第二章

 少女は背中を丸めるように膝を抱えて、砂丘の頂上にちょこんと座っていた。辺りは見渡す限り、金茶色の砂の大地である。砂丘を吹き渡る風はびょうびょうとうら寂しかった。どうかするとその音は女の泣く声にも聞こえた。


 研究施設の白い部屋しか知らない彼女にとって、この世界はあまりに広大すぎて、彼女の想像をはるかに超えていた。


 彼女のそばには大型バイクが砂の上に横倒しになっている。ハンドルの間の電光板にさっと光が走り、機械の奥から声が聞こえてきた。


「どうやら、追っ手達はやってこないようだな。安心しろ、嬢ちゃん。俺たちは助かったんだ」

「……」

 それまで機械など見たことのない少女は、まじまじと目の前のバイクを見つめた。


これは獣なのだろうか、それともちゃんと人間の言葉を喋るから、やっぱり人なのだろうか。そうだとしたら、なんて変わった姿をしているのだろう。


 やがてバイクが思い出したように少女に問うた。

「嬢ちゃん、名前は?」

「名前……?」

 少女は戸惑って首をかしげた。施設で育った彼女は、「名前」なるものの概念がわからない。「彼」は根気よく言い添える。


「他の連中は、いつもお前さんをどうやって呼んでいるんだい?それがお前さんの名前だよ」


 少しの間があいて、小さな声で少女は答えた。

「……二十七番。あとは……たまに赤毛って呼ばれることもある」

 鼻を鳴らすように、バイクのエンジンがぶるんと鳴った。

「そいつはちょいと味気ないなあ。よし、俺が似合いの名前を付けてやる。俺にはお前さんの顔は見えねえが……声を聞く限りでは、きっと賢くて意志の強い女の子なんだろうな。なんたって初対面の俺と一緒に施設を脱走するくらいだから、とびきり勇敢でもあるはずだ」


 「彼」は考え込むようにしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。

「そうさな……ザナがいい、荒れ地に咲く花の名前だ。ザナの葉には鋭い棘が生えていて、摘む者の手を刺し貫く。お前も自分の棘を持て、ザナ。その棘が、今後お前を守るだろう」

「ザナ……」

 彼女はその言葉を舌の上で転がしてみた。今まで味わったことのない、甘美な舌触り。その語感を彼女は大いに気に入った。

(ザナ。これからあたしの名前は、ザナ……!)

 名前を与えられて、彼女の意識が急激に覚醒していった。彼女は今この瞬間、一個の研究材料から、人格を持った一人の人間へ生まれ変わったのだ。


 巨大な機械はザナに言った。

「ザナ、今後はお前から生きる権利を奪い、不当に虐げようとする連中を決して許すんじゃないぞ。怒るべき時は怒ったっていい、いやそうするべきなんだ。お前の人生の花を勝手に摘み取ろうとする輩から、おのれを守るための棘を持て。そのための方法と手段を、これから俺が教えてやる」

 たったいま目が覚めたかのように、神妙な面持ちでザナは聴き入っていたが、やがておずおずと問うた。

「お兄さん、ずっとそばにいてくれるの?」

「そうさ、ザナ。俺はお前を乗っけてあの施設から救い出してやったが、お前だって俺を運転して施設から逃がしてくれた、俺の恩人だからな。俺たちはこれからもずっとお互いに助け合うってわけだ。俺のことはハキールと呼んでくれ」

「うん……!」

 ザナは大きく頷き、満面の笑みを浮かべた。それは恐らく、彼女が生まれて初めて見せる笑顔だった。


 砂漠の夜に大理石のような月が昇った。夜になると、凍えるような寒さが襲ってくる。荷物も持たず、着の身着のままで逃げてきたので、着替えや上着など持っているはずもなかった。ザナががたがた震えているのを、ハキールは見えないながらも敏感に感じ取った。

「寒いのか?」

「うん……」

「俺に抱きつくといい。少しは暖まるだろう」

 機械は砂の上に横倒しになって、エンジンもかかったままである。ザナが体を寄せてしがみついてみると、なるほどエンジン部から熱が発生しているおかげで、車体全体が人肌のように温かかった。どっどっどっという軽いエンジン音は、その優しい振動と相まって、顔も知らぬ母親の心臓の鼓動であるかのようだった。

 エンジンの駆動音を子守唄にして、ザナは安心して眠りについた。


 ザナはふっと目を開けた。一瞬、自分が今どこにいるのか彼女はわからなかった。あの研究施設の中の、見慣れた白い大部屋の中にいるのではない。ましてや、ハキールと一緒に砂の上で寝ているのでもない。


 鶏と山羊の鳴き声がどこかから聞こえてくる。蜂の羽音がそれに混じった。のどかな村の生活音を聞いて、ザナは徐々におのれの感覚を取り戻していった。

(ああ……そうか……)

 ザナはゆっくりと上体を起こし、部屋の中を見回した。昨日、水の豊かなこの村にハキールと一緒に到着したばかりだった。


 部屋の床にはふかふかした手織りの絨毯が敷き詰めてある。複雑な美しい文様が織り込まれており、完成までには何年もかかったであろうと推測された。床にのべた羽布団の上に、ザナは身を起こしていた。


 それほど大きな部屋ではないが、ザナが一人で使う分には充分な広さだ。鏡台の上には精緻な細工の香水瓶や、化粧道具が整然と並べられてある。かつてここを使用していた人間の、美しい生活ぶりが伺えた。


