第16話 猫の真実

 山南敬助の切腹から数日後、斎藤は土方の部屋に呼ばれていた。

「……間者、か」

 随分前から斎藤は土方の命で、伊東の動きを探るためなるべく伊東達の傍にいるようにしていた。

 三番隊の隊士達には悪いと思っているが、はっきり言って幹部で間者らしく動けるのは俺か新八さんくらいだろう。

 だから訳のわからない講義にも顔を出し、つまらない酒席にも同行した。土方さんの部屋へ呼ばれたのも、また伊東関連の指示だとは思っていたが。

 新撰組を抜けろと命じられるとは思っていなかった。

 内心動揺した己に驚きながらも、顔には出さず目の前に置かれた茶を啜った。だが、その茶はいつも小夜が淹れくれていたものとは違う味がする。


「あぁ。恐らく、近いうちにあいつらは動く。

 内部の分裂に監察を潜らせても仕方ねぇしな。永倉は……あいつは冷静に見えて情に厚いところがある。お前なら周りの思惑に流されることなく入り込み、いざとなれば誰でも斬れる」

 適材適所で人を選ぶ土方さんの言葉には説得力があった。それに今まで伊東の近くにいた俺が隊を抜けても間者とは疑われにくい。

 だが、ふと疑問に思った。土方さんは、俺を敵の巣に放り込んでおきながら、俺が新撰組の指示に従い続けると確信しているのか?

 新撰組や局長、土方さんにも忠誠など誓った覚えはない。俺が新撰組に名を連ねたきっかけは、ただ刀を振るえる場所を手に入れるため。

 土方さんに、俺が思い通りに動かせる駒と見られるのも癪だ。

「俺が伊東派に寝返ったらどうするつもりなんだ?」

 土方さんは眉一つ動かさずに答えた。

「斬る」

「俺を斬れる人間が新撰組にいるものか」

 俺を斬るとしたら総司か新八さんか。もし小夜がいれば、本職の彼女に依頼する手もあるか。だがお互い無傷では済むまい。

 黙考する俺を見て、土方さんは、ふっと力を抜いて笑った。

「斬れるさ。伊東みてぇな奴について、それで満足するようなお前なら平隊士にだって斬れる」

「………………ふん」

 俺の全てが剣術にあることを、土方さんは把握している。

――――俺の負けだな

 忠義の心など持ち合わせていないが、尊敬には値する。そう思える相手に出会えた新撰組は、やはり俺の居場所なんだろう。

 伊東と共に隊を抜けたら、しばらくは帰って来ないだろう。いや、もう二度と戻れないかもしれない。それでも俺の居場所は新撰組だ。

 だから小夜、お前も帰って来い。


――――――…



「入れ」


 修練場の扉の前で足を止めると、中から声をかけられた。張り上げているわけでもないのによく響く低い声。

 あぁ、父上の声だ

「まさか戻ってくるとはな。そんなに家が恋しかったか?」

 扉を開けると、父上は中央で腕組みをして座していた。燭台の僅かな光が揺れて父上の顔に影を作っている。その顔が随分と老け込んでしまっている気がした。

 家を出て三年しか経っていないのに……何がこんなに父上から生気を奪ったんだろう

「お久しぶりです、父上。……新撰組を、ご存じですか」

「知っている。俺の獲物だ」

 兄上の話はありがたくないことに本当だったみたい。父上の声には獲物に牙を立てる直前の獣のような獰猛さが滲んでいた。

「私は、新撰組幹部の暗殺を止めに参りました」

 父の眉がぴくりと動き、初めて私に目を向けた。

「俺の仕事に口を挟むのか。随分と生意気になったな」

 生意気……か。確かに父上が決定したことに抗おうとしたのは、兄上が家出をしたせいで家督相続を押し付けられた時以来だ。それも無駄な抵抗に終わったのだが。

 自分の意志をはっきり伝えられるようになったのは、みんなと出会えてからなんだと改めて感じる。

「新撰組のみんなは、私にとっては仲間なんです。だから、」

「殺すな、と?俺に暗殺を止めろと言うのか?」

 父上の眼が鋭い光を放っている。一瞬でも気を抜けば射抜かれてしまいそうだ。

「秋月一族であり"黒猫"の俺に、人を殺すなと?」

――――ぞわり

 父上の眼の奥で何か黒いもの蠢いた気がした。

 それはきっと、何年も何年も秋月一族が背負ってきた……暗くて冷たいもの。

「お前が外の世界で何に出会ったかなど知らん。だが、お前と彼方に人の殺し方を教えたのは俺だ。そして、俺に人殺しの術を教えたのはお前達の祖父だ。

 お前にそれを断ち切れるのか?何百年もの間、俺達の中に流れ続けている人殺しの血を……」

「人殺しの、血……」

「そうだ。俺達は桜姫の血を引く気高い……「っやめて!!」


 人間では、ない

 ”桜姫”

