第2話

 夜中に目を覚ますと、布団から抜け出したくないな、という気分になっていた。

 なんとなく、布団のなかでまだぐずぐずしていたいような気持ちで、布団からなかなか抜け出せなくなっていた。居心地がいい。まあ、そうだろう。でも困るのは、居心地がよすぎることなんだよね。まずい。布団から、本当に抜け出せない。スマホをとって、とりあえず親かだれかに状態を説明して、相談しようと思って手を伸ばしたけど、手がどうしても伸ばせなかった。布団のなかから、枕元にあるスマートホンに触れることすらできない。なにこれ。

《きみが悪いんだよ》

「布団? うるさいよ」

《ぼくはもっときみと一緒にいたいんだよ。どうしてわかってくれないの》

「布団のくせにわがまますぎる。早く放してよ。あたしにはすることがあるんだから、いつまでも馬鹿みたいなことはやめなよ」

《ぼくがきみのことを好きだということは信じてもらえる?》

「布団は人間じゃないから、そんな風には見れないかな」

 あたしははっきり言ってやった。布団はちょっとがっかりしたみたいな気配が伝わってきた。布団はどうしようか考えているみたいだった。気味の悪い布団。なにこれ。なんで布団が考えているとかあたしが知らなきゃいけないの? 馬鹿くさ。

《もうひと眠りしたら? ぼくはきみが眠っている間にきみが見ている夢をこっそり見るのが好きさ》

「いい加減にして!」

 あたしはそう叫んで掛布団を引きはがして跳ね起きた。布団のしでかしたことや鬱陶しく話しかけてくる布団の悪意のなさそうなふりをしたわざとらしい作り声なんかに、頭に来ていた。燃やすよ? ゴミの日に出すよ? そう言って脅してやろうかと思った。そういうことを言うとまた布団がなんだかんだともったいぶったことをほざくのだと思うと、いらいらして、また怒りだしそうな自分に気づいて、なんとかこらえた。敷布団を踏みつけて、万年床から去る。

「なんで布団があたしを好きになるっていうの?」

 あたし頭がおかしくなってしまったんじゃないの。お酒でも飲も。酔っぱらって寝ちゃえば、すべてがなかったことにならないかな。自室を出てキッチンに向かい、冷蔵庫のなかの缶チューハイのプルタブを開けて飲む。これを飲んだら、きっと効くはず。

 効かなかった。

 お酒を飲んだ後の三十分後、あたしはお腹が空いたのでコンビニおにぎりを食べた。もういいだろうと自室に戻った。自室には、異様な空気が流れていた。空気が、なにか、おかしい。

《麻美。ぼくだよ。布団だよ》

 まだ話しかけてくるのか。あたしは外出して、そのまましばらく家を空けていたくなった。金銭的な問題で、できないけど。ビジネスホテルとか、行ったことないけど、現在無職のあたしには致命的な金銭的損失になることは目に見えていた。今夜は両親とも旅行に行っていていないけど、あたしの貯金はほとんどないんだから、そんなくだらないことのためにお金を使っている場合ではなかった。

 黙って部屋のなかを見渡した。狭い個室。赤いものと青いものが同じくらいの配分で置かれているため、なんだかごちゃごちゃして見える、あたしのお気に入りの部屋。インテリアに凝りたいんだけど、予算の関係で、安物ばかりに囲まれていて、あたしはちょっと不満だった。仕方がないんだけど。あたしみたいな引きこもりニートは、お金を求めては、いけないんだ。居心地のいい惰眠を貪って安いジャンクフードを食べ、動画でも眺めて生きるべきだ。親が死ぬまでは。死んだらどうする? そのとき、きっとあたしも死んでしまうんだろうけど、そんなことは、もう、どうでもよかった。いつ死んだって結局いっしょなんだし。死ぬときはみんな一人で死んじゃうんだし。死んじゃうからってそれが怖いって逃げまわっていたところで、死から逃げられる奴なんて、どこにもいないんだし。あたしは引きこもりになった時点で、社会から隔離された生き方を選んだようなものだし。社会に所属して生きるのが人間なら、あたしは有害分子ではないが、ある意味、社会に適応できていないものになってしまっていることは確かだ。こんなあたしを、あたしは愛せないよ。