「母が生前、着替えや身繕いをするために使っていた部屋だよ。この部屋にあるもの、みんな自由に使っていいから」

 昨日アシュラフはそう言って、衣装箪笥や鏡台の置いてあるこの部屋を、わざわざザナに貸し与えてくれたのだ。


 ザナは布団を畳んで部屋の隅に寄せると、中庭に面した廊下に出た。強い朝日が目を射貫き、思わず彼女は眩しげに眼を細めた。そこに、朗らかな声がかけられた。

「やあ、お早う。よく眠れた?」

 朝露に濡れた葉菜類を手にして、アシュラフがにこにこ笑っていた。庭には菜園が広がっており、そこでアシュラフは腰をかがめて野菜を収穫しているところだった。


「ちょっと待ってな、朝ごはんに使う菜っ葉を採ってしまうから。青い野菜は食べる直前に採るのが美味しいんだよ」

「何か手伝おうか?」

「ありがとう、じゃあ近くの水路で水を汲んできてくれるかな。台所仕事で使うんだ」


 ザナは台所に置いてあった甕を持って外に出た。玄関を出るとき、軒下に停まっているハキールに声をかける。

「お早う、ハキール」

「ああ、もう朝になったのか」

 ハキールの口調は意外そうだった。肉体を有しないハキールは睡眠を取らない。太陽の光も夜の暗さも感じることができないので、いきおいハキールは時間の流れをおのれ自身で体感することができないのだ。


 村にはすみずみまで用水路が張り巡らされているので、家を出るなりザナはすぐ手近な用水路に行き当たった。冷たく澄んだ水が滔々と流れている。ザナは手で水をすくって、まず自分の顔を洗い、口をゆすいだ。たっぷりの冷たい水で顔を洗えるなんて、実に素晴らしい贅沢だった。


 ザナは持ってきた甕に水を満たすと、家に戻って台所に置いてある保存用の大甕にあけた。何往復かで、大甕はすぐに一杯になった。その間アシュラフはてきぱきと朝食の用意をしていた。


 ザナとアシュラフは広い居間で向かい合わせに座って朝食を取った。床に敷いた布の上に、大皿が所狭しと並べられている。新鮮な葉野菜の盛り合わせに、胡瓜と豆とヨーグルトの冷製スープ、山羊の乳で作ったチーズ。主食はこの地方一帯でよく食べられている、酵母なしの平たい円パンだ。パンは少々固かったが、噛むほどに味わいがあった。


 ザナは有り難く野菜を噛みしめた。

「新鮮な葉野菜を口にするのは久し振りだな。今まで通った村や街では新鮮な野菜なんて全然手に入らないから、漬け物にしたのばっかり食べていた」

「こんなに水の豊かな村は、このあたりじゃ珍しいからね」

 アシュラフはウイキョウの実のお茶を一口含んだ。

「まあそのおかげで、有り難くない問題も多少は出てくるわけだけど。近隣にある村が、この村の水利権を寄越せと再三言ってくるんだ。彼らは好戦的なことで知られる氏族だから、要求と言うよりほとんど脅しに近いものだよ。今まではやんわりと断ってお引き取り頂いてきたけど、この先を考えると頭が痛いな」

「水争いか」

 ザナはぽつりと呟いた。

 水は人の命や生活に直接関わってくるため、水争いは血で血を洗う泥沼の抗争になりやすい。今まで旅した街や村で、ザナは何度もそうした修羅場を目の当たりにしてきた。

 アシュラフは水の司として水争いの調停人も兼ねるので、交渉の際の心労は並大抵ではないだろう。

(平和でのどかそうに見えるこの村も、何の問題も抱えていないわけじゃないんだな)

 ザナは飴のかかった生アーモンドを口に入れた。白い果肉が口の中でぷりっと弾け、格別な味わいだった。生アーモンドは栄養も豊富なので、水と生アーモンドだけで人は生きていけると言われるくらいだ。表皮をむきやすいよう、わざわざ水路の水に浸して冷やしてあるのはアシュラフの心遣いである。

 朝食後、アシュラフは再び菜園に出て農作業をした。

「畑は子供みたいなものだよ。毎日世話をして手をかけてやらないと、すぐに駄目になってしまうからね」


 腰をかがめて、豆のつるを巻き付けるための支柱をせっせと立てている。ザナは山ハッカの葉をちぎって噛みながら、呆れ半分感心半分の口調で言った。

「大変そうだな、畑仕事って。ひとつの土地にずっと縛られる生活なんて、あたしには想像もできないなあ。ずっと同じ場所にいてよく飽きないね。旅に出たくてうずうずすることないの?」

「さあ、僕は生まれたときからずっとこの村にいるから……。これからもこの土地で、畑を耕しながら生活したいと思ってるよ」

「信じられないなあ。そんなに畑に手間暇かけたところで、日照りや冷害があればすぐに収穫に影響するし、労多くして功の少ない仕事なんじゃないの?やっぱりあたしは運び屋の方がいいや。中距離の運びの仕事を一回やれば、大体二ヶ月分くらいの生活費は楽に稼げるよ。なんたって、馬で五日かかるところをあたしとハキールなら半日でいけるからね」

「そりゃ、みんながみんな君みたいに、儲かる仕事を持ってるわけじゃないから……」


 アシュラフは苦笑した。ザナはまだ納得いかない表情をしている。すぐに実入りが期待できるわけではない農業に、何故そんなに熱中できるのかわかりかねるといった様子だ。

 アシュラフは胡瓜のわき芽を摘み取りながら言った。

「でも君もいずれは結婚するんだろう?家庭を持ったら、そう旅ばかりもしていられないんじゃないのかな」

 ザナは鼻にしわを寄せる。

「結婚なんて、しないよ。あたしはこれからもずうっとハキールと一緒に生きていくんだから。二人で好きなところに旅をしながら……。ふらふら渡り歩く根無し草稼業こそが、あたしの性に合っているのさ」

「でも、家庭を持ったり、子供を産んだりしてみたくはないの?その…女性としての平凡な幸せって言うのかなあ、そういうのには興味がないのかい」

「女としての平凡な幸せ?」

 意外な言葉を聞いた、とでもいうようにザナは鼻で笑った。

「私はそんなもの特に欲しいとも思わないよ。もともとの生まれが平凡じゃなかったしね。あたしはずっとハキールと一緒にいたい、それだけが望みだ。ハキールはあたしに命をくれた恩人だもの。ハキールは何百年でも何千年でも生きるから、あたしが年取って死ぬまでそばにいてくれる。ああいう体になってハキール自身はもしかしたらつらいかもしれないけど、でもあたしはありがたいと思ってるんだ。なんたって病気や怪我とかで、ハキールがあたしより先に死ぬことは絶対ないんだから」