 彼女は秋月一族の先祖と言われている女性で……その正体は、人を喰らう冷酷な猫の妖怪だと伝えられていた。

 秋月一族が幕府から"黒猫"と呼ばれているのも、[蒼猫]も[爪]も、先祖の桜姫が化け猫だからだと……


 幼い頃、私はその話を全ては信じていなかった。

 そんな怖い妖怪が、人間と結婚するわけないもん。きっと何かワケがあってそう言われちゃってるだけなんだ。


 幼い私はそう思い、会ったことも無い桜姫に親しみすら覚えていた。

 でも、今は……

 自分の生まれが呪わしい。

 秋月一族に生まれなければ。

 桜姫が妖などでなければ


 人を殺す必要なんて無かった。普通の娘として生きられた。


「幕府を裏切った父上が、それを、言うんですか?」

 己の中に流れる血への怨嗟を叫ぶ代わりに、そう言い返した。

 幕府を裏切り新撰組のみんなを殺して倒幕派に寝返る。それが父上の目的だと兄上は言っていた。

「あれは裏切りではない。秋月一族の当主だからこその判断だ」

「?」

「もうすぐ幕府は終わる。人を殺し続けるには次なる権力者の下に馳せ参じるしかない」

「父上……」

 私は、少しだけ期待してたんだ。

 もしかして父上は、人を殺すのが嫌になったんじゃないかって。

 だから幕府を裏切ったんじゃないかって。でも甘かったみたい。

 ――――あれ?

 ふと、疑問を感じた。

 ―――どうして、秋月一族は徳川の将軍様に仕えてるんだろう?

 父上は、秋月一族だから人を殺している、と言うけど私達に仕事を依頼するのは幕府。

 そもそも幕府の人達は、どうして私達に人を殺させるのか


「……では俺とお前で勝負をしよう」

「勝負、ですか?」

 小夜の疑問は父の声によって途切れさせられた。

「俺の仕事にケチをつけるほど成長した褒美に、機会をくれてやる。

 俺が勝てば俺は俺の仕事をする。お前が勝てばお前の言い分を聞いてやろう」

 つまり私が父上との勝負に勝てばみんなが死なずに済む……?

「勝負の方法は簡単だ。暗殺の美しさとは、一手で決まる。滅多刺しなど論外だ。

 そして、俺達はこの国で最も美しくあらねばならぬ暗殺者。

 小夜。この俺を一太刀で仕留めてみせろ。俺も一撃しか出さない」

「……」

「解らせてやろう。お前がどれだけ非力な存在か」

 父上はゆっくりと立ち上がり、少し腰を落として構えた。父の目に獲物を狙う蒼い光が宿る。

 ――――ゆらり

 目には見えない霧のように殺気が周りに立ち込める。それを感じ取った途端、身体が動かなくなった。


 ――――怖い


 平静を保とうとしても手足が勝手に震え、歯の根が音を立て始める。

 実家での修業はいつだって死ぬ直前まで追い詰めてきたし、仕事中に肩から腹までばっさり斬られて、ここまでか、と思ったこともある。それでもここまで生き延びてきた。

 それなのに、今は、まるで父の殺気に身体が縛り付けられているかのように身動きができない。みんなを助けるって決めたのに、と自分を叱咤しても身体は動こうとしない。

 やっとの思いで、肩から腕を動かすように刀を鞘から抜いたが、身体の震えは刃にも伝わり切っ先が不安定に揺れる。


「[爪]を使わないつもりか。自ら死に急ぐような子に育てたつもりは無かったが」

 父の目は本気だった。

 父上は、私を殺そうとしている

 怖い、怖いよ……

 誰か――――


(……落ち着いて)


「!」


(相手の手元だけ見ちゃダメですよ。どんな動きにも前触れってものがありますから、それをよく見て)

 頭の中で響いたのは、ここにいるはずの無い人の声……

 不思議なくらい呼吸が落ち着いてきた。小夜の瞳にも蒼い光が宿る。静かに刀を構え直した。

 ”彼”とは逆の、剣先が妙に左へ寄った構え。

 小夜と小夜の父は微動だにせず向かい合っていた。蝋燭の光だけがゆらゆらと揺れている。そして……

 ―――父の右足が微かに動いた。

 そう感じた瞬間に床を蹴った。一瞬でも遅れを取れば、死ぬ。

 父の拳が異常な速さで迫ってきた。ぶぅんと風を切る音さえ聞こえてきそうな、この国で一番気高い暗殺者の拳だ。

 頭の中は真っ白で、もう何も考えられなかった。無我夢中で前へ進む。

 そして……沖田譲りの柔らかい太刀筋は、小夜の刀を父の拳からすり抜けさせた。

 目の前にがら空きになった父の胴体があった。


 お許しください、父上!!


