第8話

 祠の暗がりの中に、高さが十センチ程度の像が鎮座していた。大黒天でないのは誰が見てもわかるだろう。かなえと川和田によって以前の神体である大黒天の木像とすり替えられたのだが、ダイコク横丁の関係者の誰一人として、これを目にした者はいないはずだ。酔漢がこの一角に迷い込むことさえなかったと思われる。何しろこの路地は、ダイコク横丁の通りよりも人を寄せつけない空気に満たされているのだ。

 あぐらをかいた姿勢のそれは、先端の尖った大きな耳を有し、胴体だけを見ればナマケモノのようでもあるが、全体的にはヒキガエルを想起させた。あえて大黒天との共通点を挙げるとすれば、でっぷりとした腹だろうか。

 徹は斉藤のプレハブ倉庫にて、これを手にしたことがあった。予備のぶんも合わせて二体の像を、かなえに渡す前に検品したのだ。濃灰色の石像である。ずっしりとした手応えがあったことを、徹は思い出した。

 この忌まわしき神像は、合衆国政府によって輸出はおろかアメリカ国内での取引さえ禁止されていた。それだけでなく、この神像を使って儀式を執りおこなう邪教集団が、アメリカの当局によって監視されているという。ゆえに斉藤は、今回の仕事にこれまで以上の慎重さを持って取り組んだのだ。しかし仕事は成功したものの、斉藤の命は奪われてしまった。

「ねえねえ、竹中さん」かなえは徹に声をかけながら神像を右手に持ち、もう片方の手で観音扉を一方ずつ閉じた。そして徹に顔を向ける。「この神像、どことなくようちゃんに似ていない?」

「よせよ、それこそ罰当たりだろう」

 焦燥を隠せずに徹は言った。

 かなえの右手にある神像は、見れば見るほど吐き気を催す。ほのかな滑稽さは認めることができるが、一分も見つめていれば気が滅入るに違いない。特に、けだるそうな半開きの目だけは視野に入れたくなかった。

「まあねえ……ようちゃんって容姿はともかく、人間性に問題があったわよね。細かいことを気にする割には、自分の負担になるようなことは避けていたし。要するにね、ようちゃんは狡猾なだけだったのよ。自分の奥さんばかりか、高校に入ったばかりのかわいいお嬢さんまで供物として差し出したんだもの」

 だがそれは、加害者が口にするべき言葉ではないはずだ。

 徹は失笑さえ漏らさずに言う。

「確かに狡猾なだけだな。だからあいつは、おれが門外漢でないことはもとより、斉藤の尽力で神像を入手できた事実さえ知らなかった。斉藤の存在さえ知らなかったんだ。全部、君に任せきりだった。供物となった人を祠の前に運ぶ力仕事ぐらいしかできなかったんだろうな」

「あとは、睡眠薬を供物に飲ませること……そういえば竹中さん、あなた、お通しの枝豆を食べたでしょう?」

「食べたけど、まさか……あれに薬が入っていたのか?」

「だから前もって連絡を入れるべきだったのよ」

「というか、それこそ事前に教えてくれよ。こうして無事でいられたからよかったけど」

「まったく、甲論乙駁ね」かなえは苦笑した。「さあ、帰るわよ。あなたも早く横丁から出たほうがいいわ」

「そうだな」

 成り行きによって時期尚早となったが、復讐という目的は果たされたのだ。ならばこんな忌まわしい場所にいる必要はない。

 徹はかなえとともに横丁のほうへと足を踏み出した。

 奇妙な横丁はこのまま廃れていくのかもしれない。神の使いが撤退したとしても――空き店舗に新しいオーナーが入ったとしても、幾人もの人間が姿を消したという風評は、今後も残るだろう。

 下水のにおいは弱いながらもまだ残っていた。残っていたというより、最初からあったにおいに違いない。これもこの横丁がはやらない要因ではないだろうか――などと徹は思案した。

 路地の曲がり角に差しかかった。

 ふと、かなえが足を止めた。

「どうした?」

 合わせて立ち止まった徹が、かなえの様子を窺った。

「いえ……」かなえは祠のほうを振り向いた。「声がしたような気がして」

 徹も祠に目を向けた。

 街灯の明かりが照らす範囲から外れた位置にある祠は、闇の中で静寂を保っていた。

「気のせいじゃないのか?」

 奥の闇に目を凝らしたまま、徹は問うた。

「そうよね」

 腑に落ちない様子で答えたかなえが祠に背を向けた、そのとき――。

 鈍い音を伴って、かなえの右手にある神像が砕けてしまった。

 呆然とするかなえが、自分の手からこぼれ落ちる細かい破片を見下ろした。

「かなえ」

 今度こそは、その声が徹の耳にも届いた。

「ようちゃん」とつぶやいたかなえが、祠のほうに顔を向けた。

 路地の突き当たりの闇が、深さを増していた。

「川和田?」

 そして徹は、祠がまったく見えなくなっていることに気づいた。路地の突き当たりを覆う深い闇が、絶え間なくのたくっている――そのように見えた。

「村井さん、急いでここを離れよう」

 徹はかなえを促した。

「そうしましょう」

 手についた石粉を払いながら頷いたかなえが、横丁のほうへと歩きかけた。

「待てよ」

 間違いなく川和田の声だ。

 徹が振り向くと、かなえもそれに倣った。

 目の前に闇があった。まるで漆黒の壁である。

 あとずさったかなえに向かって、闇から二本の腕が伸びた。その衣服から、徹は悟る。

「川和田!」

 徹の叫びのとおり、二本の腕に続いて現れたのは、川和田の上半身だった。彼は闇から上半身だけを露出させて、かなえの両肩を押さえ込んだ。

「このアマ、裏切りやがって」

 川和田の怒りの形相に臆したのか、かなえは目を見開いたまま硬直していた。

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