 ザナはどこか思いつめたような目をして、遠くを見つめていた。

「あたしが死んだあとも、ハキールは生き続ける。あたしはそれがたまらなく嬉しいんだ」

 アシュラフはいつのまにか手を止めて、ザナの横顔に見入っていた。


「ほら、あれ見て!」

 突然ザナが声を上げたので、アシュラフは何ごとかと思った。ザナは玄関先のハキールを指さしている。朝日を受けて、ハキールの車体はきらきらと輝いていた。

「ハキールったら、なんて綺麗なんだろう……」

 ザナはうっとりと賛美するように呟いた。その目はほとんどハキールへの崇拝で輝いていた。

「ハキールはなんて美しくて、男らしく逞しいんだろう。こんな綺麗な男は他にはいないよ。強くて雄々しくて頼りがいのある、あたしのハキール……」

 ザナは魅せられたように走っていくと、黒光りするハキールの車体を思い切り抱きしめた。



「ザナはまるであなたに恋でもしているみたいです」

「恋してるんだよ、実際」

 ハキールはしれっと言った。その当然のような口振りにアシュラフは少々呆れる。夕食後、アシュラフは夕涼みをしながらハキールと二人きりで話していた。

 ハキールはやや真面目な口調になった。

「いいことではないと俺も思っているんだが。しかしあの子の生い立ちを考えれば、仕方がないような気もしてくる。あいつには親がいないし、もう十年以上もザナと俺は二人きりで旅をしてきたから。ザナは俺以外に頼る人間なんかいなかったんだ」

「はあ……そうなんですか」

「あの子の俺への執着ぶりときたら、むかし俺の恋人だった女科学者にそっくりさ」

「ああ……人間だった頃のあなたの頭脳の情報を、このバイクに移し替えた人ですね。彼女はその後どうしたんですか」

「彼女は一生結婚しなかった。あいつはバイクに閉じこめられた俺の魂だけを愛して、気が狂うほど愛し抜いて、年老いて死んでいった。あいつはよく言っていたよ。どんなにハキールが欲しくても、これじゃお互いの体を持ち寄って愛し合うことすらできないって。そう言いながら俺の車体にすがりついて泣いていたなあ……」

 ハキールの口調は淡々としていたが、アシュラフは何だか胸が痛くなった。ハキールも、彼の恋人だった女科学者も、どちらも気の毒だった。


 女科学者がハキールの脳をバイクに移植したのは、ハキールを失いたくないあまりに取った最後の策だったのだろう。そのままではハキールは死んでしまったし、他に手だてなどなかったのだ。だがその結果が彼女の恋人を未来永劫、金属でできた籠に押し込め、彼女自身をも苦しめることになった。

「ザナには、俺の恋人の二の舞になってほしくないんだ」

 ハキールはぽつりと呟いた。飄々として洒脱な彼が、いつになく虚ろに寂しげだった。



(ハキールが人間の姿形を取っていなくても、ザナにとってはきっと何ほどの問題もないんだろうなあ……)

 菜園でウサギ菊を摘みながら、アシュラフはひとり物思いに沈んだ。

 究極のところ、ハキールの人格さえ保たれていれば、ハキールがどんな姿形を取っていようがザナには関係ないのだろう。ハキールがバイクだろうが牛馬だろうが、例え石臼やハエ叩きだろうが、ザナは構わないのだろう。それはある意味、見上げた愛情の深さだとも言える。

 アシュラフが菜園でしゃがんで考え込んでいると、ザナの屈託ない笑い声が裏庭から聞こえてきた。ハキールと何ごとか喋っているらしく、ハキールの声も聞こえてくる。

 ザナもこんな風に明るく笑うのか、とアシュラフは少し意外な気がした。

(何だろう?楽しそうだな)

 アシュラフはウサギ菊を片手に携え、二人の声に誘われるように家の裏手に回った。

「ザナ、もしよかったら午後のお茶でも一緒に……」

 片手を挙げながら言いかけて、アシュラフはその場に釘付けになった。


 ザナが盥のそばにしゃがんで、諸肌脱ぎになって髪を洗っているところだった。彼女の横にはハキールが鎮座し、車体の上には濡れたザナの服が広げて干してある。

 どうやら彼女は自分の服を洗濯し、ついでに髪を洗っている間、ハキールとおしゃべりに興じていたらしい。

 ザナは白い乳房を堂々とさらけ出したまま、恥ずかしげな素振りも見せず、真正面からアシュラフと視線を合わせて朗らかに微笑みかけた。

「お茶?いいねえ」

アシュラフは慌ててくるりと体の向きを変えた。

「ご、ごめん!」

 頬がみるみる熱く火照っていく。自分はいま首筋まで真っ赤になっているんだろうなとアシュラフは予想した。

「どうしたんだ?」

 ザナはきょとんとした顔で手桶を掴むと、ざあっと頭から豪快に水をかぶった。

「ザナ、お前が裸なもんだから、きっとアシュラフは気にしているんだよ」

 ハキールが横合いから口を出して教えてやると、ザナは怪訝そうな顔をした。

「へええ?何を気にするってんだ?別に、見られたところで減るもんじゃないだろ」

 ザナは顔を傾けながら髪を手で絞り、水滴を払った。

「ぼ、僕、お茶を用意してくるから……!」

 アシュラフはザナに背中を向けたまま、逃げるようにその場を後にした。

家の中に飛び込み、ウサギ菊を煮立ててお茶を用意している間も、激しい動悸はなかなか収まらなかった。

(……ザナはずっとバイクのハキールに育てられてきたから、普通の若い女性なら誰でも持ち合わせているはずの羞恥心もろくに育ってないんだな……)

