空に走る

新巻へもん

二人の伴走者

 つかさが死んだ。

 その報は、再び私を闇に沈めた。


 ***


「まあ、事実かどうかはともかく、ドラマチックではあるよな」

「勝利を伝えて死んだって話?」

「そうそう。我ら勝利ってね」

 詞は突如力尽きて倒れる真似をする。


「ばーか」

「何がだよ」

「せめて42キロを走ってからじゃないとサマになんないわよ」

「うう。せっかく目の前の現実を忘れようとしていたのに」


 赤い羽根飾りのついた兜と丸い盾、投げやりを持った詞はしゃがみ込んだ。足元がランニングシューズなのはご愛敬。段ボールを加工して作った重装歩兵の仮装はそこそこの出来だった。今日は地元で開催されるマラソン大会。私が参加したいと言ったら、じゃ、俺もと申し込みをして、こんな格好で現れた。


 青い空にぽかりと浮かぶ白い雲。優しく降り注ぐ日の光。この天気だけでいい気分だった。人生初のフルマラソン。やっぱり晴天じゃないとね。ちゃんと日焼け対策もしてあるから、敏感なお年頃のお肌の心配もしなくていい。わけもなく叫びだしたいほどの高揚感に包まれていた。


 対極的なのはすでにどんよりしている詞。私だって、詞が走るのは好きじゃないのは知っている。めちゃくちゃ汗っかきだし。私のわがままに付き合わせてしまったような格好だった。

「応援だけで良かったのに」

「葵にちょっかいかけようとする不良ランナーを成敗しなくてはならないからな」


 槍を構える詞。大学生にもなってアホ丸出しだ。まあ、仮装ランが認められているので、周囲には変な格好の人もちらほらいるのでそれほど目立つわけじゃない。

「はいはい。それじゃあ、ボディガードしっかりとお願いね」

「おう。任せておけ」


 大口を叩いていたが、詞は見事に10キロでリタイアし、完走した私を前に死ぬほど悔しがっていた。私が詞を目にすることができた最後の数週間のことだ。


 ***


 私が失明してから5年。絶望の淵に沈んだ私をずっと支え続けてくれたのは詞だった。

「葵。スプーンは4時。カレーは6時。薬味が10時で、水は11時かな」

 文字通り私の目となって日常生活を支えてくれた。


 それでも唯一の楽しみだった走ることを奪われて私は塞ぎがちだった。そんな私に詞はある日きっぱりと言った。

「また走ろうよ」

「無理よ」


「いや。3か月後にブラインドマラソンの大会がある。俺が伴走するから」

「ハーフも走れないくせに」

「今度は完走してみせる。あれから俺、トレーニングを始めたんだ」

 半信半疑だったが、詞の熱意にほだされて、早朝の公園で一緒に走ることになる。


 1周2キロの周回コース。なんとなく覚えているが何も見えない中、走るのはとても怖い。朝の冷涼な空気が肌を刺す。小鳥の鳴き声がかまびすしい。頼りはたった1本のロープと詞のガイドだけ。最初は軽いジョギングのペースで走り始める。全身に感じる風は少々冷たいが悪い感じはしなかった。


 久しぶりに風を感じさせてくれた詞には感謝をしていたものの、どうせ10周もすれば音を上げるだろうと思っていた。でも、詞の息は乱れない。路面の情報を伝え、歩行者の存在を知らせながら、私の前を確かな足取りで走っていた。はっはっはっ。詞の息を吸って吐く音がナビゲーターだ。


「もういいよ」

「なんだよ。まだまだいけるぜ」

「うん。でも今日はこれぐらいにしておく」

「今日は、か?」

「うん」


 そんなにすぐに走れるようになるわけじゃない。詞がここまでになるためには、かなりの特訓をしたはずだ。しかも、相当な期間。私が殻に閉じこもるようになってからずっと一人で走ってたんだ。もう物をみる機能を失った両目が熱いもので満たされる。私はロープを手繰り、熱を持って汗まみれの腕にすがりつく。その日から詞と私は2人で1人になった。


 ***


 訃報は突然だった。警察からの電話。

「お気の毒ですが、本宮詞さんは事故で……」

 それ以降のことはほとんど覚えていない。


 慌ただしい葬儀が終わり、私が再び自室に籠る日々を送っているところに、詞の弁護士を名乗る人が訪ねて来る。事務的な挨拶のあと、柔らかな声の女性は驚くことを言った。

「本宮さんはあなたに全財産を遺贈することを希望されています」


 2000万円という金額に驚きはしたが、私はどうしても気分が乗らなかった。

「今すぐ結論を出していただかなくても結構です。お預かりしていたこちらを聞いてからお返事をください」

 私の手に小さなものを滑り込ませてきた。それはUSBメモリだった。


 弁護士が帰ってから、私はパソコンを起動し、USBメモリをスロットに刺す。音声操作で中身を改める。中にはファイルが一つだけ。アシスタントの合成音声が読み上げる。

「フォルダには1個のファイルがあります。ファイル名、エーオーアイドットダブリューエーブイです」


「再生して」

「ファイルを再生します」

 少しの間が空いて、懐かしい詞の声が溢れた。


「やあ。葵。元気か。元気ならいいんだ。これを聞いているってことは俺はもう葵には会えないということなんだと思う。そんなことは起こらなければいいと思ってるけど、何が起こるか分からないから。それでさ。うーん。あの時、一緒にテープを切ろうって言ったの覚えてる? 俺が約束を果たせなくなったのにずるいんだけどさ。葵にはまた走って欲しいんだわ。なんてかさ、葵は走ってる時が一番輝いてるじゃん。汗が光るっていうか。でね。これは俺のわがままなんだけど、男性の伴走ははちょっと……。それは俺だけって。うん。なんかキモいな。でも、俺の正直な気持ちなんだ。それで、また、勝手なことをしてって怒られそうだけど、レースで知り合った白鳥さん、覚えてるかな? パートナーが引退を考えてるそうなので、俺に何かあって走れなくなったときに葵の伴走してくれるように頼んじゃってます。あはは。そうそう。そういえば、葵が前にさ、上り坂を走ってると空まで駆けて行けそうって言ってたことがあったよね。ということで、空の上から葵がゴールしてくるのを待ってるから。あ、ちょっとクサかった? きっと、ばーかって言ってるでしょ。分かってる。……本当にごめんな」


「ばーか」


 ***


 爽やかな秋の日。年に何度かしかない晴れの特異日として有名な日だった。目には見えないが青い空の高いところに薄く白い雲が広がっていることだろう。白鳥さんの持つロープの反対の端をしっかりと握った。コンディションは最高だ。号砲が響いてスタートをする。


 白鳥さんのリードで走り出した。やっぱり気温がちょっと高め。今日は汗をいっぱいかきそうだ。白鳥さんの驚いたような声が響く。

「あら。天気雨だわ」

 パラパラパラと雨が地面を叩く音、次いで、私の体に雨粒が当たる。


「詞め」

 走り終えるといつも夕立にあったような体だった奴のことを思い出す。どうやら、ゴールで待っていることができなくなったらしい。ロープの先に二人の伴走者を感じながら、私は前へ前へと足を踏み出していた。


 

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