 小夜の刃に躊躇いは無く、紅い血飛沫が辺り一面に散る。

 それからしばらく修練場には荒い呼吸音だけが響いていた。




 二人分。


「……情け、か」

 父は肩を大きく裂かれてはいたが、致命傷ではなかった。

「父上の暗殺を引き受けたのは、兄上ですから」

 床に片膝を付き傷を庇っている父の鼻先に、スッと刀の切っ先を突き付けた。

「その傷なら、しばらく"仕事"はできないでしょう。

 父上、新撰組幹部の暗殺を中止してください。私の目的はそれだけなんです」

 父上は私の父上で、兄上は私の兄上で、仲間は私の大切な人達。

 天秤になんてかけられることじゃない。

 きっと藤堂さんもこんな気持ちだったんだろうな。

 長い沈黙の後、父上はゆっくりと口を開いた。

「……[流拳]が生み出された理由を、俺はまだお前に教えていなかったな」

「理由?」

「[流拳]は一撃で相手の命を奪えるように改良されてきた武術だ。せめて……せめて相手に苦痛を与えぬよう、相済まぬという気持ちが込められている。

 一代目は……いや、秋月一族は、本当はずっと、人を殺したくなどなかった……」

「え……?」

 父の真意を問おうとした時、

 ――――パチ、パチ

 気の抜けた拍手の音と共に修練場の扉が開かれた。


 ――――バンッ

 ――――ドカドカドカッ

 甲冑を身につけた数人の男達が入ってきて、小夜と父を取り囲む。そして文官らしい装束に身を包んだ男が一人進み出てきた。

「ご苦労。彼方殿は中々腕の立つ者を寄越してくれたようだね」

「だ、誰?」

 男はどこか蛇を思わせる目付きをしていて、思わず背中に寒気が走った。

「では早速伝令を出してくれ。『秋月一族、幕府への謀反により現当主を粛清致し候』とでも」

 蛇男の背後に控えていた男が頭を下げて部屋を出て行った。

「……やはり彼方に俺の暗殺を命じたのはあんたか」

「貴方が私の誘いに素直に応じて下さらなかったからですよ」

 蛇男は歪んだ笑みを浮かべて父の言葉に答えると、片手を挙げた。

 ――――ドスッ


「ぐ、ごふっ―――……!」

 蛇男が手を挙げた次の瞬間、甲冑の男のひとりが突然、背後から父の背中を刀で刺した。

「!?!―――……父上!!」

 背中から胸まで深々と刺し貫かれた父は、前のめりになって口から血の塊を吐き出した。

 事態に頭が追い付かない。

 こいつら、何者……!?