 ザナは少ししてから家の中に入ってきて、髪を湿らせたままアシュラフと向かい合ってウサギ菊のお茶を飲んだが、アシュラフは照れくさくてザナの顔をまともに正視できなかった。しかしザナは裸を見られたことなど全く意に介していない様子だった。


 その夜、アシュラフは布団に入っても、昼間見たザナの白い乳房が残像のようにちらちらと瞼の裏を横切って、いつまでも寝付けなかった。

(……あんなに無防備に裸を人目にさらすなんて。ザナには誰かがずっとそばについてやって、世の中の常識と非常識やら、然るべき振る舞いやらを逐一教えてやることが必要なんじゃないか……)

 そう思った瞬間、アシュラフ本人がザナを気遣うようにそっと彼女の背中に手を添えて、優しく微笑みながら寄り添っている情景がぱっと頭に思い浮かんだので、彼は狼狽えた。まるで彼自身がザナと夫婦になっているかのような光景だった。

(え……な、なんだ、どうして僕なんだ……?)

 もしかしてこれは自分の夢見る将来像なのか。無意識の心の中の願望が見せた、未来の光景なのだろうか。

 アシュラフは考えれば考えるほどわからなくなってきた。何度も寝返りを打って、ようやく彼がまどろんだのは、しらじらと空が白み始める明け方近くだった。



 翌日、一頭立ての古びた荷馬車が村にやってきた。荷台に座っているのは、五十代くらいのしなびた老爺である。彼の右眼は白濁しており、既に視力を失っているようだった。

 老爺は荷馬車を牽いてきたロバを村の入り口近くに繋ぐと、トウガンをくり抜いて作った一弦琴だけを抱えて、ひょこひょこと広場までやってきた。

 彼は村の広場の真ん中に茣蓙を敷いて座り込み、足で一弦琴を支えながら調弦を終えると、おもむろに弦をかき鳴らして歌い出した。なかなか悪くない声だった。

「流しの吟遊詩人がやって来たみたいだよ。いま広場で歌ってるって」

「初めて見る顔だけど、声は悪くないってさ。あたしたちも聞きに行ってみようよ」

 村人達は大人も子供も、めいめい誘い合って村の広場にやってきた。のどかな村の生活では娯楽も限られているので、大きな市では珍しくもない吟遊詩人も珍重され、もて囃される。

人々は老人をぐるりと囲むように腰を下ろし、彼の歌に聴き入った。

 年老いた吟遊詩人は、その小柄で細い体に似合わずよく通る太い声で、壮大な叙事詩を朗々と歌い上げた。この世の成り立ちから神々の戦い、人間達の勃興、巨大都市の繁栄、そして人間達の間で激しい戦争が繰り返され、高度科学文明が衰退するに至るまで、長大な人類の歴史を哀切を込めて歌った。

 在りし日の文明の繁栄と現在の凋落ぶりの落差に胸がつまり、思わずくすんと洟をすすり上げる男もいた。

 吟遊詩人が叙事詩を歌い終えて頭を下げると、人々はやんやの喝采をし、あちこちからおひねりが飛んだ。

「おありがとう、おありがとう……」

 老爺は地面にはいつくばるようにして平伏しながら小銭を集めた。

 彼はぺこぺこしながら広場を後にすると、今度は村の各戸を端から一軒一軒回って、軒先で一弦琴を弾き語り始めた。広場に行けずに歌を聞きそびれた村人達は、扉を開けて彼にわずかばかりのご祝儀を渡してやった。

