第13話 二人の脱走者

慶応三年二月


「あれ?組長がいる」

 浅葱色の羽織に袖を通したサブが驚いたように声を上げた。

「斎藤さんが巡察に来てくれるの久しぶりだよね」

 最近の斎藤は隊務を休んでまで伊東の傍にいる。そのためか他の隊からは「裏切り者の隊」と陰で言われたりもするが、三番隊の隊士達は誰もそんなことを言わない。斎藤を裏切り者だと思っている様子も無かった。

「よっしゃあ!組長がいれば巡察にも気合いが入るよな!!」

「じゃあ昨日の巡察は気合い入れてなかったんだ?」

「ちがっ!"さらに"って意味だよ!」

 前を歩いていた年長の隊士に「これこれ」と諫められて二人は慌てて口を閉じる。

 巡察は何事も無く終わり、三番隊は屯所へ向かっていた。

――――ぽーん

 突然通りを横切るように赤い鞠が跳ねてきた。続けて、ぽんぽんと跳ねる鞠を追いかけてきたらしい幼い少年が飛び出してくる。

「まってー…あっ!」

――――ずさぁっ

 道の真ん中にあった水たまりに足を取られた少年は、三番隊の目の前で盛大に転んでしまった。

「「……」」

 誰も動かない。居合わせた町人達は怯えた顔で、"人斬り集団"新撰組と、その隊列の先に飛び出してしまった少年を交互に見比べている。

 沈黙の中、隊列の中から一人の隊士が歩み出てきた。その若い隊士は少年の前に膝をつき、視線の高さを合わせる。

「大丈夫?」

 少年は怯えた表情を浮かべて震えながら頷いた。転んで擦り剥いたのか膝からは血が出ている。

 それに気付いた若い隊士……小夜は少年の手をとって道の脇にあった井戸まで連れていき、水で傷口を洗い流した。それから手慣れた様子で手拭いを裂き傷を覆った。

「これで大丈夫。あとはお母さんに、怪我したこと、ちゃんと言ってね」

 怯えていた少年の顔にパッと笑顔が咲いた。

「う、うん!おおきに、おね……「太郎ちゃん!!」

 道の反対側から母親らしき女性が物凄い勢いで走ってきた。貫禄あるその母親は小夜から少年をひったくる様にして抱き寄せる。

「ウチの子に何をしたの!?」

「ち、違うんや、お母ちゃん。僕は……「太郎ちゃんは黙ってらっしゃい!」

 逆上している母親は、燃えるような目で小夜を睨み付けた。

「ウチの子に触らないで頂戴!アンタ達なんか、早くこの京から出てってよ!!」

 事情を知らない母親の言葉に、口を開きかけた他の隊士達を斎藤は無言で止めた。

 母親は少年の手を引いて足早に行ってしまおうとする。小夜はその背中に再び呼び掛けた。

「あの、」

「アナタ、人の話を聞いてなかったの!?関わらないでって「これ……」

 小夜の手には、先ほど太郎少年が追いかけていた赤い鞠が乗っていた。母親は一瞬不思議そうな顔をしたが、何も言わずに鞠を受け取り歩いて行ってしまう。太郎少年はしきりに何か訴えているが、耳を貸してもらえないようだ。

 気付けば町は元通りになっていた。固唾を飲んで見守っていた町人達も足早に通り過ぎて行く。小夜は隊列に戻った。

「隊を乱して、すみませんでした」

「謝るようなことはしていないだろう」


「しっかし超超超ムカつくよな!あのお母さんさ!」

 屯所に帰って来てから、サブはかんかんである。

 何に?