「父?」

 蛇男は小夜と、血が付いた小夜の刀を見て、にやりと笑った。

「なるほどなるほど、つまり貴女は秋月小夜ですか。妙ですねぇ、確か『死んだ』と3年前に報告を受けたのですがねぇ。

 まぁ良いでしょう。親子同士の殺し合いとは、如何にも貴方達らしい無様な筋書だ」

 あまりに理不尽な言葉に言い返す余裕も無かった。

 蛇男は小夜に向かって嫌味なほど丁寧に頭を下げた。

「私は、将軍様と秋月一族の連絡を司る者でございます。最近は西の連合にも顔を出していますがね」

「西……」

 烝くんや兄上の話を記憶から辿る。

「幕府はもうすぐ潰れます。生き残るためには沈まない船に乗船しなくてはなりません」

 それは、つまり

「じゃあ、幕府を裏切ったのは……」

「裏切ったなんて滅相も無い。生き残るための手段でございます。

 貴女の御父上にも是非ご一緒願おうと思ったのですがね。中々了承していただけなかったもので、このような手段を取ったのです」

「…」

 裏切り者は、父上じゃなくて……

「彼方殿は既にこちら側。後は貴女だけだ。一緒に来ていただけますかな?」

「っ、冗談じゃない!」

 この男……最低だ

 自分と共に幕府を裏切らなければ殺す、と蛇男が父上を脅した。でも父上は幕府を裏切ろうとしなかった。そして蛇男が父上の刺客に選んだのが兄上……

 父上と兄上はこの男の裏切りに利用されていたんだ。

 蛇男は小夜の返答を予想していたかのようにわざとらしくため息をついた。

「それは残念ですねぇ……では、御父上の二の舞になっていただきましょう」

 ――――ドカッ

 修練場の扉が蹴破られ二十人以上の武装した男達が傾れ込んできた。いつの間にか扉の外にも無数の兵達が動く気配を感じる。

 私のことも始末する気だ。でも、父上や兄上相手ならともかく、ただの人なら何十人いようとも十分戦える。

「今の貴女に、人を殺せますか?……実の父を手にかけた貴女に」

「は?」

 こいつ、何言ってんの。父上は……

 こちらの心を読んだかのように蛇男は嗤う。

「確かに止めを刺したのは我々だ。だが貴女が手傷を負わせていなければあの程度の攻撃、貴女の御父上ならば避けられたのでは?」

「っ……」

 蛇男の言葉に小夜から表情が消えた。その隙をついて男達は一斉に襲いかかってきた。


 ――――キィンッ

 ――――ズバッ


 峰打ちを繰り返す小夜に対して、相手は殺す気で小夜を攻撃していた。徐々に小夜の身体には傷が増えていく。それでも、

 ……誰も殺したくない。

 刀傷よりも、蛇男の言葉が小夜の動きを鈍らせていた。

 私が父上を斬らなければ、父上は後ろから刺されたりしない。私が父上を斬らなければ。でも、私はみんなを守りたかっただけで……でも、私が父上を斬らなければ……

 ――――カァンッ

「くっ!」

 手から刀が弾け飛んだ。

 しまった!

 ここぞとばかりに刃が一斉に向かってくる。

 刀が無くても、刀より鋭い[爪]がある。咄嗟に左手に力を込めた。

 だが、[爪]を使ったら確実に彼らを殺してしまう。

 この人達にも家族や大切な人がいる。殺せない……

 そう思う間に数多の刀が自分の喉元に伸びてくる。思わずギュッと目を瞑った。



「…」

 あ、れ……?

 いつまで経っても斬られる感触が無い。


「おやおや彼方殿。何をしているのです?」

「こいつはおれの妹だ」

 そっと目を開けると、目の前には彼方の背中があった。

 小夜に向かって刀を突き出した男達は既に事切れている。

「相変わらず馬鹿だな小夜は。殺さないなんて柔なこと考えて自分が死にそうになってどうするんだ。殺される前に殺せと何度も教えただろう」

 双眸に蒼い光を灯して溜息をついた彼方の姿が一瞬揺らぎ、次の瞬間には修練場にいた男達はほとんど床に倒れていた。

「ば、化け物だぁっ!」

 生き残った数人も鮮血が滴る彼方の両手を見て逃げ出した。

 あとに残ったのは血まみれの死体と、腰を抜かした蛇男だけ。

「や、約束が、違う……」

「おれは誰にも忠誠を誓ったりしない。お前らの仲間になった覚えも無い。

 お前らはおれ達のことを[黒猫]と呼んでいるんだろう?

