第40話 最長手数 その2

「兄上、自分も創ってみたのです。自信作なのです。確認していただけますか?」

「ほう?」


 政福は目を輝かせながら言うが、表情の陰に躊躇ちゅうちょも見えた。

 宗看は目をまたたかせる。

 政福ももう数えで十三歳にまで成長した。

 隠れて何かをしていることは知っていた。

 それが兄である宗看にしての、とっておきの詰将棋創作だとしたら――さすがは我が弟という気分で愉快になる。


 政福はおそらく自作に自信があるのだ。

 しかし、同時に不安も消せないのだ。

 いや、正確に言うとなのだ。

 努力の結晶である成果物を、尊敬する兄へ披露するというほまれの中にある一滴ひとしずく懸念点けねんてん――もしも、否定的な意見を言われたら? そういう不安である。

 宗看も理解はできるが、そんなものは杞憂きゆうだ。

 いきなり最善や完璧を望むなんて意味のないこと。

 そこからどこまで高められるか、真摯しんしに続けられるか、そちらの方がよほど重要だからだ。


 宗看は笑みをこぼす。

 弟の生真面目さと誠実さに。

 しかし、すぐに表情を引き締めて、片眉だけを上げて言う。


「詰将棋か」

「はい、詰将棋です!」

「自信作か」

「はい、自信作です!」

「それは……そうだな。それは実に楽しみだな」

「期待してください!」


 意識していなかったが、宗看の言葉は軽口めいていた。

 それは期待を大きくしすぎることへの生理的な拒否感から生まれたもので、深く考えた結果ではない。

 期待した結果、裏切られたことがあった人間特有の防衛反応。

『期待しすぎないこと』は宗看の処世術のひとつであった。

 ただ、物事を冷静に対処するために必要な資質でもあったため、切り離し難い癖でもある。


「看恕も解くか……いや、顔色が悪いが、大丈夫か?」

「は……いいえ、実は目眩めまいがしています。すこし休ませてください」

「ああ、構わない。図式は逃げないしな」

「看恕兄上にも解いて欲しいですが、今は休んでください」

「万全の状態で解いた方がお互いに良いだろうしな。なんといっても、政福の自信作だ」

「そうです! 楽しみにしてくださいね」


 看恕はどこか曖昧あいまいな笑みを浮かべ、部屋から出ていった。

 その背中を見送って、政福は心配そうに言う。


「……看恕兄上、あんまり寝てないのですかね」

「かもな。俺の傑作を政福お前より先に解くほど熱中していたから疲労かもしれないな」

「看恕兄上にも挑んで欲しいのですが、真面目ですからねぇ」

「まぁ、そこが看恕の良いところだろうさ」


 そこで兄弟は会話を中断する。


「では、見せてくれ」

「はい」


   +++


 看恕は『大迷路』に対する弟の講評を聞いて、しばらく寝込んだ。

 文字通り熱を出して倒れたのだ。

 その間に見たのはとんでもない悪夢であった。


 ――それは政福がとてつもなく素晴らしい詰将棋を創るという夢。

 兄が瞠目どうもくし、手放しで褒め称えるほどの傑作。

 看恕では追いつけないほど素晴らしいもののだった。


 悪夢はではない。

 悪夢はから始まる。


 看恕は努力の末、政福の作品を上回る詰将棋を創ることに成功する。

 兄も、弟もその作品が解くことを諦めるほど難解かつ華麗な作品だ。

 二人は輝くような眼差しで看恕に称賛を送る。


「兄上、素晴らしいです!」

「さすがは我が自慢の弟だな!」

「僕では兄上に勝てません」

「俺の後継者はお前だ」


 そして、密かに想っている一茶からも――。


「私はあなたのことが――」


 ――という良いところで看恕は目を覚ましたのだった。


 目を覚ました後、看恕はしばらく動けなくなった。

 ばくんばくんと鼓動の音がうるさい。

 ぬるり、と脂っぽい汗で着物が張り付いて気持ち悪かった。

 しかし、それ以上に気持ち悪いものがあった。


 それは看恕の心根。

 それは最悪の夢に相応しい。


 何が最悪かというと、看恕は詰将棋の創作をほとんど行っていない。

 創ろうとしていないわけではないのだが――完成させられることができないのだ。

 創っている時にふと頭をよぎるひと言があった。


 


