあらゆるものが手に入る。僕達引きこもりの救世主的存在だ。ただ僕には命令一つで何でもしてくれる家政婦がいるから、大して活躍したことは無いが。


 僕は少女の言う通りにスリーディープリンターの履歴を確認した。確かに二時間前、これが作動したという情報があり、数分前に生成完了していた。

 使用材料は三次元のプログラムと表記されていた。数十年前に発見された、原子や分子の元となる万能物質だ。これを使えば人間一人を作るぐらい朝飯前だろう。だが数年前に学んだ先端技術では不可能だったはずだ。引き籠っている間に、技術が飛躍的に進歩したのだろうか?

 いや、そんなことはどうでもいい。問題はプリンターが誤作動を起こして、この招かれざる客を生んでしまったことだ。


「お前の言うように、機械は作動していた。だが僕はこれを動かした覚えが無い」

「じゃあ、運営さんの手違いかもしれません。ちょっとパソコンを貸してください」

 早くブラウザゲームをやりたかったが、まずはこの邪魔者を追っ払うことが先決だったので、大人しくその言葉に従った。


「えーと、あまり使わないからよく分かりませんね……。君、履歴ってどうすれば見れるんですか?」

「……ここをクリックすれば出てくるぞ」

 僕は内心呆れつつも、親切に指で示して教えてやった。まさかパソコンを満足に使えない奴がこの文明国家で暮らしているとは……。あ、こいつはゲームのキャラクターだから違うのか。


「出てきました、ありがとうございます! ……ゲームのサイトは閲覧したみたいですね」

 少女はさっき僕が開いていた、ローディングがやたら長いゲームのサイト名を確認した。

「じゃあ次はメールボックスを……。ほら、やっぱり君が私を呼んだんじゃないですか!」

「は? 嘘だろ……」

 僕は彼女の指さす場所に目を通していった。そこには登録完了の報告とゲームのルール説明が記されていた。


 どうやらこのゲームは、リアルPVP戦を基本としているらしい。つまり外を歩いていて、同じゲームに参加しているプレイヤーに出会ったらその場でバトルをするというもの。引きこもりの僕にはあまり馴染みの無いジャンルだ。そしてこのゲームの最大の売りは、自分のキャラクターとリアルに一緒に生活できることらしい。おそらく僕がゲームのページを出た時にはすでにローディングが完了していて、コンピュータがこいつを作るようにスリーディープリンターに指示を出したのだろう。

「……最悪だ」

「えっと……、ドンマイです!」

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