第4話 伊藤家次男

「あにうえ! かちましたか!?」


 伊藤家次男、伊藤印寿いとういんじゅは目を輝かせている。

 兄が負けるわけがない――確かな信頼感が視線に込められている。

 印達いんたつは微笑み、弟の頭をでながら言う。


「ただいま、勝ったよ」

「さすがです! さすがはあにうえです!」


 印寿はすごい、すごいと歓声を上げる。


「あにうえはさすがです! やはり、おにのようにつよいのです!」

「鬼? はは、それはどうなのかな」


 そのまま足にしがみつかれ、印達は笑いを堪えきれずに思わず吹き出す。

 正直な話、弟が本当に状況を理解しているかどうかはかなり怪しい。

 印寿は将棋にあまり興味を示さない。

 そもそも、将棋の存在を認識していない可能性さえある。

 はしゃぐ印寿の様子を見て、苦笑まじりに宗印は言う。


「印寿よ、印達は疲れているのだ。あまり困らせるな」


 印達がその冷水ひやみずの傘になる。


「大丈夫ですよ、父上。これくらいは」

「……そうか」


 そう呟くように言い、宗印は後ろで控えていた妻のイネに荷物を渡してさっさと奥へ引っ込む。

 印達はその後姿に声をかけるべきか一瞬だけ悩む。

 だが、母であるはずのイネは微笑んだだけ。

 勝敗にさえも興味なさそうだったので、口をつぐむことにした。


 二人は家の中に入っていった。

 印達はその背中を見送ってから気を取り直す。

 今は腰の辺りで目を輝かせている弟の方が重要だった。


「どんな、どんなしあいでしたかっ?」

「あー、どこから話すべきなのかな」

「ぜんぶ! ぜんぶです!」


 勝利を素直に喜んで貰えるという事はさいわいである。

 印達は束の間だが、対局の疲れを忘れる。

 そして、そこでようやく勝利の実感を得ることができた。


 勝った。

 そう、勝ったのだ。

 あの、大橋宗銀に。


 天才と呼ばれ、大橋家を継ぐためにやって来たあの男に勝ったという事実をようやく飲み込めた。

 喜びに身震いする。


「あにうえ?」

「いや、そうだね。ずっと劣勢だったから。うん、ちょっと疲れているだけだから」


 実は印達は涙ぐみそうになっていた。

 これは気の緩みではない。

 重圧からの解放感から生まれた、単純な身体反応。

 ただ、少し恥ずかしくなり、ごまかすように続ける。


「対局の話は長くなるし、またね」

「むー」

「そんな顔しない。しばらく忙しいから一段落ついたら、ね」

「ぜったい! ぜったいですよ」


 印達は「うん」と優しく弟の頭を撫でながら、そう約束した。


「そうだ、印寿は今日何をしていたんだい?」

「はい! わたくしも、あにうえのような、りっぱなおさむらいになるため、たんれんにいそしみました!」

「侍……?」


 やはり印寿は、兄の印達がどういう勝負をしてきたのか理解していなかった。

 しかし、勝負があって、勝ったという事実が大切なのかもしれない。


「印寿、僕たち伊藤家は武士の家ではないからね」

「え?」


 印寿は不思議そうに印達の腰元こしもとを見る。


「? 刀をさしているではありませんか」


 事実、印達はその時、刀を差していた。

 大老の家での争い将棋ということもあり、正装でおもむいたのである。


「うん、僕たちは御用達町人ごようたつちょうにんだからね」

「? はぁ」


 印寿は全く理解していない。できていない。

 刀を差していればお侍さまという程度の認識なのだろう。


『御用達町人』。

 幕府や大名に出入りが許された町人のことである。

 身分は町人だったが、帯刀たいとう苗字みょうじなどの特権が与えられていた。

 それは足袋たびを履くことにも書面を提出せねばならない堅苦かたくるしい身分ではあった。

 しかし、もちろん、その代価たる義務も含めて名誉な事だった。


 印寿は不思議そうにたずねる。


「ですが、あにうえ、今日、しあいだったんですよね?」

「そうだよ」

「ありうらさまと、みやもとさまがいっておりました」

「有浦殿と宮本殿ですか? なんとおっしゃってましたか?」

「あにうえは、おにのようにつよい、と」

「あー」


 有浦印理と宮本印佐の二人は武士の家柄だ。

 将来的には旗本はたもとの身分になる人たちである。

 彼らは侍であり、そして、宗印の高弟こうていでもある。

 二人とも非常に才能豊かな指し手だったが、やはり印達と比べると凡庸ぼんようと言わざるを得ない。

 ちなみに、宮本印佐は印達と同い年であり、特に身分の枠を超えて仲良くしている。


 そこで印達は納得する。

 弟が勘違いしたのは、武士二人の言葉を鵜呑うのみにしていたから。

 だから、なるべく傷つけないように優しい口調で印寿へ伝える。


「いいかい、僕が強いのは腕力じゃないよ」