 もちろんさっきの母親に。

「別に僕は気にしてないから」

「いやいやいやオレが気にするっつーの!彼方は息子さんの手当てをしただけなのに!」

 ひとしきり怒った後にサブはニヤニヤと笑いだした。

「意外だなー。彼方が怪我した子ども助けるなんて」

「普通の子どもが目の前で地面に激突してたら助けるでしょ。何で笑ってんの」

 小夜の答えにサブは、ひょっと眉を下げた。

「困ったなぁ……うん、困った」

「何が?」

「彼方は、いい奴すぎるんだよ。オレ、困るよ」

「?」

 翌日。小夜はサブが困っている理由を知ることになる。


「彼方。ちょっと来て」

 サブに呼ばれたのは、人気の無い境内の裏庭。木陰の隙間から射し込む日の光は明るい色をしている。

 もうすぐお昼ご飯だなぁ

 小夜はぼんやりとそんなことを考えていた。

「あのさ」

「うん」

「オレ、困ってるんだ」

「僕はサブの様子が変で困ってるんだけど」

 すると、サブは突然泣き出しそうな顔になってしまう。

「ど、どうしたの」


「…………好きなんだ」


「へ?」

「オレは、お前のことが好きだ」


「…………え?」


「気持ち悪いよな。でも、どうしようもないんだ。だから気持ち悪がってもらってかまわない。オレは、お前が好きなんだ!」

 男の自分が、どうして彼方を

 友達になりたかった、ただ、それだけだったのに

 最初は自分の気持ちが恋だなんて思っていなかった。

 隣にいたい友人。尊敬している仲間。それだけのはずだった。

 オレは異常なんじゃないかとか、知られたら避けられるかもとか色々考えて……それでも彼方のことを好きなのは本当の気持ちなんだって気付いて、悩んで。

 あ、でも好きだけどそれは、なんつーか怪しい意味じゃなくてさ……もっと傍にいたい。友達じゃ足りない。って意味で。

 彼方は今、どんな顔してる?知りたいけど、怖くて顔を上げられないよ

 伝えてしまった、なのか、伝えられた、なのか、どっちなんだろう


「ごめん。もう昼飯だよな。行こう」

 サブは俯いたまま、自分の言葉に対する返事も求めずに走り去ってしまった。


――――――…


「小夜。食べ物はきちんと口に入れろ。茶碗を持っているだけでは食事にはならん」

「はーい……」

 斎藤にたしなめられて小夜は我に返った。サブと話してから、何だかふわふわして地に足が着いていないような感じがする。

「どうかしたの?さっきから元気が無いみたいだけど」

「気分でも悪いのですか?それとも何か悩みでも?」

 心配そうな顔をした藤堂と山南から声をかけられて、慌てて笑って見せた。

「元気ですし、悩んでなんていないですよ」

 すると原田がニヤニヤしながら口を挟んだ。

「平助も山南さんもわかってないなー。あれだろあれ!女の子の悩み事と言えば……恋煩い!!だろ!?」

「「!!」」

 思わず先程のサブの言葉を思い出し、無意識に小夜の視線が宙を彷徨う。その視線を追う保護者一同。

「……一くん。午後の稽古は、橘くんを私に任せてくれませんか?」

「奇遇だな総司。実は俺も今日は付きっきりで橘に稽古をつけようと思っている」

 物騒すぎる二人の空気に慌てて割り込んだ。

「ぼ、僕は何も言ってないじゃないですかっ」

「小夜ちゃんって意外と鈍いんですね~。目は口ほどに物を言うんですよ」

「へ?」

「ということで。

 橘くーん!今日の午後、空いてますよね?……ねっ?」

 昼食を食べ終えた後、小夜は一人……タマも一緒のため正確には一人と一匹だが、縁側に腰掛けていた。

 好きって、何だろう

 頭の中で、さっきサブに言われた言葉がぐるぐると回っている。

 私は誰かに恋をしたことが無い。

 万が一誰かを好きになって、その相手が"仕事"の標的になったら困るし。好き、って感情がよくわからない。烝くんのことは小さい頃から一緒にいたいと思ってるけどそれはサブの言う好き、と違うことくらいは時尾さんの話でもうわかっている。

 好きって、何?

