第3話 帰り道

 江戸時代、将棋の家元としての職を奉ぜられていた三家があった。

 すなわち、『大橋本家』、『大橋分家』、『伊藤家』である。


 そもそも、将棋家元しょうぎいえもとの始まりは初世名人しょせいめいじんたる初代しょだい大橋宗桂おおはしそうけいが徳川家康より五十石ごじゅっこく五人扶持ごにんぶち俸禄ほうろくを受けたからだ。

 将棋の技芸・地位向上に大きく貢献したことが認められたのだ。


 『大橋本家』に引き続き、二世名人にせいめいじん大橋宗古おおはしそうこの弟である、初代しょだい大橋宋与おおはしそうよが『大橋分家』をおこし、さらには大橋宗古の娘婿むすめむこである初代しょだい伊藤宗看いとうそうかんが『伊藤家』を興した。

 ――とまぁ、そんな詳しい話を覚えておく必要はない。

 将棋家元は親戚同士だったということだけ。

 ただ、非常に密な繋がりがあったからこそ、さまざまな情念じょうねん渦巻うずまいていたことは見逃せない事実であろう。


 そして、これが現代にも通じる、『将棋名人制』の始まりであった。


   +++


 井伊掃部頭いいかもんのかみ別邸からの帰り道。

 伊藤印達いとういんたつとその父、伊藤宗印いとうそういんは並んで歩いている。


 伊藤家は麻布日ヶあざぶひが久保くぼ(現港区六本木)に居を構えていた。

 まだ自動車も電車も存在しない時代だ。

 将棋家はさして裕福ではなかったので、駕籠かご頻繁ひんぱんに使えるものではない。

 つまり、移動手段は基本的に徒歩かちであった。

 現千代田区永田町にあった井伊掃部頭別邸からはそれほど離れていないので問題なかった。


 しかし、大橋本家は豊島村とよしまむら高田たかだ(現豊島区高田町)の増山ましやま兵部へいぶ少輔しょうゆうの下屋敷内にあった。

 両家の距離は地図上でおおよそ十キロメートルほども離れていた。

 争い将棋は両対局者の家が使われる事もあったが、大体が互いの中間地点で行われたようである。

 つまり、争い将棋のたびに、中間地点としても往復十キロの距離を歩かねばならなかった。


 これは十二の少年には辛い距離であろう。

 老齢の宗印も辛かったはずだが、印達は健脚とは真逆の生白なまっちろい質である。

 全霊を込めた勝負の後で疲れているということもあるが、現在の印達は傍目はためには病人の足取りと大差なかった。


 ちなみに、大橋分家は伊藤家の隣であったが、勝負相手は大橋本家の宗銀だったのであまり関係はない。閑話休題かんわきゅだい


 疲労困憊ひろうこんぱいで顔色の悪い印達に宗印は優しく声をかける。

い将棋だった」


 印達は顔をほころばせる。

「ありがとうございます」


「だが、まだまだ修練せねばならぬ」

「はい」

「ただ、また明日も勝負がある。今日はこれで佳い。帰ってしっかり休もう」

「はい」


 印達が短く頷くばかりだったのは、疲労のせいばかりではない。

 魂を注いだ将棋に心がまだ奪われたままで、気持ちが浮ついていたからだった。

 将棋の盤面が脳裏のうりにこびりついている。

 あの時ああ指していたらどうなっていただろう……そんなことをどうしても考えてしまっていた。

 実際、帰っても休める気はしない。

 おそらく将棋盤を前にして、前半から中盤、終盤の入り口までどうしてあそこまで劣勢れっせいおちいったのか考えてしまだろう。

 そういう生き方しか印達はできなかった。


 そして、宗印の言うように、争い将棋は明日も続けて行われる予定だった。

 これは予定にないことだった。

 元々、井伊大老は十局ほど若武者二人に指すよう要請しただけ。

 そこまで密な予定ではなかった。


 しかし、すぐ翌日に行われるのは、大橋本家からの要望である。

 四世名人である大橋宗桂のつるの一声で決まった。


 ――明日も対局をするぞ。


 いろいろともっともらしい理屈を述べていたが、その理由を要約すると一つにまとめられる。


 負けが納得できない――ただ、それだけである。

 誇りが何よりも大切な時代だったので否応いやおうもなかった。

 敗北という屈辱を宗銀も早急に拭うしかなかったのだ。

 大橋本家の威信いしんをかけて。

 伊藤家の若造には負けない――そういうことである。


 しかし、やはり印達の顔色は明らかに悪い。

 序盤からの劣勢をくつがえしての逆転である。

