第41話 献上

 朝の打ち水のおかげか、残暑の厳しさも和らいでいる。

 しかし、気温以上に健やかな朝だと感じるのは、兄の眉間に刻まれた皺が消えているからかもしれない。

 憑き物が落ちるとは、正に今の兄を表した言葉なのだろう。

 政福は眉間が穏やかな兄を生まれて初めて見た気がする。

 ただ、晴れやかとも違う。

 どこか達観した空気が流れていた。

 厳しい修行を終えた後の僧のような気配さえ漂っていた。


 享保十九年(一七三四)の夏であった。

 宗看と向き合った政福は畳の上に並べられた二冊の本を見ながら、頭を下げる。


「おめでとうございます、兄上」

「ああ、ありがとう」

「ようやく完成しましたね」

「そうだな。長いようで短かったよ」


 ――もっと良いものを。

 ――より完璧な図式を。


 その思いから、宗看の献上図式は完成は延びた。

 名人就位から既に六年の歳月が経ち、政福は十六歳、宗看自身も二十九歳になっていた。

 ただし、時間と労力をかけただけの成果はあった。

 精緻を極めた献上図式は過去に類を見ない、傑作として完成していた。

 それこそが、後の世で『将棋無双』と呼ばれ、古今最難関とされる詰将棋作品集である。


 献上図式は二冊で成立していた。

 一冊が図面を載せた問題本であり、もう一冊が筆写の解答本である。

 表紙は金泥(金をにかわで溶いた顔料)を使った華美な装いだった。

 しかし、外見以上に中身は豪勢なものに仕上がっていた。

 古今東西、この域に達したものはない。

 それどころか影を踏むことさえもできた作品は存在しないのだ。

 政福はただただ感嘆の息を漏らしながら言う。


「きっと上様も御満足される事でしょう」

「ああ」

「しかし、苦労した甲斐がありましたね」

「ああ」

「これは歴史に残る素晴らしい献上図式だと思います」

「そうだな」


 宗看の言葉は短い。

 今までの名人とは比べ物にならないほど素晴らしい献上図式を創り上げたのに淡々としていた。

 喜ぶ気力も残っていないほど疲れ切っている、というわけではないだろう。

 あまりにも凄まじい作品を創り上げたため燃え尽きた、というわけでもない気がする。

 政福は疑問を訊ねる。


「……兄上? どうされましたか?」

「この献上図式は確かに素晴らしいものだ。そこに疑いはない」

「はい、同感です」

「しかし、一つ大きな懸念が生まれた」

「そ、それは一体……?」

「うむ、素晴らしいものを創りすぎたかもしれん」


 政福はぽかんと口を開ける。

 言葉を失っていた。

 どう反応すべきか分からない。

 すこしだけ考えてから恐る恐る訊ねる。


「それは自慢でしょうか?」

「半分は違う」

「半分正解なら自慢では……?」


 政福の疑問は黙殺された。

 そこで宗看はようやく笑う。

 どうやら自慢ではない残り半分は冗談だったようだ。


「俺の献上図式は難解無比。芸術の域に達している。そこに異論はあるか?」

「ありません。その通りです」

「では、同じ域に達した作品が今後も続くと思うか?」

「それは……」

「敵わない、と献上図式という文化が廃れることもあるかもしれない」


 兄の懸念は理解できた。

 ここまで素晴らしいものを創れる人間がそうそういるわけがない。

 正直、挑む度に至福を味わえるこの図式集が異常なのだ。

 ここまで高度な作品が次にいつ生まれるか、そもそも、本当に生まれるかどうかは誰にも分からない。

 しかし、政福は物心ついてからずっと宗看に育てられている。

 故に、兄が伝えたいことは既に分かっていた。

 政福は不敵に笑う。

 やや自分でも大仰なほどに。


「兄上の目は節穴ですね」

「ほほう? 俺の目が? どういう了見か?」


 宗看は我が意を得たりとばかりにとても楽しそうだ。

 政福にならったのか、口調も芝居じみていた。


「兄上の目の前にいるではありませんか」

「ほほう、それは俺を超えるという意味か?」

「その通りです!」

「確かに政福の『あの』六百十一手詰めは素晴らしかった。だが、あれから悩んでいるのではないか?」

「いえいえ、今は飛躍前の助走の時間なのです」

「あれ以上の作品を創れるのだな?」

「ええ」

「高く、高く飛ぶというのだな?」

「はい、私は兄上でさえも思いつかなかった詰将棋を現在考えているところなのです。それはもう少しなのです」


 それは本当であり、噓でもあった。

 いや、正確にいえば、心意気であり、方便でもあった。

 実際のところ、政福の頭の中には、誰も見たことがない作品のもやが少しだけ集合しつつあった。

 そして、それが可能なのは自分だけということも自覚していた。

 それは自惚れではない。

 ただの決意である。