『私が女だって知ったらサブはどんな顔をするかな』面白半分でそう考えたことはあったけど、今回は切実な問題だ。

 私は好き、ってのがよくわからない。だから、おざなりにしちゃいけない。好き、が私の想像以上にサブにとって大事な感情かもしれないから。

 サブは大切な友達だから尚更だ。

「うーん……」

 そう思ってすぐに解決法が浮かぶなら苦労しないわけで。

 人を好きになったことがない。それは私がまだ秋月一族から解放されてないからなのかな。

『秋月一族が人にもたらすのは死だけ。相手を思う感情はお前の[爪]を鈍らせる』

 もう家を出て三年以上経つのに、私はまだ秋月家に縛られている。

 そう、例えば今みたいに一人でいると、


『お前に仲間など必要ない』

『今まで散々人を殺しておいて何を言っている』

『奴らは恐れ、憎むだろう。お前の……を知れば……』


「うるさい、うるさいうるさい……!」

 一人になると聞こえてくる囁き。父と兄の声が小夜を問い責める。

 人を殺して生きてきたお前に、人と共に生きることができるのか、と


にゃーん


 呻く小夜に、タマがそっと寄り添っていた。


――――――…


 次の日も小夜は縁側に来ていた。

「あっ!やっぱりここにいた!」

 ぱたぱたと駆け寄ってきたのは藤堂だった。

「斎藤君から、縁側に行けば秋月に会えるって聞いたんだ」

 私に何か用があるってこと?というか……

「藤堂さん、どこか行かれるんですか?」

 藤堂は笠を被り脚絆などを身につけて旅装をしていた。

「山南さんに頼まれて、ちょっと遠くまで出かけてくるんだー」

「そうなんですか……なんだか、嬉しそうですね」

「うん。山南さんって人が良すぎるからさ、普段あんまり頼み事とかしないんだよ。だから僕に頼んでくれたのが嬉しくて」

「藤堂さんは山南さんを慕っているんですね」

「もちろん!江戸にいた頃からかな~」

 それから藤堂はふっと真顔になった。

「でさ、秋月に聞きたいことがあるんだけど」

「はい?」

「あのさ……僕って新撰組を裏切ってるように見える?」

「へ?」

 面食らって思わず聞き返してしまった。

「近藤さんや土方さんとか、他の人に聞いたら説教とか心配とかされそうだから、秋月にしか聞けないんだよ。

 どうかな?僕は新撰組を裏切ってるように見える?」

「どうして、そう思ってるんですか?」

「秋月も気付いてるでしょ?伊東先生が入隊してから隊内がギスギスしてるの」

「……はい」

「伊東先生を新撰組に誘ったの、僕なんだよね」

 以前、隊士を増やすために藤堂と近藤が江戸へ帰っていた時期があり、その際に藤堂が声をかけたのが伊東甲子太郎だった。

「新撰組がもっと良くなると思って伊東先生を誘ったのに、いつの間にか僕は陰で"伊東派"とか呼ばれてる」

「…」

「派、とか関係ないのにね。同じ新撰組なんだからさ」

「それはとても同感です」

「でも今の僕には、伊東先生が悪いのか、新撰組が狭量なのかがわからないんだ」

「どちらが悪い、とかは無いと思いますけど」

 それは考え方の問題だろうし

「僕は、山南さんや新八さんや、みんながいる新撰組が好きだよ。でもね、」

 言葉を切った藤堂の目には強い光と戸惑いが揺れ動いていた。

「もしこのまま新撰組の派閥が広がり続けたら、僕はどっちの立場につくかすごく迷うと思うんだ。だってどっちも大切だから。こう考える僕は裏切り者なのかな、って」

「…藤堂さん、は……」

 言葉を探す間もなく藤堂のことを気遣っていた人達の顔が次々に浮かんできた。