 おれ達は猫だ。飼い慣らせたと驕ったそっちの負けだよ」

「何故だ……何故……」

「何故、だと?頭の悪い奴だな。もう一度言ってやるよ。

 こいつはおれの妹だ。生かすも殺すもおれの勝手だろう」

 彼方の手が滑らかに宙を滑り、蛇男は一瞬で絶命した。


「父上!」

 小夜は怪我が痛むのも構わず父の元へ駆け寄った。

 人間からすれば即死してもおかしくない傷だが息はある。震える手で傷を調べていると、妙な臭いが辺りに漂ってきた。

 何だろう、まるで何かが焦げてるみたいな……

「火を放ったか。上司が殺されたのに薄情だな」

「火!?」

 顔を上げると確かに煙の臭いがする。さっき逃げた生き残りが屋敷に火をかけたんだ。

「行くぞ。火が回る前に母屋から百合達を助ける」

「待って。父上も助けなくちゃ」

「や……やめ、ろ……」

 小夜を止めたのは、他ならぬ父だった。

「俺を、ここから連れ出したら……意味が無い」

「何を言ってるんですか、早く…………?」

 頬に乾いた温かいものが触れた。

 最初、それが何か理解できなかった。

 まるで、慈しむかのように頬を包んだ父の手。既に力なく閉じられていた目から一筋の涙が伝うのを、小夜は信じられないような気持ちで見ていた。

「…すまなかっ、た……」

「ち、父上……?」

「本当に、すまなかった……小夜……彼方……」

 するり、と父の手が床に落ちた。反射的にもう一度手を取ろうとしたが、

「もうここは崩れる。行くぞ」

 後ろから彼方の片腕に抱え上げられてしまった。彼方は振り返りもせずに修練場から出ようとする。

「待って、父上が……」

「父上はここに残さなきゃいけないんだ!」

 珍しく声を荒げる彼方だが、小夜は構わず兄の腕から抜け出そうともがいた。だが彼方の力に適うはずもなく……

「下ろして!下ろしてよ!父上!父上ぇ!」

 みるみるうちに父の姿が炎に包まれていく。

 父上が、一人で死んでいってしまう……

 小夜は彼方の腕に抱えられたまま声が枯れるまで父を呼び続けた。


「すまなかったなぁ……小夜……彼方……」


――――――…


 母屋から妹達と、小夜を手引きした女中を助け出し、そして父を炎の中に残したまま彼方の隠れ家へ戻って来た。火事に怯える妹達を女中に任せ、小夜は彼方へと怒りをぶつけていた。

「どうして……どうして父上を見捨てたりしたの?まだ助かったかもしれないのに!

 兄上は知っていたんでしょ?幕府を裏切ったのはあの男で、父上は悪くないって」

「あぁ、知っていた」

「それなら何で父上の暗殺なんか引き受けたの!?利用されてるってわかっててどうして……」

「当たり前のことを聞くな。仕事だからだ」

「っ―――……!!」

 思わず立ち上がりかけた自分を必死で抑えた。

 そうだ。こんなこと、兄上に言っても理解してもらえるはずがない。

 『仕事だからだ』

 兄上がこう答えるって、わかってはいたけど……何か叫んでいないと、炎に包まれる父の姿が頭の中を支配してしまう。

「小夜、少しは落ち着けよ」

「どうして兄上は父上を殺されて平気なのよ!」

 どんなに厳しくても怖くても、たとえある日突然家から追い出されたって……それでも父上は父上。兄上だってそうじゃないの?

「平気なわけ、ないだろう」

 ハッと我に帰ると、兄の目には苦悩の色が浮かんでいた。

「兄、上……?」

「家督相続を放り出してまで、おれが家を出た理由がわかるか」

「……わからない」

「父上は、じきに徳川の世が終わることを大分前から予測していた。それを機に秋月一族は消えるべきだと考えたんだ」

「消える?」

「権力者の前に跪き、殺したくもない人間を殺し続けることを止めようとした」

「あ……」

 修練場での父の言葉が脳裏に浮かぶ。

『秋月一族は、人を殺したくなどなかった』

「二百年前、秋月一族は幕府と"ある契約"をしたことで暗殺を請け負わざるを得なくなった。どんな契約だったのか、きっかけは何だったのか、唯一詳しいことを知っていたのは当主だけ。そして父上は最期までおれ達に話さなかった。