 兄や弟たちが納得する出来の創作ができるのか。

 期待はずれだと失望させるのではないのだろうか。

 そう思うと完成させられない。

 想像の中では兄が褒め称え、弟が観念するほどの傑作なのだが、影も形もないそれは絵に描いた餅以下。


 看恕は結果だけを欲した。

 その浅ましさこそが――悪夢であった。

 

 看恕は高潔な人格であり、才能も人並み以上に有していた。

 期待に応えるために必死だったのだ。

 それに値する努力家であったし、真剣だったのだ。


 故に、振り切るまでに多くの時間が必要だった。

 それでも立ち直れないほどのきずではなかった。


 そう考えていたのは、だった。


   +++


 翌日、看恕は宗看の部屋へ足を運んだ。

 精神的に立て直した看恕は気合を入れ直すために稽古けいこを頼みに行ったのだ。

 一方的に敗北するかもしれないが、それでも構わない。

 全力を尽くして挑みたいと考えたのだ。

 むしろ、全力で叩き潰されたいと考えていた。

 余計な考えを吹っ飛ばすためには、無心になって将棋を指すのが一番である。


 しかし、看恕はふすまを開けた瞬間、思わず顔を歪める。

 見たことのないものに遭遇したからだ。

 そこには見たことのない表情の宗看がいた。

 どう言葉にすれば良いのか分からない。

 目を見開き、口は半開きの状態で凍りついたように動かない。

 衝撃を受けている――というのが一番わかり易い表現だろう。

 瞳に強い力が込められている。

 しかし、そう簡単に言えない点があった。

 半開きの口元からはよだれが垂れている。

 呆けているような緩みも見えるのだ。

 看恕は声をかけるのに躊躇ちゅうちょするが、こちらに気づく様子もなかった。


「……兄上?」と看恕が声をかけると、宗看は慌てた様子で口元を手の甲で拭った。

「っ、看恕か」

「どうされたのですか」

「いやな……実は……いや、百聞は一見に如かず、だな。お前も解いてみろ」

「兄上が創った詰将棋ですか?」

「いいや、違う」

「では、昨日言っていた政福の詰将棋ですか?」

「そうだ」

「そうですか……」


 忘れていたわけではない。

 目を逸らしていただけ。

 ただ、兄である宗看が見たこともない表情をした時点で答えは出ていた。


「兄上は既に解いたのでしょうか」

「まだだ、底が見えん」


 看恕は藁半紙わらばんしに書かれた詰将棋に向き直った。

 一見しても非常に難解な作品であることは確かである。

 宗看の作品と比べても遜色がない、恐ろしく緻密かつ繊細な意志が込められていることが伝わる。

 専念したからといって、その場で解けるものではなさそうだ。

 宗看がポツリと言う。

 

「……なぁ、看恕。俺はな、おそらく傲慢だったんだろうな」


 そう思わさせられるだけの作品である、ということ。

 看恕は首を横に振って否定する。


「伴った実力があるのですから、そんなことはありません」

「そうだな。伴った実力があれば、だな」


 看恕はそれ以上言葉を重ねることなく政福の創作した詰将棋に向き直った。


「――――――――――え」

 