「裏切ってはいないと思います」

「どうしてそう思うの?」

「うまく言えないんですけど……みんな藤堂さんに裏切られた、なんて思ってないからです。伊東参謀の傍に居ても師匠や山南さんは藤堂さんのことを仲間だと思ってますから」

 うんうん、これは事実だ。みんないつも藤堂さんを気に掛けているもん。裏切られたって思ってる様子も無いし。

「だから大丈夫です」

「……」

 藤堂は深呼吸をして目を閉じた。

 江戸で剣術を学んだ日々。伊東先生の語る理想の世界。

 山南さんの穏やかな声。伊東先生の熱の籠もった口調。

 剣を振るい続ける試衛館の仲間。お互いの思想を語り合う仲間。

 どちらかに身を寄せなければ、と焦っていた心がすぅっと静まったのを感じ、ゆっくりと息を吸い込んだ。

「ありがとう。僕、ちょっと焦り過ぎてたみたい」

「何もしてませんけど、どういたしまして」

 よしっ、と藤堂は勢い良く立ち上がって伸びをした。

「じゃあ、行ってくる」

「気をつけてくださいね」

「ひと月以内には帰ってくるよ。またね、秋月」

 白い歯を覗かせてにこっと笑い、手を振りながら駆けて行った。

 その後ろ姿がふわりと消えてしまいそうに見えるのはきっと気のせいだ。

 自分の言葉が少しでも誰かを元気づけられたかもしれないと思うと何だか嬉しくなった。


「おめでたい男だな」

「――――――!?!」


――――キィィィンッ


「何しに来たの」

「ふん、わざわざ妹の顔を見に来てやったのに大層なご挨拶だな」

 ……それは私の台詞だよ

 池田屋騒動で会った兄、秋月彼方の刀と自分の刀が交差しギリギリと音を立てていた。

 一瞬でも動作が遅れていたら頭と体が離れていたかもしれない。

「何しに、来たの」

 いくら幕府に仕える秋月一族でも、新撰組の屯所に勝手に侵入して良いはずがない。

「お前に一つ忠告しに来た」

「忠告?」

 彼方は力を抜いた。小夜も警戒しつつ剣先をわずかに下げる。

「家に戻れ。父上に会ってこい」

 予想外の言葉に思わず眉を寄せるが、返答は考えるまでもない。

「断る」

「ほう」

「私は父上に追い出された身。戻れないし、戻る気も無い」

 兄上の意図はわからないけど、新撰組から離れるなんて嫌だ。

 小夜の表情を見た彼方はため息をついた。

「だから忠告だと言ったんだ」

「?」

「もう一度言う。家へ、戻れ」

「やだ」


「父上が新撰組幹部の暗殺を計画していると言ってもか?」


「え……?」

 新撰組のみんなを、暗殺?


「別に信じなくても良い、おれは困らないからな。お前の仲間が死ぬだけだ」

「どういう、こと」

「止めたいなら父上に直接会って説得しろ。忠告はした。じゃあな」

 彼方は薄笑いを浮かべたまま音も無く消えた。

 何で?父上がみんなを……?

 私の父親が、私の仲間を殺そうとしている。

「何、それ……」

 訳がわからない。だって秋月一族は幕府に仕えているはず。一体どうなってるの?


「秋月君」

 混乱したままどれだけ時間が経っていたのか。振り返ると、そこには黒い羽織姿。

 考え込んでいたせいで気配にも気付かなかった。

「……何か御用でしょうか、伊東参謀」

「いや、大した用は無いがね」

 怪しげな微笑にぞわぞわと寒気がする。

 悪いけど、藤堂さんが伊東参謀のどこを尊敬してるのか私にはわからないや。

「前々から思っていたのだが……キミは、美しいな」

「は?」

「ボクは美しいモノが大好きだ。キミは、ボクの下で働くのにふさわしい……」

 もしかしてこれ、「引き抜き」?