 子供達は興味津々の面持ちで、きゃあきゃあ歓声を上げながら、老詩人の後を追う。

「おっちゃん、これからずっとこの村にいるの?どのくらいいるの?」

 老詩人は飄然と歩きながら、にこにこと子供達の問いに答えた。

「そうさなあ、こんなに居心地の良さそうな村はちょっと見ないから、ひと月ばかりいさせてもらおうかね……」

 老詩人は言いかけて、葡萄棚の下に停められたハキールを見て、ぎょっとしたように目を見開いた。

「あ、あれは……?」

 老詩人は震える手でバイクを指さしながら、近くを通りがかった村人に尋ねた。村人は気さくに応じる。

「ああ、あれはバイクとかいう乗り物らしいよ。いま私たちの村に逗留している、ザナというお客人が乗ってきたんだ」

「そ、そうですか。こりゃ珍しいものを見た……」

 ザナは朝からずっと、アシュラフと一緒に村はずれのなつめやし畑まで収穫に行っているので、広場にも顔を見せていなかった。

 老詩人は一弦琴を抱えて、そそくさと村の入り口に繋いだ荷馬車に向かった。子供達の一人が不思議そうに声を上げる。

「あれえ、おっちゃん、もう行っちゃうの?」

「さっきは一ヶ月くらいいるって言ったじゃない」

「うん……ちょっと、用事を思い出したのさ」

 吟遊詩人は御者台によじ登るなり、ロバに鞭を当てた。子供達の見ている前で、おんぼろ荷馬車はごとごとと音を立てながら、逃げるように村から離れていった。


 二時間ほど経ってから、なつめやしの実で一杯になったかごを担いで、アシュラフとザナが人々の前に姿を現した。子供達が駆けていって、アシュラフに話しかけた。

「アシュラフ先生、さっきまで吟遊詩人が来ていたんだよ。広場で叙事詩を歌っていったんだ」

「へえ、そうなの?僕も聞きたかったなあ」

 アシュラフは言いながら地面に毛布を敷き、かごの中身をざっとあけた。

「その吟遊詩人、なんだか変なお爺ちゃんだったよ。ひと月くらいこの村にいるって言ってたくせに、ハキールを見た途端に急に真っ青になって、すぐ出て行っちゃったんだ」

 ザナの表情がすっと引き締まった。

「……もしかしてその男、右目が潰れていなかったか?」

「どっちかはよく覚えてないけど、確かに片眼が悪かったよ」

 ザナの顔がさらに険しくなる。アシュラフは何ごとか考えているような彼女の横顔を心配そうにのぞき込んだ。

「……ザナ?どうかしたのか?」

 その時、一人の女の切羽詰まった声が上がった。

「ねえ誰か、うちのスーリヤを見なかった?さっきからずっと姿が見えないの」

 スーリヤの母親がおろおろした表情で皆に尋ねる。

「スーリヤが?」

 村人達は顔を見合わせ、首を振った。

「うちのエルハンもいないんだよ。まだ昼飯も食べていないのに、家に帰ってこないの」

 別の女の金切り声が飛んだ。

「……もしかしたら他にも行方不明になった者がいるかもしれない」

 事態を重く見たアシュラフは直ちに村人達に指示を飛ばし、近隣同士で点呼を取らせた。

 結果、四歳から六歳までの幼い子供が四人、忽然と姿をくらませていることがわかった。つい先ほどまで家族や友達と一緒にいたのに、彼らは誰にも気づかれることなく、煙が消えるかのように突然いなくなってしまったのだ。


「一体どういうことだ、これは……」

 人々は広場に集まって、不安げに顔を見合わせてざわめき始めた。

 ザナは腕組みしたまま黙っていたが、やがて冷静に口を開いた。

「恐らく、吟遊詩人の爺さんが子供達をさらっていったんだよ」

「なんだって?」

 アシュラフは目を見開く。ザナは横にいた子供につと顔を向けた。

「そのじじいは片眼が潰れていると言ったな?」

「う、うん」

 子供は青い顔をして頷く。ザナは遠くを見るようにすっと眼を細めた。

「間違いないな。そいつはイブラムといって、有名な人買いだよ。ダウリという人買い組織の末端で働いている男さ。ダウリはイブラムみたいな連中を大勢使って、農村から子供達をさらっては大きな市に売り飛ばしているんだ。流しの商人の間じゃ、イブラムの名は知れ渡ってるよ。蟻地獄のイブラム、ってね。子供達の生き血を吸い尽くして己の生活の糧にしているからさ」

「そ、そんな恐ろしい男に、うちのスーリヤが……」

 若い母親が卒倒し、女達が慌てて駆け寄って助け起こした。

 最悪の展開に、平和でのどかな村は大騒ぎとなった。女たちは泣き出し、男たちの中には今からでも遅くない、馬に乗って追いかけよう、と息巻く者もいた。


「しかし……あの野郎が村を出て行ってから、もう随分時間が経っているぞ。もう近場の街にでも着いて、姿をくらましてしまったかもしれない」

「ゼラン族の村に逃げ込まれでもしたら、もう手出しはできないぞ。ゼラン族は俺らランスの民とは昔から対立しているから……」

「もしかしたらもう奴隷商人に売り飛ばされてしまったかもしれないよ!」


 村人達はてんでに意見を言い合い、村の広場は騒然となった。

「誰でもいい、誰かあたしの子供を助けて!」

 母親の一人が悲痛な声で泣きわめいた。

「落ち着け。あたしとハキールなら、まだ間に合う」

 ザナは冷静な声で村人達を黙らせると、懐から革手袋を取り出し、落ち着いた表情で両手にはめた。そばに停めてあったハキールに駆け寄ると、ひらりと跨ってエンジンをかける。力強い駆動音が辺りに響き渡った。

「ザナ!どこへ行くんだ」

 アシュラフが追いすがって叫ぶと、ザナは落ち着き払って当然の如く言った。

「イブラムを追う。子供達を取り戻してくる」

「僕も行くよ!僕はランス族の族長で、村長でもあるから。一緒に連れて行ってくれ」

 アシュラフは息せき切ってザナに詰め寄った。

「いや……これは私の仕事だ」

 ザナは静かに凪いだような瞳をアシュラフに向けた。

「あんたはみんなと一緒に村で待っててくれ。子供達は私が責任持って、必ず無事に取り返すから」

 アシュラフは彼女の目を見ると、なぜかそれ以上自分の意見を押し通すことができなかった。


 ザナの瞳は、お前は足手まといだ、一緒について来られてもこっちが迷惑する、お前にできることなど何もない、と雄弁に語っていた。

 アシュラフは一瞬気圧されたように黙ると、うなだれて一歩後ろに下がった。

「……わかった。ザナ、どうか子供達をよろしく頼む」

ザナは満足げに軽く頷いた。

「物わかりがよくて大変結構だ」

 ザナはハキールを発進させ、勢いよく村から飛び出した。


 アシュラフと村人達は不安げな表情で、砂漠の彼方に小さくなっていくザナとハキールを見送っていた。



 老いたロバの足では、それほど遠くへは行けまいとザナは予測していた。ましてや、追いかけるのは旧世界の科学技術の粋を集めた、速度自慢の大型バイクである。

 村を出てほどなくして、ザナは荒野の向こうにイブラムの荷馬車を見つけた。ザナは荷馬車に難なく追いつくと、進路をふさぐように砂を跳ね上げながら荷馬車の前に回り込み、バイクを止めた。


 御者台に座ったイブラムはぎょっと目を見開いて、手綱を両手に握ったまま固まっている。

 ザナはバイクから降り立つと、つかつかと荷馬車の側に歩み寄り、腰に手を当てて毅然と言い放った。

「イブラム、子供達を置いていけ。その荷台に乗せているんだろう?」

 ザナは荷台に目をやった。大きく膨らんだ白い麻袋が四つ、荷台の隅に転がっていた。麻袋はぴくりとも動く気配は見えなかったが、よくよく目を凝らしてみれば、中で子供が呼吸でもしているかのようにかすかに袋の表面が上下しているのだった。