 あたしはゆらゆらと立ち上がり、赤いソファに座った。ソファは柔らかく、フェイクファーの表面で、もさもさとした長い毛が温かく、気持ちよかった。

《あなた、布団が寂しがっていたわよ?》

 このソファーまで口を利くようになったか。あたしはソファーを窓から放り投げてしまいたくなった。出て行けこの家から。しゃべる家具なんてみんな、化け物だ。

《麻美ったらひどいのよ、聞きました? サイドテーブルさん?》赤いソファは万年床横に置いてある小さな机に話を振った。もうやめてよ。これ以上混乱させないでよ。

《確かにひどいと思います。ぼくは麻美さんのためにこんなにぼろぼろになっても頑張っているというのに》

《麻美ー。あたしらもだよー。きみの家に来たときからずっと、きみと仲良くしてもらえてうれしかったんだよぉ》上を見上げると、電灯の変わった個性的な形をしたランプシェードが話しかけてきた。《ただね、仕方のないことなんだけど、ここね、あたしの、埃がすこし溜まりやすいんだ。できればお掃除してくれないかな?》《……掃除? だったらまず我々床に敷いてある絨毯を掃除機で綺麗にしてもらえないかな? 埃がきみは苦手だったよね? ぼくたちはよぉく知っているよ。しょっちゅうハウスダストのせいで喘息の発作を起こすもんね。大人だから喘息が治るなんて言うのは、あれは嘘だね。きみの持病の一つって奴なんだろうなあ》

「もう絨毯うるさいよ。アラジンに出てくる魔法の絨毯ですら寡黙で愛犬のように忠実でしかも空を飛べるんだよ? 有能じゃん。きみも少しは見習ったら? 安い絨毯にはさすがにそれは無理かな」あたしは思わず言った。

《最近ぼくらと遊んでくれていないね。寂しいな》《あたしもよ》《あたしたちもー》《もうずいぶん買ってからあまり使われてなくてこんな狭い場所に閉じ込められたままで、寂しいよ。早く遊ぼうよ》《ねえそろそろ新しい電池を買った方がいいと思うよ。充電切れそうだよ》《コンセントの埃は火災の原因になります。丁寧に掃除をしてもらえませんか》…………

 あたしの部屋のなかが狭すぎると感じるくらい、たくさんの本来は命なきものたちに命の息吹が宿ったかのように、一気に彼らは話し出して、あたしは窒息寸前まで追い詰められてしまった。狭い温泉のなかにところ狭しと詰められている黒い頭の群れを彷彿とさせる、そう芋洗い状態の水のなかにいるみたいで、あたしは不思議な感覚に襲われて、どうしていいのかわからずに、心拍数だけをあげていき、息を浅く繰り返し呼吸を速めた。どうしたらいい。これはいったいどういうことなんだ。

 あたしの部屋にあるすべてのものが自己主張して話し出してしまってきていた。ざわざわと話声が幾重にも重なって、雑音になる。頭のなかでうるさい無数のハエがめいっぱい羽を震わせながら飛びまわっている音を無理やり聞かされているみたいな気がした。ここはどこなの? あたしのいた部屋では、今までこんなこと、起こらなかったのに。フルーツが丸ごとが浸かっている缶詰を開けたときの、あのフルーツがぎゅっと詰まっている感じに似て、頭のなかに脳みそがぎゅうぎゅうづめに詰まっている感じにも似て、身動きがとれない。この部屋はそろそろ飽和状態だった。人の、生き物の気配がして、これ以上はここにはいられない。酸素がなくなる。いや、人の息が多すぎて、呼吸困難になる。息苦しい。窒息、してしまう。それに耳のなかもうるさい。人の声が、まるで人ごみのなかを歩いているような、雑踏のなかのように、大量の人の話し声をこんな狭い部屋で拾ってしまうなんて。声がうるさい。いちいちしゃべらなくていい。部屋の無生物たちがしゃべり出して、その声に紛れて、変なことを言っている声を拾った。

《今日はあなたの命日です》

 は? なに?