 ジリジリと後退して身構える小夜を、伊東は気味の悪い笑顔で追い詰める。

――――スッ

「伊東先生。こいつに何か用ですか」

 その時、斎藤が素早く二人の間に割って入り背後に小夜を庇うように立った。

 よ、良かった

「あぁ斎藤君。秋月君に茶でも頼もうと思ったんだが、どうもボクは怖がられてしまっているようだ」

 うそつき!と叫びそうになる。お茶なんて一言も言ってなかったくせに。

 でも斎藤さんが来てくれればもう大丈夫……

「秋月。幹部付きの小姓が、参謀に失礼な態度をとるな」

 驚いて顔を上げると、苛ついたような顔をした斎藤が目に映る。

 え?斎藤さん?

「やめたまえ斎藤君。さらに怖がらせてどうするんだい。

 というわけで秋月君。ボクの部屋に茶を一杯持って来てくれないか」

「…」

「キミの茶は美味いからね。他の人に頼んだりしないでくれよ。

 キミが、淹れて持って来てくれ」

「……かしこまりました」

「ふふふ。待っているよ」

 機嫌良く去った伊東を見送った斎藤は小夜の方を見もせずに歩き出し、

「いいか小夜。絶対に伊東の部屋で長居をするな」

 すれ違いざま、早口で囁いた。

「?斎藤さ……」

 呼び掛けたが斎藤は何事も無かったかのように行ってしまう。

「…」

 行きたくないけど、命令に背くわけにはいかない。

 兄の忠告。伊東参謀。強い不安に、目が回りながら勝手場へ向かった。


「秋月です。お茶をお持ちしました」

「入ってくれ」

「……失礼します」

 読み物をしていた伊東の前に茶を置き、一刻も早く部屋から出ようと踵を返す。

「あぁ、噂通りキミの茶は絶品だね。

 血まみれの手で淹れたとは、とても思えない」

「?」

 意味深な言葉に思わず襖にかけた手が止まってしまった。

「キミは、幕府の暗殺を請け負う秋月一族の者だろう」

ドクン――――

「……暗殺?一体何の話でしょうか」

 平静を装いながら、頭の中がぐるぐると回る。

 何で?どうして家のことを知ってるの?

 まさか、近藤さんか誰かが……

「隠す必要はない。秋月一族のことなら調べてある。暗殺を生業としていることも幕府と直接繋がっていることも。それから、キミ達が人間ではないということもね」

「…」

 片目を瞑ってみせる伊藤参謀。その仕草が何を表現しているのか皆目見当がつかない。

 でも、どうやら新撰組の誰かが言ったわけではないみたい。

 私に人間以外の血が流れてることは、烝くんにすら言ってないんだから。

「ふふ。ちなみにまだ誰にも言っていないよ。ただ、局長には知らせた方が良いか迷っているんだ。『新撰組には化け物がいる』なんて噂になったら困るだろう?

 ……おやおや」

 小夜は瞳に蒼い炎を燃やし、伊東の首筋に[爪]を突き付けていた。しかし伊東は涼しい顔のまま言葉を続ける。

「やっと本性を見せてくれたね、やはりキミは化け猫だ」

「っ」

 私が秋月一族という事実が漏れただけなら何とか言い返しようもあるのに……幕府の人しか知らないはずなのにどうして。

「ボクを殺すのはお勧めしないな」

「……どうして」

「キミ達一族に関する情報を記した書状を部下に持たせてある」

「!」

「ボクを殺せば、書状は局長の所へ届けられるだろうねぇ」

「…」

「つまり、キミは黙ってボクの話を聞くしかないんだよ」

 小夜は歯を食い縛って手を下ろし[蒼猫]も解いた。

「さて、新撰組にキミの正体が露見しない良い方法がある。何だと思う?」

「ここであんたを殺す」

「思っていたより頭が悪いな。さっきの話が理解できていないのかい?」

「…」

 小夜の握り締められた手が震えているのを満足そうに眺めながら、伊東は再び口を開いた。

「キミが新撰組を抜ければいい。簡単だろう?」

「なっ……」

「キミの力は美しい。ボクはキミの力を拒んだりしない。だから、キミはボクの側に来るべきだ」

 その後、伊東は何か話していたが全く耳に入って来なかった。

 何で?どうして兄上も伊東参謀も私を新撰組から離そうとするの?

