熱い感動で聞いた、誰か故郷を思わざる

宗像弘之

第一話

 今年もまた、暑い夏がやって来た。そして、あの8月15日が。


 私には、毎年、終戦の日を迎える頃になると、必ず思い出される曲がある。

五十数年前、防府海軍通信学校で聞いた『誰か故郷を思わざる』である。


 昭和19年、私は旧満州奉天の旧制中学4年生だった。満州生まれの私は、未だ一度も故郷、日本の土を踏んだことはなかった。内地を知らぬ私にとって、満州は、私のただ一つの故郷だった。


 私は、夢見る少年だった。将来は内地の大学に進学し、好きな文学をやりたいと思っていた。


 折しも、太平洋戦争は、大本営の勝利宣言にもかかわらず、悪化の一途をたどり、断末魔の様相を呈していた。学校には、軍から配属将校を通して、予科練よかれんの供出割り当てが、半ば強制的に来ていた。


 夏の暑い日だった。私たち4年・5年生は、校庭に集められた。やがて、私たちの前に、前年海軍兵学校に入校した先輩が、真っ白な夏服に、スマートな短剣姿で現れ、檀上に駆け上がった。


 先輩は、獅子吼ししくした。


「貴様らは、今、校長先生に聞くと、海兵の志願者はいるが、予科練の志願者はいないという。国に報いるに兵も将校もあるか」


 級友の一人が思いつめたように手を挙げた。


「僕は予科練を志願する」


すると、顔を真っ赤に染めた少年たちが、次々に、僕も……僕も行くと、手を挙げた。私たちは、そのまま、教室に導かれ、改めて予科練志願の有無を問い詰められた。

 私は、愛国少年だった。国を思うヒロイズムが、私を駆り立てた。熱っぽい雰囲気の中で、私は親に黙って、家から印鑑を持ち出し、予科練の志願票に印を押した。

 母は嘆いたが、父は黙って何も言わなかった。


 昭和19年12月。

 同じ中学から五十名が朝鮮半島を渡り、山口県の防府海軍通信学校に入隊した。

 みんな、親元を離れるのは初めての少年たちばかりだった。


 予科練の生活は、過酷で、欺瞞に満ち満ちていた。何も悪いことをしないのに、毎晩、バッタでしごかれた。盗みをしないと、自分の物が盗まれ、要領が悪いからだと殴られた。

 私たちは、いつも腹を空かしていた。


 三度の食事は、食器に一杯。飯の量は、いつも力の強い者が横行する軍隊は、私たち、少年が考えもしなかった餓鬼道の世界だった。


 国に報いたいという、純粋な少年の夢は、無残に打ち砕かれ、私は絶望した。希望のないうつろな日々が続いた。

 そんなある日の夕方、隊内で、演奏会が開かれるという案内があった。


 潤いに飢えていた私たちは、凍傷の手をさすりながら会場に集まった。


 指揮者は、叩き上げながら、古武士の風格のある分隊士、H将軍である。H将軍は、髪に白髪が混じる中年の紳士だった。寡黙な温容の中にも、海軍士官らしい凜とした気品があった。


 予科練性はみんな、この分隊士を慕っていた。分隊士は淡々とタクトを振った。

美しい旋律が、次々に流れた。二曲、三曲と。


 最後の演奏になった。分隊士が一段と大きくタクトを振った。


「花摘む野辺に日は落ちて」


 哀愁を帯びたメロディが静かに、甘やかに流れた。

 私は息をのんで、じっと聴いた。


「誰か故郷を思わざる」のところで、激情がこみ上げて来た。私は必死にこらえた。


 私は、赤い夕日が沈む、故郷満州を思い浮かべた。涙がとめどなく流れた。


「生きて再び、なつかしい父母の待つ、故郷満州に帰れるのだろうか」


 分隊士が、タクトを私たちの方に向けた。みんなが、それぞれの思いを込めて合唱した。


平成10年6月。

私は古希を迎えた。


七十年の人生には、様々な思い出がある。しかし、締め付けられるような熱い感動で聞いた『誰か故郷を思わざる』を私は忘れない。



ーーーーーーーーーー

*注)

予科練:

海軍飛行予科練習生、即ち、少年航空兵。

太平洋戦争で日本の航空戦力の中核となり戦果をあげるも、戦局の悪化後は、

全員特別攻撃隊員となって、一機一艦必殺の体当りを決行。多くが若い命を散らした。


防府海軍通信学校:

昭和18年5月、通信兵の大量養成のため、山口県防府市に開設された。

後に、新兵教育なども行われた。











 

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