 いつの間にやら夕日が室内を照らしていた看恕は信じられない想いだった。

 気がつくと数刻が経過していた。

 まるで大渦に飲み込まれたかのような錯覚に陥っていた。

 政福の作った詰将棋は終わりが見えない。

 龍を動かす手順が何度も繰り返され、繰り返され、繰り返され……。

 ただ、一つの事実には気づいていた。


「あ、兄上…………っ」


 そして、宗看を見て、更に瞠目した。

 おのの


  +++


 さて、唐突であるが、長手数への挑戦はどの時代でも見られた跡がある。

 歴代の将棋家たちは下記のような手数の詰将棋を創っている。


 初代大橋宗桂『象戯力草』六十九番。

 三十九手詰め。

 二代大橋宗古『将棋智実』百番。

 六十一手詰め。

 三代大橋宗桂『将棋衆妙』百番。

 五十九手詰め。

 初代伊藤宗看『将棋駒競』九十六番。

 五十五手詰め。

 五代大橋宗桂『象戯手鑑』九十八番。

 六十三手詰め。

 二代大橋宗印『将棋精妙』九十六番。

 九十九手詰め。

 三代大橋宗与『将棋養真図式』二十八番。

 五十五手詰め。


 そして、伊藤宗看『将棋無双』七十五番。

 二百五十五手詰め。


 いかに宗看の『将棋無双』が異常な出来なのかは想像できるだろう。

 余談であるが、八代大橋宗桂(三男である伊籐宋寿の後の名)は『将棋大綱』百番において、三百二十一手詰めを完成させている。

 しかし、それは一七六五年(明和二年)に献上した作品であり、三十年以上も未来の話である。


 伊藤家五男、伊藤看寿政福はわずか十三歳にして恐ろしい傑作を完成させる。

 

 『将棋図巧』百番。

 別名を『寿ことぶき』。


 その手数は――


 宗看の二倍以上の長さの作品である。

 正に驚天動地。

 奇跡のような一作であった。


  +++


 看恕が瞠目したのは二つの事実からだった。

 一つ目は、政福が創作した詰将棋が兄の二百五十五手詰めよりも長手数であろうという事実。


 そして、二つ目が――。


「うっ、くっ、はっ……」


 宗看は大きな右の手の平で顔面を覆っていた。

 手の平の下端したはしから水がしたたっていた。


 

 


 見たことがない事実に、看恕は言葉を失っていた。


  +++


 その時、宗看は抑えられない感情に振り回されていた。

 二十数年ぶりの涙に翻弄ほんろうされていた。

 それは悔しかったからではない。

 これ以上はないと思った自分の想像を簡単に超えられたことに涙していた。

 それは己と政福との差を痛感したからではない。

 宗看はしていた。

 涙を流すほど嬉しかったのだ。

 深い喜びに満たされた結果、涙が零れ出たのだった。


 兄が死に、もう泣かないと決心した、あの幼き日を忘れたことはなかった。

 一生分の涙を流し尽くすほどの、あんな悔しくて辛い想いはない。

 事実、今宗看が抱いている想いは怒りで身を焦がし、二十数年間も涙を乾かす生き方を強いるほどのものではない。


 しかし、そんな怒りや決心は簡単に瓦解がかいしていた。

 誰にも文句を言われないほど宗看は研鑽けんさんを積んできた。

 あの世の兄にもとどろけとばかりに。

 鬼というあざなを与えられるほどに。

 生きるために戦い続けてきた。

 それは宗看の誇りでもあった。


 それでも我慢できなかったのだ。

 看寿政福という圧倒的な才能の輝きに。

 奇跡の如き一作に宗看は感謝し、涙を流すしかなかった。


 その時だった。


「兄上ー。出稽古でげいこから帰って参りましたー」


 政福が帰ってきたのは。

 ドタドタと騒がしい足音と共に戸を開けて。

 涙を流す宗看を見て、政福は固まる。


「え?」


 宗看は慌てて顔を拭う。

 看恕は固まっていた状態からぎこちなく動き出す。

 政福は困った顔で二人を見るが、しばらく唸っていたかと思うと、ポンと拳底を手の平に打ちつけた。


「兄上!」

「ど、どうした」

「鬼の目にも涙ですね!」


 下らない冗談めいた言葉だった。

 宗看は目を丸くして、それから笑い出す。


「そうだな」

「それとも、鬼の霍乱かくらんというやつですか!」

「そうかもな」


 ケラケラと笑う宗看と政福。


 それを見て、看恕は理解できない状況に言葉を失っていた。

 ただ、何かとてつもない歴史を揺るがすほどの傑作が手の中にあることは理解していた。

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