 私は、仲間でいたいのに……

「……というわけだ。色良い返事を待っているよ、秋月君」

「あぁ……瞳に蒼い光を湛えたキミが、ボクの意のままに、その爪を振るう場面を想像するだけでゾクゾクするよ、ふふふふふふふ」

 小夜はふらふらと自室に戻ってきた。色々なことが一度に起きて、頭が追いつかない。

 兄上が屯所に来て、父上が新撰組のみんなを暗殺する気だと言った。

 伊東参謀が、私の正体を知っていた。烝くんにすら言っていないことまで。

「私は、どうすればいいの……?」

 父上を止めなくちゃ。みんなが殺されてしまう。

 いくらみんなが強くても本気の父上に適うはずがない。

 それに伊東参謀が近藤さん達に私のことを話してしまうかもしれない。

 私に人間以外の血が流れていると知られたら……嫌悪に歪むみんなの表情が目に浮かぶ。

 いやだ。いやだよ。

 父上のことにしろ伊東参謀のことにしろ、私はもうここにはいられない。

 みんなに危害が及ぶ前に、そしてみんなが私の正体を知る前に、いなくならなくちゃ

 畳んである浅葱色の羽織に目をやった。

 新撰組は、ひとときだけでも私の居場所になってくれた。だけど、いや、だからこそ、

「……行かなくちゃ」


――――――…


 真夜中過ぎ。屯所の灯りはほとんど落とされている。起きているのは、仕事に追われる副長や寝酒を楽しむ隊士くらいだろう。

――――スッ

 静けさの中、ある部屋から音も無く人影が出てきた。

 誰にも会わないよう注意を払い角を曲が……

「こんな時間に、どこへ行くのですか?秋月君」

「っ!」

 顔を青くした人影――小夜の前には……穏やかに笑う山南が立っていた。

「こ、こんばんは。僕は……ちょ、ちょっと廁へ行くところです!」

「ああ、残念でしたね。廁は反対方向ですよ」

 不覚……

「君らしくない手落ちでしたね。もしや、脱走なさるおつもりですか?」

「え?えっと……」

 あれ?何でわかったの!?さすが山南さん……

 とりあえずなんとかして誤魔化さなくちゃ

「さ、山南さんこそ、こんな時間に大荷物を持って、明里ちゃんに会いに行かれるんですか?」

 山南は廁や散歩、隠れ食いには相応しくない大きめの荷を携えていた。

「否定をしないということは図星ということでしょうか?実は私も今から脱走するところなのですよ」

「……え?」

「奇遇ですね」

「山南さんが?」

「はい。私が」

「え、え?……何、どこから?」

「今の会話から判断するなら、新撰組から脱走しようとしていると考えるのが自然ではないでしょうかねぇ」

 山南さんはくすくす……と笑い出した。

 新撰組には守らなければならない局中法度というものがあり、脱走は切腹と定められていた。だから、もうここには戻って来られない覚悟で部屋を出てきたのだ。

 どうして山南さんが……?

「君にも込み入った事情がありそうですね。私で良ければ話を聞かせていただけますか?」

 山南の部屋に招かれた小夜は、山南には全て話してから出て行こうと考えた。

 誰にも言わずに抜け出すつもりだったけど、それじゃ危険だよね。もし説得できなかったら力ずくで父上を止める自信は無い。

 沖田さんや藤堂さんが信頼している山南さんになら話しても安心だ。

「私は、実家に帰ります」

「それなら土方君に伝えてから行くべきでしょう。忍んで出ていったら脱走になってしまいますよ」

「わかってます。でも……」

「何か特別な理由が?」

「……父が、」

 昼間、彼方が屯所に現れたこと。父が新撰組幹部を暗殺しようとしているらしいこと。そして……伊東甲子太郎が、自分が秋月一族の者であると知っていたことを、重要な部分には触れない範囲で話した。

 幕府の偉い人しか知らない私達の存在を、どうして伊東参謀は知っていたんだろう?

