静かな午後

稲光颯太/ライト

静かな午後

 大学一回生の夏休みに地元へ帰省してある朝起きると、リビングの方からは騒がしい気配がしていた。

 私がリビングに行くと、朝のまだ涼しい頃から起きているはずの母が私に「おはよう」と言いながら父と弟の分の弁当箱に食材を詰めているところで、これから会社に向かう父は朝食終わりに歯を磨いているというタイミングで母の準備した弁当を鞄に入れ、世界的なパンデミックのせいで夏休みがほとんどなくなった弟はまだ八月も始まったばかりだというのにもう高校に行く為の身支度を整えており、玄関の靴箱の上に置いてある自転車の鍵を手に取ると電車に乗って出社する父と一緒に家を出て行ったので、それを見送った私はリビングに戻って朝のニュース番組が映っているテレビを見ると午前八時二十分だった。

 夏休みだというのに早くに起きてしまったなあそれは一人暮らしだったら静かな家の中が今日は騒がしかったせいだ、と考えながら顔を洗うと母が「早起きでいいわね」と言いながら朝食のトーストとコーヒーを食卓に用意しておいてくれて、毎朝こんな具合であれば楽でいいのになあっ数か月前までは私もこの家に住んでいたんだとニュース番組をお気に入りのチャンネルのものに変えて朝食を済ませた。

 母が急かすので部屋着から着替えると洗濯機が音を立て始め、庭の影で涼んでいた犬のベンジャミンに餌をやると喜びまくって息遣いが荒く、しばらく庭の影に私も座って夏の巨大な入道雲が君臨している大空を眺めていると、午後からは綾乃あやのと映画観に行く約束をしてたんだっけかいやそれは明日だわということで今日は一日中暇なのだということに気付き室内に戻った。

 しばらく適当にテレビを眺めていると母は掃除機を掛け始め洗濯機が仕事を終えたことを知らせる音を鳴らすと同時に掃除機を定位置に置いて洗濯籠の中に家族四人分の衣類を抱えて庭へ出た。ベンジャミンと一方的な会話をしながら暑さにも嫌気で構いそれでも母は順調に洗濯物を干し終えて庭から戻り「今日はどこか行くの」と私に問い掛けるので何も予定がないことを教えると「丁度良かったわ今日はベンジャミンを連れてママ友とペット可のカフェでランチするのよ」と言い「でもお昼に宅配が届く予定でもあったからあんた受け取っといてね」と言った。本当に用事もないので私が了解の旨を伝えると少し高級なメロンのケーキが冷蔵庫にあるからそれを特別に食べて良しとのお許しを戴いたのでただ家にいるだけなのに私はちょっと得をした。

 そんなこんなで適当に時間が潰れていきながらも母は昼前に私の昼食を用意して「お洗濯も取り込んでね」と茶目っ気を含ませながら述べたので返事をし、ベンジャミンにリードを付けると庭から玄関まで抱えて運んだ母はママ友との約束の地へと赴いて行った。その二十分後に私が昼食の野菜炒めを食べている最中に郵便配達のおじさんがやってきたので半年ぶりに見る我が家のシャチハタを使い荷物を受け取って昼食を終えて、先程届いた荷物は何だったのかしらと段ボールに張り付けてある伝票を確認すると母のスキンケア用品だったので父と母の寝室に運んでおいてやった。

 これで洗濯物が乾くまでやるべきことがすっかりなくなってしまったと感じながらソファに横になり、テレビをつけ、扇風機を回し、クーラーを二十五度で稼働させ、イヤホンを耳に差し、米津玄師とあいみょんとヨルシカとRADWIMPSの混ざったプレイリストを再生させ、少し高級なメロンのケーキの横に小さめのポテチの袋を用意し、そして午後となった。


 それから一時間半が経った。

 テレビはワイドショーに飽きたのでドラマの再放送を見ていたが前後の話がわからずにちんぷんかんぷんでプレイリストの曲は後半になったのでバラードの割合が多くなり、扇風機はもういらなくなったのでコンセントを抜いてケーキはすぐに食べ終わってしまい残されたポテチだけでは塩気が強いので麦茶で何とか誤魔化しながらもソファで寝転んでいるその体勢だけは一時間半前と何も変わらなかった。

 私はまずテレビに見切りをつけた。何らかの義務感でいくつかのチャンネルをチェックしたがやはり興味を引くものはなく、テレビの電源を切る代わりにスマホのゲームをやり始めた。普段からスマホで音楽を聴くのでゲームの音量はゼロにしており、テレビの音が消えた分だけ米津玄師の『Lemon』が神々しく聴こえながらも忙しく指を動かしながらスマホの中で邪悪さに欠けるデザインの敵をどんどん殺していった。

 私は何となくスマホゲームに夢中になってしまい攻略法をGoogleで調べ始めるまでに至り、プレイリストの最後の曲に当たるRADWIMPSの『告白』が流れていることにも気付かずに夏限定のボスを四回目のトライにしてようやく倒し終えてよっしゃと思わず言うと、クーラーの稼働音と庭の木から発せられるどこか遠い蝉の鳴き声だけが余韻として残ったので少しの寂寥感を覚えてしまいスマホの電源ボタンを押した。