 心身ともに疲弊ひへいし切っていた。

 明日は厳しい勝負になると印達自身既に覚悟していた。


 印達の口から病人めいた咳が時折苦しそうに漏れる。

 生来、印達はあまり身体の頑丈な方ではない。

 大根のように生白いのは、部屋にこもって将棋漬けの日々だったからである。

 それは家業として必要だったことも、将棋の才能に恵まれすぎていたことも、将棋を愛しすぎてしまっていたこともあり、あらゆる点で印達にとって当然の日常。

 その結果が、他の追随ついずいを許さないほどの将棋の才。

 比類なききらめきである。

 全てを将棋に捧げる生活をしてきたからこそ、十二歳にして五段の認可を受けることができたのだ。


 息子の体調をおもんぱかってか、宗印も言葉は少ない。

 ただ歩調をやや緩めて態度でいたわる。


 印達は十二歳とまだ年若いが、その父親である宗印はかなりの老齢だ。

 一説によると、宝永六年(一七〇九)の時点で六十五歳といわれている。

 つまり、印達は五十路いそじを超えてできた子どもということになる。

 必ずしも正確とは限らないが、孫くらい年が離れていたことは確かなようだ。

 それには宗印の生い立ち・経歴が関係している。


 印達の父である宗印は鶴田幻庵つるたげんあんという名で在野ざいやの達人として活躍していた。

 母方は肥前唐津一向宗ひぜんからついっこうしゅう寺人じじんで、医師の多い家系から将棋家の養子になった変わり種である。

 宋銀と同じように、宗印も将棋の腕を見込まれて初代伊藤宗看に引き取られているのだ。


 だから、宗印は宗銀に対して同情する面もあった。

 終盤、あれだけ必死に強手で応じたのは分かる。

 逆転はあそこで冷静になれない状況のせいだ。


 どうしても意地を張りたかったのだ。

 いや、張るしかなかったのだ。


 ちなみに、当時は養子として才能のある子を引き取ることは珍しい話ではない。

 あらゆる家業のお家が、家を存続するために養子を取っていた時代である。


 だから、宗銀が養子である事を引け目に感じたわけではない。

 ただ、認められた己の才能を皆に知らしめたかっただけである。

 むしろ、純粋に自分の実力と才能が認められたのだから、それはほまれだった。

 宗印はそういう面もよく理解していた。


 だからこそ、あの局面から勝ち切った息子の勇姿が誇らしくて仕方なかった。


「印達よ」

「はい」

「お前なら宗看の名を継ぐことができる」

「はい」

「この勝負を勝ち越せば、きっとそれに一歩近づくだろう」

「はい、父上」


 宗印は宗看の名を継ぐことができなかった。

 養父ようふの名を継ぐに相応しいとどうしても思えなかったのだ。

 しかし、印達は違う。

 ここまで才能のある子どもは、そうそう生まれるものではない。

 三代伊藤宗看。

 そう呼ばれるに相応しい天才こそが、伊藤印達だった。


 大老の下命かめいにより、始まった十番に及ぶ争い将棋。

 それは命のやり取りに等しい、刀を用いない真剣勝負。

 宗印は既に息子の勝ち越しを確信していた……。



「ちちうえ、あにうえ、おかえりなさい!」


 二人が伊藤家に帰宅すると、幼い少年が出迎えてくれた。

 息も絶え絶えに大きな声で出迎えるのは印達の弟の印寿いんじゅである。

 まだよちよち歩きしかできないが、幼い顔を嬉しそうに綻ばせている。


 宗印も思わず、顔が緩むのを理解する。

 年を取ってできた、可愛いもう一人の息子だ。

 しむらくは、次男があまり将棋に興味を示さないというだけ。

 まだ数えで四歳だから判断には早すぎるかもしれないが、長男である印達は既に同じ頃には将棋に強い興味を示していた。


 比類なき天才ということではないかもしれない。

 だが、将棋家として恥ずかしくない程度に強くなれば、それで構わない。

 そういう生き方もある。

 宗印は次男である印寿のことをそう温かく見守っていた。


 ……これは印達に対する期待の裏返しでもあった。

 長男の圧倒的な才能を信じたからこその、次男への寛容かんようとなおざりである。


「おつかれさまです」


 印寿は頭を丁寧に下げ、そして、すぐに顔を上げながら言う。


「あにうえ! かちましたか!?」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る