 だが、おれ達の先祖が本当に妖だったのなら……強い力を持つ者はいつだって権力者に利用される。そういうものだろう」


 秋月一族の先祖、桜姫。

 美しい女性の姿を持つ化け猫で、人間を喰らう残酷な妖怪と伝えられた妖の姫。

 彼女が何を思って生き、どうして徳川家に屈服したのか、今となっては知る術は無い。


「近く動乱の世が訪れると考えた父上は、外から情報を手にしようとした。秋月一族にいながら幕府に監視されること無く自由に外を動ける存在。それがおれだ」

「え?じゃあ……」

「おれが家を出たのは父上の意志だったのさ」

 家を出た後は幕府、倒幕派、さらには裏社会に通じる豪商とも伝手を作り、そこで得た情報を父に流していた。

 幕府の力が最も弱まった瞬間が、秋月一族の消える一番良い時期だと考えたからだ。

「だが父上は途中で気が付いた。幕府とのつながりを断つだけでは駄目だと」

 倒幕派が政権を握れば、新しく権力を握った彼らは秋月一族の力を求めるだろう。

「また新政権に目をつけられたら意味が無い」

 父上は考えた。そして、答えを見つけた。

「自分の代で秋月一族が滅んだことにしてしまえばいい、と」

 双子の妹達の存在はまだ幕府に知られていなかった。

 問題は父上、おれ、そして小夜だった。

「だから父上は、お前を家から出したんだ」

『どこかで生きていてくれさえいれば、それでいい』

 三年前のあの日、父上が私に出て行けと言ったのは、私を生かすため……

「幕府とも倒幕派とも手を切り、秋月一族を歴史から抹消する。

 それが父上の目的だった。

 どんなに隠れて暮らしたとしても誰かに存在を知られている限り秋月一族に平穏な生活は送れない。必ず権力者の追手がかかる。

 そして追手を撒く最も確実な方法は、追われている者が死ぬことだ。死人を追っても意味が無いからな。

 当主である父上の死体をもって、将軍家に仕える秋月一族"黒猫"は――――消えた。

 父上は、二百年間おれ達を縛ってきた鎖を解いた。

 暗殺者として生きてきた父上に、いや、秋月一族にとって暗殺は全てだった。それを父上は自ら手放したんだ」


 全てを解き放つため。あとはおれと小夜だけだ。


「今の話、全部、本当なの……?」

 あまりのことに呆然としてしまいそれだけ聞き返すのがやっとだった。

「疑っているのか」

「そういうわけじゃない、けど」

「それなら百合達に会ってくればいい。

 あいつらは[流拳]を知らない。[蒼猫]も使えない。人を殺したことだってもちろん無い。父上はあの二人に人の殺し方を教えなかった」

 兄上と話した後、百合と桔梗のいる部屋に向かった。

 二人はもう落ち着いたらしく、みかん色の着物を着た女中さんの両膝にそれぞれ頭を乗せて眠っていた。

「百合ちゃん桔梗ちゃん、お姉様がいらしたよ」

 小夜の姿を見た女中さんは二人を揺り起こした。

「ん~……あ、姉上ぇ…?わぁ、嬉しい…久しぶりだねぇ…」

 小夜に気付いた二人はまだ寝ぼけたまま無邪気な笑顔を浮かべた。

 幼い頃の私は、こんな屈託無く笑えていたっけ?

「…」

 普通の人にはわからないくらいの微かな殺気を放ちながら、二人の首筋に手を添えてみた。

 しかし、二人は何の警戒もせず殺気を感じた様子も無く、不思議そうに小夜を見上げた。

 父上は、本当に……

「あのね、父上が言ってたの。今、姉上と兄上は大切なお仕事で帰って来れないけど、いつか必ず戻って来るって」

「それでね、あたし達をお外に連れて行ってくれるからって」

「だからあたし達は姉上達が帰って来るのをずっと待ってたの」

「父上の言ってた通りだったねぇ」

「そういえば、父上はどこに行っちゃったのかなぁ。せっかく姉上も兄上も戻って来たのに」

 小夜は二人の言葉を信じられないような気持ちで聞いていた。

 父上が……あの父上がそんなことを幼い娘に言って聞かせてたんだ。

 父上は、本当に秋月一族を解放した。

「そうだっ姉上!聞いて聞いて、あたしね、夢ができたの」

 百合が嬉しそうに笑いながら小夜の袖を掴んだ。

「夢?」

「うん。いつも悠ちゃんがお外の話をしてくれて、たま~にお外にも連れてってくれてね、それでね……」

「悠ちゃん?」

「すんまへん。うちのことや」

 みかん色の着物の女中さんが笑顔で頭を下げた。

「悠ちゃん"こいなか"の人がいるんだってぇー」

「でも秘密って言って教えてくれないんだよぉー」

「こら、余計なこと言わんでえぇの」

 悠は慌てたように二人の頭に、ぽんっと手を乗せた。

「小夜さんに夢の話するんやろ?」

「あっそうそう。それでね、あのね……あたし、お嫁さんになりたいの」


「へ?」


「悠ちゃんみたいに大好きな人と一緒にいて、それから大好きな人と結婚して、お嫁さんになりたいっ!」

 自分にとってあまりにも予想外な答えで呆気に取られたが、やがて胸の中にじんわりとあたたかさが広がってきた。

『大好きな人のお嫁さんになる』

 普通の人から見たら些細な夢でも私達にとってはやっと叶えられる夢なんだ。

 この子達は一生、人を殺さずに生きていける。

 桔梗が笑いながら百合をつついた。

「百合は悠ちゃんのお家に来るお兄ちゃんが好きなんでしょ?」

「ち、ちがうよ!」

「いいなぁ今度はあたしも悠ちゃんに連れてってもらおうっと」

「だだだから違うってばーっ!」

二人はそのままきゃあきゃあ笑って話し続けている。

「すんまへんなぁ騒がしくて」

「いえ…」

 私が家にいた頃は、こんな風に笑い声が絶えないなんて想像もつかなかった。

「小夜さん、お怪我とか大事ない?」

「大丈夫です。……あと"さん"は、いらないです」

 小夜さん、なんてなんだか気恥ずかしい。

「ほなら、小夜ちゃんって呼ばせてもらいます」

 にっこり笑ってから小さな声で、「あの人もそう呼んではったし」と呟いた。

 あの人、って誰のことだろう?