《今日はあなたの命日ですよ。麻美さん。早くあの世に旅立つ準備をしてください》

 命日? あたしは今日死んじゃう予定なの? 嫌! まだ死にたくない! 絶対嫌!

 あたしの頭のなかの声は、声を震わせて、お葬式のお別れの際に告げられる言葉みたいに、陰惨に言った。《あなたは今日死ぬのです。本当なんですよ》

「あたしがどこでどうやって死ぬっていうの! 一体どうやって! 根拠もないくせに、あたしを脅すのはやめてよ!」

 そもそもあなただれなのよ?

 そう叫びたくなって、あたしは堪えた。今の声、一体どこから聞こえたの? どこどこのなになにです、とか普通に名乗ってきそうだけど、あたしはそれを聞くのが怖い。知りたくないわけじゃないけど、本当に幻じゃない可能性を信じそうになっている自分も怖い。ああ、またうるさくしゃべりはじめた。ゴミ箱のなかの紙屑一個一個すらわけのわからないことを延々しゃべってる。洟をかんだ後のティッシュがこう言った。《だってぼくら、生きているんだよ!》

 生きている? 無生物じゃないの?

 あたしの足に踏みつけられている絨毯にも命がある。霊魂がある。あたしの目の前にあるクローゼットにも命がある。なかに収納されている洋服たち一枚一枚にも命があって、それぞれ主張したいことがある。机にも命が宿っている。あたしが小学生のころからずっと使ってきた相棒のような学習机にも、もちろん魂がある。飾り棚にも、本棚にも、鏡台にも、パソコンにも。命が、霊魂が、自己主張が。あって。それで。力を持っていて。一個一個が尊くて。大事にしなきゃいけないものたちでいっぱいで。光ってて。神聖で。言いたいことを言って。ああ、狂ってしまう。これ以上頭が狂ってしまったら、あたしは。…………

 布団が立ち上がった。ばさあと音を立てて、あたしよりも背の高い掛布団が、直立不動で立ちすくんでいる。《もうわかったね。きみはぼくのものだよ》

「意味がわからない。あんた、狂ってるわ」

《きみも狂ってるからだろう》

 自室のなかにあるすべてのものが、全部が全部、生命体で、そう、例えるならば八百万の神々が宿っていらっしゃる状態になっていることを、発狂しているあたしに伝えて、布団はいったいあたしになにを求めているのか、それがあたしにはさっぱりわからないんだった。

「なにがしたいの」

 たくさんの息吹が、部屋中の至るところで、息を潜めて、呼気に含まれる二酸化炭素が部屋中に充満していく錯覚を覚える。ぼんやりと部屋中が光りはじめていくような気がした。この光はなに? なにが光っているの? 真っ白くて、そう、本当に、綺麗な光ね。足元を、粉雪よりも白い、綺麗な靄がかかってきた。

『麻美。聞きなさい。おまえはその布団と結婚するのだ。さあ早く、こちらの世界へやってくるんだ。それが神の命令だ。従いなさい』

 どこからともなく天使の音楽隊による天国的な荘厳な音楽が流れてきた。その神、の声を聞いただけで、あたしは感激して泣き出してしまいそうなほど嬉しくなった。神様だ。神様の声だ! すごい、泣いてしまいそう。号泣してしまいそうになって、あたしは頬を流れる大量の涙をぬぐいもせずに、わあわあという雑音のなかで、たった一人でいつまでも座ったまま、すこしも動かないでいた。

 気がついたら、あたしは夜の街をひとりで歩いていた。振り返ると、あたしの住んでいる家があった。どこの部屋の明かりも消えていて、あたしはなんとなく、もうあの家には帰れないんだな、という気がした。早く出て行ってよ、と家が口を利いた。なんであんたにそんなこと言われなきゃいけないの? とあたしは腹を立てた。

《ついておいで。ぼくの愛しい人》

 と聞き慣れた布団の声がして、あたしは布団とともに、闇夜に舞い上がり、翻った。夜の空気は冷たくて、あたしの肌もひんやりと冷たくなっていて、さらりとしていた。嘘?  綿に似た手触りだった。綿? あたし、布団になってる! 二対の布団の影が、道路の上を踊った。


                                                         了

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☆FUTONN☆ 寅田大愛 @lovelove48torata

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