 イブラムはおどおどと卑屈な笑みを浮かべた。

「そんなおっかない顔するなよ、ザナ。古い馴染みじゃねえか。商売はお互いに持ちつ持たれつだ、そうだろ?」

「その通り。お前は流しの商人同士の掟を破ったんだ」

 ドスのきいた低い声でザナは凄んだ。

「他人のシマは荒らさない、ってのがあたしら商売人の鉄の掟だろうが。それを何だお前は、あたしの存在に気づいておきながら、ぬけぬけと子供をさらっていきやがって……。つくづくふてぶてしい野郎だ。今はあたしがあの村を拠点にして、運び屋をやろうとしてるんだぞ。人の商売の邪魔をするんじゃねえ。あたしがいる間は決して村の連中に手出しはさせないからな。子供をさらいたけりゃ、よそに行ってやりな」

「けっ、相変わらず手厳しいな」

 イブラムはねじけたような、底意地の悪そうな表情を一瞬見せた。

「元気そうだな、イブラム。飽きもせず子さらい稼業か」

 ハキールが笑みを含んだ声で話しかけると、イブラムは禍々しいものでも目にしたかのように顔をしかめた。

「ふん、ハキールか。あの村でお前を見つけたのが、俺の運の尽きだよ」

 イブラムは忌々しげに言ってそっぽを向いた。

 いつだったか昔イブラムがハキールに対して旧世界の死に損ないと悪態をついた時、怒り狂ったザナはハキールを駆ってイブラムを執念深く何度も突き転ばし、彼が泣いて許しを請うまでどこまでも追いかけ回した。

 あわやひき殺されそうな目に遭った当時を思い出し、イブラムはハキールにそれ以上の憎まれ口は叩かなかった。


 突然イブラムは哀れっぽく哀願するような口調になってザナに訴えた。

「なあ、この俺を見てくれよ。ガキの頃ダウリの連中にさらわれて、それからずっと物乞いをさせられてきたんだぜ。通行人の憐れみを誘うために、ダウリの連中に片眼まで潰されてよ……。幸い俺は一弦琴が弾けたから手足に傷はつけられなかったが、一緒にさらわれた仲間の中には、より多くの施しが集まるよう手足を切り落とされた奴だっているんだ。物乞いで貰った金銭は全部ダウリの連中に取り上げられて、こっちはいつもすかんぴんだ。大人になったらなったで、物乞いしても満足に金が集まらなくなっちまったから、今じゃ自分をさらった連中にこき使われて人買い稼業をさせられているんだぜ。なあ、こんな酷い話があるか?俺だってもともとは人さらいの被害者なんだ、こっちだってつらいんだよ」

 イブラムは袖を目に当てて、憐れっぽくすすり泣き始めた。

 ザナはいささかうんざりした表情で腕組みしているだけで、少しも心を動かされた様子はなかった。彼の身の上話は今までにも散々聞かされ、もう聞き飽きている。

 つっけんどんな口調でザナは言った。

「あたしの知ったこっちゃねえよ。世間じゃよくある話だ、所詮この世は食うか食われるかじゃねえか。さあ、子供達をこっちに渡しな」

 泣き落としが通用しないと見て取ったイブラムは途端に泣き真似をやめると、まだぶつくさ文句を言いながら、しぶしぶと麻袋の中から子供達を引っ張り出した。


 男の子が三人、女の子が一人。子供達は四人とも薬を嗅がされて、すやすや眠っている。

 ザナは子供達の顔を見下ろして、わずかに顔をしかめた。

「相変わらず、さすがの手並みだな。一体いつの間にこれだけの子供をさらったんだか。わずかな滞在時間で、揃いも揃って村でも粒よりの綺麗な顔立ちの子ばかり選び抜きやがって」

「当たり前だろ、俺ァこの道三十年の人買い稼業だ」

 イブラムはふんと鼻を鳴らした。

「トルン市ではこのくらいの年頃の子供を小間使いに欲しがる金持ちがわんさといるのさ。なあ、こっちの女の子ひとりだけでも勘弁してくれねえか?女の子は踊り子にも娼婦にもなるから、高く値がつくんだよ」