「じゃ改めて、小夜ちゃん」

「はい?」

 悠は小夜の腕に軽く触れた。

「つっ」

 鋭く走った痛みに思わず表情が歪む。

「こんな怪我も火傷もしとるのに平気なわけあらへんやろ。

 意地っ張りなとこがそっくりやなぁ。彼方もいつも何にも言ってくれへんし」

 兄妹やねぇ、と笑いながらお悠さんは手当てをしてくれた。

 すごく手際がいいなぁと思ったら、お父さんがお医者さんなんだそうだ。

 そういえば、父上以外で兄上を呼び捨てにする人、初めて見たなぁ


――――――…


 吹く風に夏を感じるようになってきたある日、沖田はまたあの町医者を訪ねて来ていた。


「……沖田君。あんた稽古休んでへんやろ」

「すごい、やっぱりお医者さんはわかるんですねぇ。少し熱が下がるとどうしてもじっとしていられなくて、あはは」

「堪え性の無い御仁やなぁ、ほんまにもう……」

 診察を受ける度にこの会話を繰り返している。

「それじゃ治るもんも治らんで」

「全く身体を動かさないと、それこそ病になりそうな気がするんですよ」


「あ、沖田はん」

 声が聞こえたのか、お悠が奥から顔を出した。

「こんにちは」

「おおきに」

 お悠がいるということは百合もいるかもしれない。診察を終えた後、庭へ回ってみた。すると、

「あれ?百合ちゃんが二人いる」

 背丈から髪型から着物まで全く同じ少女が庭を駆け回っていた。思わず目を擦ったが、やはり百合は二人いる。

「お悠さん。労咳って眼も侵す病でしたっけ?」

 私の言葉を聞いた悠は吹き出した。

「百合ちゃん達は双子なんよ。左に居るのが妹の桔梗ちゃん。よく見ると違ってはるよ」

 そう言われてもう一度よく見たが、やはり見分けがつかなかった。

「あっお兄ちゃん!」

「こんにちは、また会えたね」

 笑顔で駆け寄って来た少女が百合の方だと判断できたが、もう一人の少女は百合の背中に隠れるようにしてこちらを窺っていた。

「あれ?桔梗、お兄ちゃんに会うの楽しみにしてたんじゃなかったの?」

「うん……」

 桔梗は頷いたが百合の着物をしっかり掴んだまま。小動物のような仕草に沖田は知らず笑みを溢す。まるで新選組に来たばかりの小夜ちゃんみたいだ。

「こんにちは」

 少女の目の高さに合わせるために膝を折った。すると少女は

「…………こんにちは」

 と小さな声で返してくれた。

 もう一度にこっと笑いかけてから、困ったように悠の方へ振り返り手にしていた包みを持ち上げた。

「実はみんなで食べようと思ってお団子を買って来たんです。

 百合ちゃんが双子とは知らなかったので、三本しか買って来なかったんですけど……」

「沖田君。三本て、わしには買うてくれへんかったんか?」

 いつの間にか庭に出てきていた医者がそんなことを言った。

「お父さん、いけずなこと言わんといて。しかも患者さん相手に。うちらはえぇから百合ちゃん達と食べなはって?」

「え?いいんですか!?」

「ふふっ。沖田はん、嬉しそうやなぁ」

「す、すみません。私、甘いものには目が無くて……」


 百合と桔梗は大喜びで、沖田が差し出した団子を左手で受け取った。

「二人共、左利きなの?」

「うん。あたし達の家って左利きが多いんだって」

「…」

「「お兄ちゃーん、遊んでー」」

「こらこら、沖田はんは具合が悪くてここに来てるんよ?」

「「えぇ~」」

「ふふっ、大丈夫ですよ。今日は熱も咳もありませんし。じゃあ何して遊ぼうか?」

 それから沖田と百合と桔梗は、夕日が空を赤く染めるまで遊んだ。

 労咳に侵される前は頻繁に屯所の近くに住む子ども達と遊んでいた沖田は、気持ちが浮き立つのを久しぶりに感じていた。


「すんまへんなぁ沖田はん」

「無理はしてませんから大丈夫ですよ……けほっげほっ」

「……大丈夫じゃあらへんな。ちょっと休んでいき?」

 遊び疲れたらしい百合と桔梗は悠の膝に頭を乗せて眠っていた。そして沖田は悠の淹れた茶を飲みながらその傍らにいた。