 イヤホンを外して天井を見上げてもただ真っ白なだけの天井には眺めるべき模様もなく暇潰しとしては不合格の極みで、そうだ庭にはベンジャミンと思って目を向けるとそこには何もいない犬小屋だけがあってこの家には私一人だけだったかと思い出した。クーラーが足先に当たって冷えるので設定温度を二十六度で風量をひかえめに変更し、もう一度ベッドに身を倒すとクーラーの音は信じられない程に目立たなくなりこれが最新技術なのか車のプリウスみたいだと思うと庭の蝉の鳴き声がその分だけよく聴こえるようになった。こうなるともう私の意識は蝉たちの魂の叫びにしか興味を持たず、七年ちょっとも土の中で暮らしていたからようやく出てくると種を残すための行動しか考えられないのだわ何て健気で真剣な生き物なのでしょうとバラード曲のオンパレードよりも心動かされていると、ジッという刹那的でちょっと浮いて聴こえる短い音を最後に全ての蝉たちはすっかり黙り込んでしまった。私が目線をあちこちに向けながらそれでも気持ちだけは庭の蝉に向けて待ってみたけれども、十分たっても十五分経っても蝉はもう鳴かずこんなタイミングでみんな死んでしまったのかしらそんなはずはないと思い、その真偽を確かめに庭の木を見に行ってやろうとでも思ったけど本当に身体を動かし始めるはずもなく結局蝉は絶滅したという仮説を立てておいてソファに寝転ぶ身体を仰向けから横向きに変化させた。

 部屋の中は信じられない程に静かになった。クーラーの音は聴こえているはずなのにちっとも気にならないので、私の耳はノイズキャンセリングのヘッドホンを装着した時よりも静寂を確かに捉えていて、庭よりも遠くの方で鳴いている蝉の声を完全に景色の一部として認識することによって蝉が絶滅したという仮説はまだ成り立っていた。目の前のテーブルには一冊の文庫本が置かれていて、父は決して小説など読まないので母かしらと思い手に取ると確実にこの世で高校生しか読んで楽しまないぞと断言できそうなタイトルのものだったので弟の物だと判断する。年間に二冊でも小説を読めば多いくらいの私は四百字詰め原稿用紙の三行分くらいを占領しそうなタイトルの小説いわゆるラノベを読んだことはなかったのだけれど、この静寂が私に完璧な集中力を与えてくれているような気がして今なら何でもできるゾーンに入ったと感じラノベの冒頭を読み始めたが、次第に全てを受け入れそうな集中力は掻き消されてあらゆる設定にケチをつけ始めたのでそっと文庫本を元の位置に戻した。

 天井を見上げると模様が変化した気がする。真っ白なのにと思うと部屋に差し込む陽の光の形が変わってそう思ったことに思い当たったので時刻を確認するとまだ二時十五分だった。もう二日くらい過ごした気もするのに早起きすると時間の経つのが遅いなあと思った時に母が飾っている私の小学一年生の時の絵が目に付いて、そこから小学一年生の記憶が断片的に蘇り綾乃との出会いもあの時だったと気付くと彼女と映画を観に行くのが急に愛おしく思えてきて、その愛おしさになぜか初恋のひろきくんや幼馴染の祐翔ゆうとに加え転校してしまったひなのちゃんの今はどうしているだろうという想像が駆け巡りしばらく妄想にふけった。今のカレシにはどうしても抱くことのできない愛着のようなものが私の心をどんどん満たしていくので、なんだか幸福を見つけたような気がしてこんな想いを文学に表したら素晴らしいのではないかしらといくらか詩的な言葉を思い浮かべてみらけれども自分の語彙は貧弱だったことだけが発見として目立つようになってきたので潔く諦めてみた。

 随分前から本当に一切の音が気にならなくてそれはどうしてなんだろうと研究してみたらいつの間にか目をつむっていたことに気付き、目をつむっていたことに後から気付くなんて初めての経験でもしかしたら今の私は何よりも穏やかな気分でいられるのだわ、ジブリの女の子たちみたいになれるといいなと思っていた幼稚園生の頃の小さな夢を思い出していた。


 ソファで眠りこけて家の電気も点けずにいた私の姿を見つけ、「まったくもう大学生は暇でいいわね」と言いながらママ友帰りの母が夕飯の支度を手伝ってと起こすので私はわざとぐずぐずしてみた。するとその間に父が帰ってきてシャワー浴びてくるからビール用意してくれと言い、部活が休みでちょっと前に帰ってきていた弟が二階から降りてきて姉貴太るぞとソファの私とテーブルの上のケーキがなくなった皿とポテチの袋を見て言う。庭にはまだ疲れ切っていないような様子のベンジャミンがちょこちょこと動き、実は絶滅していなかった蝉がまた少しうるさく鳴いてクーラーの風量も強くなっているし弟はテレビをつけて父はお風呂の中でへんてこに歌い母は夕飯の支度を催促してくるのでその全てに、

「うるさい」

と私は呟いてちょっと自分ではわからないくらいの微笑みを浮かべソファから身体を起こしたのでした。

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