「駄目だ。全員返してもらうぞ」

 ザナは子供達を抱き上げてハキールの荷台にさっさと運び始めた。

「けっ、ごうつくばりめ!」

「ほざいてろ、ひょうたん頭」

 ザナは笑いながらハキールに跨ってエンジンをかける。イブラムは思い出したようにふと小狡い笑みをもらした。

「へッ、しかしあの村の連中ときたら、すれてない女みたいに無防備だったな。今まで子供をさらった中では一番仕事が簡単だったぜ」

「あの村の連中はみんな人がいいのさ。他人を疑うことを知らないんだ。大都市のすれっからしどもとはわけが違うよ」

「畜生、ザナと商売の場所さえぶつからなければな……」

 イブラムはつくづく無念そうに溜息を漏らす。

「まあ今回は運がなかったものと諦めるんだな」

 ザナは慰めるように笑うとハキールを発進させた。

 イブラムの声が後ろから追ってきた。

「ザナよう、またいつか一緒に仕事する機会があったら、その時はよろしく頼むぜぇ!」

 ザナは片手を振ってイブラムに応えると、バイクの速度を上げた。

 荷台と足元に乗せた子供達を落とさないよう、ザナは注意しながら村までハキールを運転した。


 村の入り口でやきもきしながら待っていた親たちは、爆音を響かせて走ってくるバイクを認めると、吸い寄せられるように駆け出した。

 バイクが完全に停止するのも待ちきれずに、ザナの手から奪うように我先に子供たちを抱き取る。

「ああ!ナジャ、しっかりおし!」

「スーリヤ、目を開けて!」

 親は子供を抱きしめて、泣きながら体を揺さぶった。

「大丈夫、みんなスワニの葉を嗅がされて眠らされているだけだ。放っといてもじきに目が覚めるよ」

 ザナがバイクから降り立ちながら落ち着いた口調で声をかけると、親たちは心から安堵して泣き崩れた。

「これからは吟遊詩人に限らず、流しの商人には気をつけるんだな。人買いを兼ねているあくどい連中もいるからな」

 ザナは淡々と言って聞かせた。

 集会所で長老達と一緒に待機していたアシュラフが、ザナ帰還の報せを受けて飛び出してきた。

「ザナ……!」

 アシュラフは息を切らせてザナの側に走り寄ってきた。

 ザナの引き締まった顔つきを見ると、アシュラフは緊張で張りつめていた心が一気にほどける思いがした。

「無事だったか?……怪我はないか」

「ああ、見ての通りさ。子供達も全員無事だよ」

 ザナはさばさばと言いながら、子供を抱きしめて泣いている親たちを顎で指し示した。

「よかった……」

 アシュラフは一瞬呆然としたが、思い出したように胸に手を当てると、ザナに向かって深々と頭を下げた。

「ザナ、ありがとう……。氏族の子供達を救ってくれて」

「別にいいさ」

 ザナは素っ気なく言って、ハキールを牽いてその場を立ち去ろうとする。アシュラフは慌てて追いすがり、尚も言った。

「きみにはお礼の言葉もない。村長として、村人全員に代わって礼を言うよ。たった一人で卑劣な人さらいに立ち向かうなんて、きみはなんて勇敢なんだ」

「よしてくれ、背中が痒くなる」

 ザナはどういうわけだか不愉快そうに顔をしかめると、むっつりと口を引き結んで、ずんずん歩いて行ってしまった。


 きっと彼女は照れくさがってそんなぶっきらぼうな態度を取るのだとアシュラフは思いこみ、ますますザナに好感を抱いた。

 村人達は言うまでもなく、ザナに深い敬意を払うようになった。

「ザナはきっとお礼を言われるのが恥ずかしいんだよ」

「謙虚な人だねえ、あれだけのことをしてくれて、ちっとも威張ろうともしないなんて……」

「若いけど人間ができているのさ。できることなら、ザナにはずっとこの村にいてほしいもんだねえ」

 おかみさん達は用水路のそばで洗濯をしながら、口々にザナを褒めそやすのだった。

 ザナは村人達から敬意のこもった熱い視線を向けられても、無関心でどこ吹く風といった様子だった。

 彼女は毎朝、ハキールと談笑しながら彼の車体をせっせと布で拭いてやり、顔が映るほどぴかぴかに磨き上げる。満足したザナはその後ひとり果樹園をぶらぶらと散策したり、好んで村はずれの小高い丘に行って昼寝をしたりして過ごすのだった。

 子供達はすっかりザナに懐いて、彼女を見つけるときゃあきゃあ言いながら後をついていく。

 みんながみんなザナと手を繋ぎたがるのだが、ザナの手は二本しかないので、子供達は彼女の指をそれぞれ一本ずつ握って満足した。

「僕、ザナの親指取った!」

「あたしは中指!」

 子供達は団子のようになりながらザナと一緒に歩いた。

 ザナは子供達につきまとわれるたびに、露骨に嫌そうな顔をして

「うるせえなァ、歩きにくいだろうが」

 とぼやいたが、うるさがられても子供達はザナのそばにいるだけで嬉しそうだった。


 アシュラフはこの事件以来、深い驚嘆をもってザナを見るようになった。

(なんて人だろう。あの若さで、しかも女性でありながら、聡明で、冷静で、勇気と義侠心に溢れていて……)

 アシュラフはザナのような女を今までに見たことがなかった。それもそのはず、ザナは村ではついぞ見かけないたぐいの女だった。

 アシュラフの村では娘達は厳しく躾けられ、みなしとやかで優しい、女らしい女に成長する。彼女たちは料理も機織りも裁縫もよく仕込まれ、村の子供達にはいつも優しい言葉をかけ、間違ってもザナのように、うるせえなァなどと口走ったりはしない。

 結婚するなら村にいるような娘達が好ましいのだ、ああいうしとやかな娘達と結婚すれば、自分は間違いなく幸せになれるのだろうとアシュラフは思う。

 それなのに、ふとした拍子に、いつも何となくザナを目で追っている自分に気づいて、アシュラフは少々狼狽するのだった。

(まさか、ありえない。彼女はよそ者だぞ。よりによってザナみたいな女性に懸想するなんて、ありえない……)

 学問堂の授業中だというのにアシュラフは勢いよく頭をぶんぶん振って、子供達に不思議がられた。


 眉目秀麗で誰にでも親切なアシュラフは、女たちに人気がある。若い娘の中には彼に思いを寄せている者も多く、可愛らしい顔を恥ずかしそうに赤らめながら、度々アシュラフの家を訪れて総菜を届けてくれる者もいる。彼女たちは決まって、作りすぎてしまったからと言い訳して、彼の重荷にならないよう気を遣ってくれるのだった。

 しかしアシュラフは彼女たちの好意に感謝しつつも、我知らず心が惹かれるという経験をしたことはまだなかった。

 ぶっきらぼうで無愛想で女らしさのかけらもない、料理も機織りも裁縫もできない上に端からやる気も全くない、妻にするにはザナほど不向きな女もいなかろうと思われるのに、アシュラフは気づけばいつでもザナのことで頭がいっぱいなのであった。


 人さらい騒動の余韻も収まった頃、ロバの牽く荷馬車に乗って、村に行商人がやってきた。もう十年以上も前から村にやってくる古くからの馴染みなので、村人達はみな彼の姿を見ると安心して挨拶をした。

 行商人は村の広場に荷馬車を止めると、地面に布を敷き、野菜や果物、塩、香辛料に絹織物を平積みした。女たちのためには手鏡や帯、櫛、香水、紅に簪などをところ狭しと並べる。即席の出店のできあがりだ。


 行商人がやって来たとの報せは、あっという間に村中を駆けめぐり、大人も子供もそれっとばかりに広場に集まった。

 行商人は吟遊詩人と並んで歓迎される客人だ。彼らがやってくると、村はいつでもちょっとしたお祭り騒ぎになる。何と言っても彼らはあちこちの土地を回ってくるので、旅の途上で様々な興味深いうわさ話をふんだんに仕入れている。行商人の来訪は変化の少ない村の生活において何よりの楽しみであり、情報収集の貴重な機会でもあった。