 悠は何か縫い物をしていたが、ふと手を止めると顔を上げた。

「沖田はんは、その百合ちゃん達に似てはる子に、想いを寄せてはるん?」

「ど、どどどっ、どうしてですか」

 前触れも無く問われ、茶を吹き出しかけた。

「二人を見る沖田はんの目が、ほんに優しい感じがしてはったから」

「もともと、子どもと遊ぶのが好きというのもありますけどね」

 確かに私は、百合ちゃんと桔梗ちゃんに、小夜ちゃんの面影を重ねている。

 小夜ちゃんがいなくなってもう二ヶ月ほど経つ。

 そして、新撰組からいなくなったのは小夜ちゃんだけじゃない……

「好き、とかはよくわからないですけど……その子、私の前からいなくなってしまったんです。

 もう戻って来ないかもしれない」

 新撰組に居て、失った仲間は数え切れないくらいいる。だけど……小夜ちゃんの不在は、ただ仲間の一人が消えただけにしては重い影を私に落としていた。

「うち、恋仲の人がおるんやけど」

 俯いた沖田に代わって悠がゆっくりと話しだした。

「その人、いつ死んでもおかしくないような仕事をしてはって、会える時もすごく少なくて、いつもいつも不安でいっぱいなんよ」

 明日にはまた出て行ってしまうかもしれない。

 もう会えないかもしれない。

 今抱きしめているこのぬくもりに触れられるのは……これが最後かもしれない。

 共に過ごしている間すらそんな不安に襲われる時がある。

「それは……お悠さんが辛いんじゃないですか?」

 そういえば、新撰組の中には『いつ自分が死ぬかわからないから』という理由で、敢えて独り身を貫いている隊士もいる。

 お悠さんの恋仲の相手は、新撰組のような生き方をしている人なのかもしれない。

「そうやなぁ、何で好いた人と一緒におるのにこんな悲しいんやろって思うことはあります。でも……」

「でも?」

 悠は庭に目を向けたままふわりと微笑んだ。

「それでも、ただひたすら、傍にいたいって思ってしまうんや。

 怖いけど、怖くて相手を信じられなくなる方がもっと怖い。だからあの人を送り出す時は『また会える』って必死で祈るんよ」

「また、会える……」

 悠の笑顔はどこか淋しげだったが、その瞳には力強い光を宿していた。

「せやから沖田はんも、その子を待っとってあげてください。

 ……きっと帰ってきますから」

 私は、小夜ちゃんが帰ってくると心から信じてあげていたかな?

 もし帰ってこなかったら……そしたら悲しい。だから信じて待つのが怖かった。

 でも、お悠さんの瞳を見ていたら、小夜ちゃんは帰ってくるって信じようと思った。

 今どこにいるのか

 どうして出ていったのか

 何もわからないけど、それでも小夜ちゃんは帰ってくると私は信じてみます。

「お悠さんと話したら気が楽になりました。ありがとうございます」

「いえいえ。絶対その子を逃がしちゃあかんよ?

 沖田はんみたいな方に想われるなんてその子も幸せやなぁ」

「そんなことを言うと相手の方に怒られてしまいますよ?」

「ふふっ」

 口元を抑えて笑った悠の右頬にえくぼができる。

「貴女とは、良い友達になれそうな気がします」

「奇遇やなぁ。今うちも同じこと思っとったんよ」

「……ともだちー?」

 悠の膝で眠っていた双子が同時に目を覚ました。全く同じ動作で目を擦ると、悠と沖田を交互に見る。

「悠ちゃんはお団子のお兄ちゃんとお友達なの?」

「あたし達もお団子のお兄ちゃんとお友達?」

 沖田はにっこり笑って二人の頭を撫でた。

「もちろん」

 夕焼けに藍色が交じる空の下、沖田は一人屯所への道を歩いて行く。

「……あ」

 小夜ちゃんは絶対に帰ってくるんだから、やっぱり買っていこうかな

 沖田は小さく微笑むと、少しだけ寄り道をした。

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