 もしかすると秋月一族自体に何か危険が迫っているのかもしれない。

「家に戻って、父上を止めます」

 それに……私は決着をつけるべきなんだ。私を縛り続けている暗殺者のしがらみを。

「山南さん。私が家に戻る理由をみんなには言わないでください」

「どうしてですか?」

「……知られたくない、です。私の家族が私の仲間を殺そうとしているなんて……」

 不意に鼻の奥が、つんと痛んだ。溢れそうになるものを必死で堪える。

 山南さんは私が落ち着くまで何も言わずに待っていてくれた。


「……あの、」

「何でしょう?」

「山南さんはどうして……?」

 さっき山南さんは『私も脱走するところです』って。

「あぁ。……いえ、君が新撰組と敵対して隊を抜けたのではないと皆に伝える役目を私が負いましょう」

「それじゃあ、」

 脱走せずに新撰組に留まってくれるってこと?

「己と向き合うことは痛みを伴うものです。秋月君ならその痛みを乗り越えられると信じていますよ」

 山南さんなら大丈夫、と思わせてくれる穏やかな微笑み。

「ありがとうございます、山南さん」

 優しく背を押してくれた山南に、ひたすら感謝しかできなかった。

 今度こそ誰にも見つからないように屯所から出なくちゃ。

 注意深く廊下を歩いていると、

――――ケホッケホ、ゴホッ

 苦し気に繰り返される咳の音が襖の向こうから聞こえた。

 あれ?沖田さん、風邪治ってないのかな

―――もう、会えないんだ

 不意に突き上げるような淋しさを感じた。再び鼻の奥が絞られたようになって勝手に息が乱れていく。

「っ、っ……」

 どうして沖田さんの咳が引き金になったのかはわからないけど、気を張っていなければ、何かが崩れてしまう気がした。

 脱走したら二度と戻って来られない。明日、みんなが起きる頃にはもう私はいない。

 それでも私は行かなくちゃ。

 みんなが死なずに済むように。

 みんなが私の正体を知らずに済むように。


近藤さん、土方さん、斎藤さん、山南さん、師匠、原田さん、藤堂さん……

烝くん、サブ……

沖田さん……

―――さようなら


さようなら。私の、生まれて初めての……



 翌朝、西本願寺は騒然となった。隊内から脱走者が出たためだ。

 脱走したのは三番隊の秋月彼方。そしてもう一人……新撰組総長、山南敬助


――――――…


「秋月は脱走したってな」

 伊東は自室にいた。言葉を発したのは彼の前に座った、だらしない着流し姿の男。

「知っているよ。だからボクはこうしてイライラしているんだ」

「密告の書状なんて大層なモン用意してなかっただろ。ハッタリだって、バレてたんじゃねぇの?」

 秋月の正体をバラす気など端から無かった。近藤や土方になるべく情報を渡さずに秋月をこちらへ引き入れる予定だったのだ。

『あんな少年、ボクの魅力でいちころだ』

 とか言ってたくせに全然ダメじゃねぇか

「篠原君。ハッタリという言葉は美しくない。脅し文句と言いたまえ」

「俺にはあんたの価値観が理解できねぇよ」

「だがボクが秋月君の情報を掴んでいることに変わりはない。何なら今から局長に言ってしまおうか」

「本人が失踪した後に告げ口するのは美しいのか?」

「ふむ。それは美しくないな。良いことを言うね篠原君。たまには」

「……秋月の代わりに、俺があんたを斬ってやろうか」


――――――…


「小夜の分際で睨むな」

「…」

 小夜は目の前で悠然と胡坐をかく彼方を睨み付けていた。

 屯所を出た所には当たり前のように彼方が待っていて、二人は彼方が京で潜伏する時に使う隠れ家にいた。