「あ! わかりました!」

「? なにが?」

「あにうえは、わざがすごいのですね!」


 そうではない。

 何も分かっていない。


「僕はね、小将棋が強いんだよ」

「しょーしょーぎ?」


 印寿は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしている。


 ちなみに、江戸時代は駒の多い『中将棋』も比較的盛んに指されていた。

 それと区別する為に『小将棋』が正式名称である。


「そもそも、僕が刀を振り回しているところなんて見たことないよね?」

「はい」


 印寿は大真面目な顔で続ける。


「きっと、わたくしの、しらないところで、がんばっているのですよね?」

「いや、そうではなくて」

「わたくしの知らない、ひでんのわざのれんしゅうをしているのですよね」


 兄に対する信頼が重い。

 この圧倒的な信頼は何が根拠なのか?


「そうではなくてね、ほら、僕たちが毎日練習しているだろう? あれが小将棋だよ」

「ああ、あれですか!」


 印寿の顔に喜色きしょくとして理解が現れる。


「わたしたちは将棋の家だからね」

「しょーぎのいえ?」

「印寿も将棋をそろそろ覚えないといけないね」

「しょーぎ……」


 印寿は不思議そうな顔をしていたが、徐々じょじょに表情をくもらせる。

 どうしたのだろう、と印達が弟を見ていると、印寿はしぼり出すようにして言う。


「それでは……わたくしは、おさむらいになれないのですか」

「残念だけど、なれないね」

「わたくしは、あこーろうしにはなれませんか……?」

「んー、そもそも、赤穂浪士あこうろうしは無理かもね」


 赤穂浪士の討ち入りはこの七年ほど昔――元禄十五年(一七〇二)に起きていた。

 印達も、赤穂事件を題材とした忠義物ちゅうぎものとしての作品群は好きだ。

 忠義を尽くして命をす態度は清々すがすがしいの一言だが、好きだから武士になれるというものでもない。

 どこから訂正ていせいしよう、と印達は首をかしげる。


 だが、次の瞬間だった。

 顔をくしゃくしゃにして印寿は涙をこぼし始める。

 一瞬で泣き出した弟に印達は驚く。


「え、え、印寿、泣いているのかい」

「ないておりませぬ! ぶしはなきませぬ!」


 必死に顔をてのひらで拭いながらそう訴えるが、どう声をかけて良いのか分からない。


「…………」


 言葉を失って、印達は困る。

 将棋の才能とは異なり、この辺りの狼狽ろうばいは年相応といったところ。

 まだまだ十二歳の少年であった。


「……お侍さんになれないのが悲しいのかい」


 しばしのち、印寿は、こくん、と首を縦に振る。

 必死に涙を堪えていて喋れないのだろう。

 理想と現実。

 四歳にして、既にその間で苦しんでいるのだ。


 印達は弟をなぐさめるべきか、いさめるべきか考える。

 おそらくはどちらでも間違いなのだろう。

 正解がない。


 だから、印達は印寿の頭を撫でながら、なるべく優しくさとす。


「いいかい、将棋はね、軍師ぐんしになる為の勉強なんだよ」

「……ぐんしとはなんですか?」

「お殿様に助言をする偉い人だよ」

「……えらい人」

「大橋家の初代宗桂は、かの東照大権現家康公とうしょうだいごんげんいえやすこうにも認められたんだよ。それはとても凄いことなんだよ」

「いえやすこう……! しょうぐんさま!」

「そう、将軍様だ」


 ここが肝要かんようか。


「僕はもう少しで将軍様の前で将棋を指すんだよ」

「ほ、ほんとうですか!?」

「うん、本当だよ」


 事実、印達は数日後に『御城将棋おしろしょうぎ』の予定が入っている。

 しかし、将軍が見に来るかどうかはその日になってみないと分からないが、その現実は黙っておく。


「印寿も頑張れば、将軍様の前で将棋を指せるんだよ」

「すごい!」


 ようやく少しだけ分かったのだろう、印寿は顔をほころばせる。


「あにうえは、しょうぐんさまのまえでかちますか?」

「うん、勝つよ」

「おー!」

「兄は鬼よりも強いからね」


 その言葉を聞いて、印寿は目を丸くする。


「あに……おに……」


 そして、プッと吹き出して笑い出す。


「あにはおによりもつよい! あにはおによりもつよい!」


 その響きがツボに入ったようだ。

 なんとなく印達な恥ずかしくなりながら、最後にまとめる。


「だから、印寿も将棋を勉強しようね」

「はい、あにうえ!」




 ……余談。

 元気よく頷いた印寿だったが、明日の朝にはすっかり忘れて、家の庭で棒を振り回していたことを付け加える。

「さむらい!」

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