2-04

 月の隠れた薄暗い天を間近に感じる、巨大な大聖堂の屋上に、《水神の女教皇》と呼ばれる美女が、両手を広げて立っていた。


 高潔にして清廉なる彼女は、逃げるでも隠れるでもなく、この場で初めから、《水の神都アクアリア》に住まう人々を守るために能力を行使し続けていた――が。


「……はあ……はあ、はあっ……!」


 絹のように滑らかな頬を、つつ、と伝っていく大量の汗。明らかに体力の限界に達している様子で、しかも今この瞬間、彼女に迫る脅威は疲労だけではなかった。


『ク、ク、ク。ようやく見つけたぞ、《水神の女教皇》。随分と悪あがきしてくれたようだが……既にもう、限界のようだな』


 暗き夜の中天で禍々しい翼を広げるのは、邪霊達を召喚した元凶――《不死王ノーライフ・キング》。しかし王という称号とは裏腹に、その言動はあまりにも賤しい。


『弱き者を守るため、力を無駄に消費するとは、愚かな女よ。無駄な真似をしなければ、この我にも、ほんの少しくらいは抗えたやもしれぬのに。その無駄のために、貴様は身を滅ぼすのだ。後悔せよ――ハ、ハ、ハ』


 低く耳障りな笑い声を上げる《不死王》に――《水神の女教皇》が返した言葉は。


「無駄なんかではありませんし、後悔なんて、しませんわ」

『………なんだと?』


 黒い窪みに見える《不死王》の眼孔に、ぎらり、鮮血のような光が奔る。

 その禍々しい赤に睨まれても、彼女は一切怖じもせず、大きな瞳で見つめ返した。


「〝弱き者〟という名の命など、存在しません――皆すべからく、守るべき、慈しむべき、大切な命ですわ。それを救うために力を揮う事は、この身命を賭す事は、無駄ではありません。命を忘れた不死の者よ、己以外を守る心さえ持てぬ者は――哀れですね」


 凜然とした言葉で哀れみを投げかけられ、《不死王》から溢れ出たのは、岩をも溶かすような怒気。煮えたぎる悪意が、空気を震わす声となって放たれる。


『ク、ハ、ハ――その身、穢れ、朽ち果てても――同じ事が言えるかな!? 我が眷属共よ、慈しみなどという偽善を振りかざし、神を妄信する愚かな端た女を、地に堕とせ!』


《不死王》の合図と同時に、悍ましく朽ちた肉体の《屍人》達が大量に湧き出し、《女教皇》を取り囲む。

《水の神都》の人々を守るため、力を行使している彼女は、その場を動けない――それでも彼女は、迫りくる魔手に身を蝕まれ、脅かされようと、力の行使を止めない。


「……お好きに、なさい。たとえこの身が滅びようと、わたくしは――《水神の女教皇》、リーン=セイント=アクエリアは――決して、屈しません――!」

『フ、ハッ! その威勢、どこまで続くかな!? 守護の能しかない弱者が、助けなど望めず、ただ嬲られるだけの状況で、いつまで!? フ、ハ、ハ、ハ!』

「っ。……く、う……ううっ……」


《女教皇》の――リーンの気高き叫びが、《不死王》の下賤な笑い声に上塗りされる。

 いかに気高くとも、いかに強がれど、まだ年若き乙女たるリーンに、恐怖が全くないはずはなく――心中で、儚くも、求める叫び声は。


(ああっ、誰か……どうか、助けて――)

「悪い―――待たせたな」

「―――えっ?」


 瞬きほどの時、リーンを囲んでいた《屍人》達は、焼滅していた。

 それを成したのは、《世界連結》により創り出した炎剣を携えた、マントの男。


「きゃっ。……あ、あのう……あなたは、一体……?」


 リーンに問いかけられると、マントの男は、簡潔に自己紹介する。


「俺は、ナクト。姓はない。ただのナクトだ」

「! まあ、これはご丁寧に……危ないところを助けていただき、感謝いたしますわ。わたくしは、リーンと申します。どうぞ気軽に、リーン、とお呼びくださいね」


 こんな状況で、つい先ほどまで危機に曝されていた割に、微妙に呑気な自己紹介である。マイペースさで言えば、ナクトに負けていない気がした。

 続いて、残っていた《屍人》を斬り祓いつつ、光剣を振るうレナリアも合流する。


「はっ……たあっ! リーン様、ご無事ですか!?」

「あっ……貴女は、《光冠の姫騎士》レナリア様!? まさか、救援に……?」

「はいっ。微力ながら、お力添えを……――!? な……あ、あの敵は、まさかっ……」


 上空を見上げたレナリアが、中天に座する《不死王》の姿を視界に捉え、青ざめる。


「あれは《魔軍》幹部、《不死王》――444年もの長き時、死気と邪気を吸い続け、アンデッドの王に至ったという不浄の化け物。大昔、ただ一匹で国一つを滅ぼし、不死族の国を創り上げたという伝説を持つ……邪悪の化身が、自ら乗り込んでくるなんて……!」


 体の芯から這い出るような嫌悪感、そして恐れに身を震わせるレナリアに、邪悪の化身と揶揄された《不死王》は、むしろ愉快そうに笑い声をあげた。


『ク、ハ、ハ――我を識るか。伝わってくるぞ、小娘、貴様の恐怖がな。無理もない、我ほど上位の魔物、矮小な人間ではお目にかかる事など、本来あり得ぬからな――!』

「うっ……く、うう……」


《不死王》の威圧に、レナリアがまた一つ、身震いする――が、そんな彼女を庇うように立った、ナクトが放つ一言は。


「――そんなコトはない。お前程度、《神々の死境》には吐いて捨てるほどいた」

「! な……ナクト師匠っ!」


 レナリアの目から、あっという間に恐怖は消え去り、輝く眼差しでナクトを見つめる。

 反対に、恐怖の誇示を遮られた《不死王》は、不愉快と憤怒の形相を浮かべた。


『何だ、貴様は……何が《神々の死境》だ! あそこは我々偉大なる《魔軍》幹部でさえ安易には手を出せぬ魔境! 所詮、愚昧な人間か……下らぬ嘘を吐いた事、その身を寸断して後悔させてくれるわ――!』

「! 危ないですわっ……お逃げください、ナクト様っ!」


 リーンが促してくるも、遅い――《不死王》の繰り出してきたのは、無数の〝黒き炎〟の刃。狙いを定めたナクトを、上下左右から余さず斬り裂かんと暴れまわる。

「ああっ」と焦るリーンの声が上がり、《不死王》は完全に勝ち誇っていた。


『身の程知らずの愚者め! 今しがた貴様が屠った雑魚共と、我を同じと思うたか!? 我は《不死王》、アンデッドの王たる存在ぞ! ハ、ハ、ハ――』


「まあ、うん。さっきの屍達と、大して変わらないと思っているけど」

『ハ。……な、ナニィ!?』


 傍目には、斬り裂かれたように見えただろうナクトは――炎剣ではなく、〝風の刃〟をマントに包まれた体から外側へと放ち、〝黒き炎〟を全て消し払っていた。

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