 そこで宗看はフッと軽く笑った。


「自覚しているなら良いさ」

「私以外にはできない仕事ですから」

「そうだな。俺を超えられるとしたら政福しかいない。その道は困難かもしれない。時には重荷に感じるかもしれない。どれだけ時間がかかっても良い。

 ……ただ、諦めないでくれ」

「はい」


 おそらくは兄も重荷に感じたことがあったのだろう。

 諦めたくもなったのだろう。

 それでも困難な道を歩み続けた結果が目の前の珠玉の作品なのだ。

 だからそれは先達の重い言葉だった。


「それに、私には兄上がいますから」

「頼るという意味ではないよな」

「もちろんです。兄上に自分もこうすれば良かったと後悔させてみせますよ」

「ははは、それは心強いな」


 兄たちを驚かせる作品を作りたい。

 その気持ちさえ失わなければ、絶対に宗看と同じ境地に到達できると政福は確信していた。


「しかし、兄上はよく続けられましたね。こんな前代未聞の作品を一人で作るなんて信じがたい所業です」


 ただ、政福にとっては兄という手本がいるだけ、まだ宗看よりは迷うことがない。

 そういう意味で、宗看の強さは異常だった。

 独力で成し得たと信じられない人もたくさんいるだろう。

 それくらい圧倒的な献上図式が完成したのだった。

 宗看は首を横に振った。


「それは違うよ、政福」

「違う? 何がですか?」

「今までの先人の知恵を借りた面はたくさんあるし、それにな……俺にも兄上がいたんだ」

「それはそうかもしれませんが……」

「いや、とても大切だったんだ。兄上がいたから俺は全く迷わなかったんだ」

「そういうものなのですか?」

「ああ、それにお前たちがいるじゃないか」

「私たちですか?」

「ああ、弱いところは見せられない。その決意も俺を続けさせるに十分だったよ」


 宗看の言葉は優しい。

 おそらくは心からの本音であった。


「俺はおそらく結婚をしないだろう」

「? 何故ですか?」

「あまりそういうことが得意ではないからな」

「? そんなことはないと思います」

「別に世辞は要らん」

「いえ、世辞ではありませんし、だって、」

「まぁ、良いではないか。それで、重要なことはそこじゃない。跡継ぎの話だ」

「重要な話だと思うのですが……」

「俺は政福を俺の養子として、後継者に指名しようと考えている」


 江戸時代には弟が兄の養子になる『順養子』といわれる仕組みが存在した。

 これは家の断絶を避けるために生まれたものだった。

 宗看が結婚しないとしたら、看恕か政福のどちらかが養子になるのは自然なことだった。

 ただ、そうするとやはり政福には気になることがあった。


「……看恕兄上でよろしいのではないでしょうか」

「将棋の腕前だけを見ればな。しかし、献上図式の創作を考えるとお前が最適だよ。看恕にはもっと自由に動いてもらおうと思っている」

「そうですか。しかし……」

「気にするな。俺から伝える。それに、政福は詰将棋を愛しているだろう」

「はい」

「将棋を愛しているだろう」

「はい」

「多分、俺と政福の一番の違いはそこだ。それが相思相愛というものなのだろうな……」


 才に愛された……兄上のようだ、と宗看はボソリと呟いた。

 自分が生まれる前に早逝そうせいした長男のことは棋譜を通じて知っていた。

 政福も棋譜を並べたが、長兄の才能の豊かさは紛れもないものだった。

 しかし、意外なのは先程の言葉を考えても、宗看が恐ろしく引きずっていることだった。

 宗看が長兄の駒を使っているときに気づいたことを政福は思い出していた。


 兄は強い。

 だが、その強さは彼一人のものではなかったのだ。

 ただ、それは意外ではないのかもしれない。

 鬼であっても、宗看は人であった。


「もう俺は完成させてしまった。俺にはできない仕事だ。お前の、仕事なんだ。頼む」


 作品の献上を終えてしまっている以上、自分を超えるということは決してできない仕事なのだ。

 政福は肚を決めた。


「期待に応えます」

「応」


   +++


 ――その会話をふすまの裏で聞いていた看恕のことに二人は最後まで気づかなかった。


   +++


 実の所、宗看の懸念は的を射たものだった。

 後の世で献上図式という文化は廃れることになるからだ。

 おそらくは比較されることを恐れたからだろう。


 更には、宗看の『将棋無双』は長らくその解答本が紛失する。

 これは献上された側の不手際である。

 その結果、あまりにも難解で、一部の天才しか真の価値が理解できない。本当に詰むのか分からない。

 それが『詰むや詰まざるや』という異名の所以であった。

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