「仲間を救ってやったんだ。礼くらい言ったらどうだ?」

「どうして父上が新撰組を」

 秋月一族も新撰組も幕府側の勢力。なのに何故父は新撰組を狙うのか。

「知っているか?西の諸藩では幕府を倒さんとする連中が、随分前から本格的に動いている」

 それは烝くんから聞いたことがある。

「その倒幕派の間で最近、おれ達の情報が出回っているらしい」

「情報?」

「幕府が飼っている暗殺一族で、一人でも味方にすれば大した戦力になる、ってな」

「!」

 じゃあもしかして、秋月一族のことを知ってた伊東参謀は……

「兄上。新撰組の人が、私達のこと知ってた。血のことまで」

「ふぅん。なら、そいつは西の藩に伝手があるんだろう」

「そんな……」

 伊東参謀は倒幕派に伝手がある。

 思わず立ち上がりかけた小夜を彼方は冷たく笑った。

「脱走した奴の言葉を聞くわけないだろ」

「…」

 そう、だよね。脱走した私はもう仲間じゃないんだ。

「おれ達が人間でないことまで漏れているってことは、先に情報を流したのは幕府側だ」

「どういうこと?」

「幕府の誰かが西の連中におれ達のことを吹聴したんだ」

「つまり、裏切り者がいるってこと?」

「おれ達はその裏切り者を始末しに行くんだが」

 意味がわからず首を傾げたが、すぐに思い当たった。

「まさか、」

「そのまさか、父上だ。父上は幕府を裏切ることにしたらしい。二百年以上仕えてきた幕府を」

 父上が幕府を裏切り、倒幕派に秋月一族の情報を流した。

「兄上は、父上を止めるつもりなの?」

「生憎おれは忠義なんぞに興味は無い。だが"仕事"には忠実だからな」

「仕事?」

「敵の手に渡るくらいなら、ってやつだろう。父上の動きを嗅ぎつけた幕府からおれに"仕事"がきた。『自分の父親を殺してこい』だとさ」

「…」

「だが相手は父上だ。おれでも無傷では済まない。それでお前を呼び戻したんだ」

 飄々と続けられた言葉に全身の血がさっと引いた。

「私を、嵌めたの?」

 兄上は自分の"仕事"をこなすための駒として私を新撰組から抜けさせたってこと?

 じゃあ新撰組幹部の暗殺は?

 安心と怒りが胸の中でぐちゃぐちゃになる。

「ふん。いくら小夜でも手傷くらい負わせられるだろ。それに父上が新撰組を狙っているのは本当だ。西への手土産だろうな。

 つまり、おれ達の利害は一致しているはずだが?」

 私は、父上の新撰組幹部の暗殺を止めたい。

 兄上は、仕事で父上を始末しなくちゃいけない。

「それにお前、妹達を家に残してきただろう。あいつらに家を継がせたくないのなら尚更お前は家に戻るべきだ」

 彼方と小夜には年の離れた双子の妹がいる。小夜が家を出た時にはまだ幼く、修行も始まっていなかった。

「おれがお前にした仕打ちを妹にも与えたいなら別だが」

 かつて家督相続を放棄したことを言っているのだろう。

 秋月家を継いだら、一生、人を殺し続けなければならない。

 そして一度家を離れた私は知ってしまった。秋月一族として生きることが、どれほど閉じられた生き方か。まだ幼い妹達にその生き方を強いるのか……

「父上を始末した後は逃げ続けるか、倒幕派として動くんだな。脱走は切腹、だろ?」

「…」

 私はせっかく見つけた私の居場所から逃げ出してしまった。

 もし父上を説得できてみんなを救えても、もう戻れない。また誰かを殺し続ける日々が待っているんだ。

 自分の前に伸びる道が、どれを選んでも闇へと続いていることに目眩を覚えた。

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