 村人達がわいわいと商品の品定めをしている間、ひげ面で恰幅のいい行商人は、腕組みしてのんびりと煙管をふかしていた。ザナも見物がてらアシュラフと一緒に広場にやってきたが、行商人の顔を見るなり、面識があったらしく駆け寄っていった。

「ジェゴンのおやじ!」

「おう、ザナじゃないか。久し振りだなあ。今はこの村にいるのか?」

「ああ、しばらくはここを拠点に商売しようと思ってね。どうだ、いい仕事の話はあるか?」

「砂金商人のサラエフが頼みたい仕事があるって言ってたぜ。隊商狙いの盗賊が多い地域だから、ザナしか頼める運び屋がいないって」

「そりゃそうだろう。あたしのハキールに追いつける馬がいたらお目にかかりたいもんだね!」

 会話の様子から、ザナは同業者同士の情報網や人脈を幅広く持っているようだった。アシュラフは聞くともなしに二人の話をそばで聞いていた。

「ようし、そうとなりゃハキールに伝えてこなきゃ!」

 砂金商人の現在の居場所を聞くなり、ザナは勇んで家に駆け戻っていった。この隙にとばかり、アシュラフは目をつけていた綺麗な塗りの櫛をジェゴンから購入した。

 買った櫛を大事に懐に入れてアシュラフが家に戻ると、既にザナはてきぱきと旅支度に入っていた。

「良さそうな仕事が入ったから、三・四日ほど留守にするよ」

「危険な仕事なのかい?」

「やってみなくちゃわからん」

 革の手袋をはめながらザナは言った。そのきりりとした横顔は颯爽と引き締まり、美しいというよりむしろ精悍とでも形容した方がいいくらい凛々しかった。


「気をつけてな」

 アシュラフは家の前で、ザナとハキールを見送った。ザナはハキールに飛び乗ると軽く手を振り、爆音を上げながら駆け去っていった。あとには砂塵がもうもうと舞うばかり。アシュラフは溜息をついて、家に入った。


 三日後、ザナは運び屋の仕事を無事終え、次の仕事の約束も首尾よく取り付けて、ほくほく顔で戻ってきた。

「ほい、これ。今回の報酬!」

 金貨がたっぷり入った財布を、どさりと絨毯の上に投げる。長靴を脱ぎ捨てながら、ザナは誇らしげに言った。

「長逗留させてもらってるからなあ。それも足りなくなったら、いつでも言ってよ」

「水臭い……。受け取れないよ、こんなもの。バター茶を飲み交わした客人は、もうランスの民の姉妹だよ。お金なんて受け取ったら、ランス族の名折れだ」

「まあまあいいから、とっとけって」

 ザナは鷹揚に言いながらぐいぐいとアシュラフの胸元に財布を押しつける。アシュラフは溜息をつき、立っていって箪笥の奥に財布をしまった。ザナがいつかこの村を発つときに、財布ごと丸々返してやろう。そう思って、ふとアシュラフの手が止まった。

(ザナがこの村を発つ?いつか?……)

 そうだ、彼女はいずれここからいなくなるのだ。その考えは思いがけなくアシュラフの心を寂寥で一杯にした。

 アシュラフは軽く頭を振っておのれの憂悶を振り払うと、箪笥にしまっておいた塗りの櫛を取り出した。

「ザナ、これ……気に入ってもらえるかどうかわからないけど。君にちょうど似合うと思って」

アシュラフはやや緊張しながら櫛を差し出した。ザナは櫛を受け取ると、面白くもなさそうに一瞥し、

「へええ……どうも」

 とひとこと言っただけだった。アシュラフは少々拍子抜けした。

(あまりこういうものに興味がないのかな?)

 少しがっかりもしたが、考えてみるにザナはあれこれ親切にしてやっても、嬉しそうな顔をしたことがない。ただ不思議そうな、なぜ自分にこうまでするのかと怪訝そうな目つきで見返してくるだけだった。



「あいつは人に優しくされるのに慣れていないのさ」

 アシュラフの疑問に、ハキールはあっさりと答えてくれた。

 アシュラフは土間に座って草履に使う縄をなっていた。軒下に停めてあるハキールを土間に引き込んで、手仕事の合間の話し相手になってもらっていたのである。ザナは学問堂の生徒達と一緒に、村の果樹園へシトロンを摘みに行って留守だった。

 ハキールは続けた。

「考えてみればザナも可哀想な奴だよ。あいつが十歳まで生活していた研究施設は、人を人として扱うような場所じゃなかった。俺に出会って施設を逃げ出すまでの十年間で、あいつは一生分の恐怖を味わったんだ。ザナはそれきり人間社会に背を向け、人に心を開こうとしない。今じゃ俺だけが心の頼りだ。もちろん、生活のために一応表面上は人に上手く合わせることだってできるがな、完全に人間を信用しているわけじゃないんだ。自分を酷い目に遭わせた人間社会を、あいつは自分から切り捨てたのさ」

 アシュラフは急き込んで尋ねた。

「……ザナがいたその施設というのは、一体何なんです?そこで何があったんですか?」

「施設では金持ち相手に、臓器移植手術が行われていた。あいつはその手術に使用される、臓器提供者として育てられていたのさ。提供者として施設で育てられていたのはみんな、赤ん坊の時分に売られてきた子供達だ。そこでは、金持ちが貧乏人の臓器を買っていたんだ」

 アシュラフは絶句した。ハキールは淡々と続ける。

「子供達は施設で共同生活をしながら、臓器提供の順番を待っていた。友達が一人、また一人と消えていくのを見て、ザナは毎日、次は自分かもしれないと怯え続けた。それがどれほど大きい恐怖だったかは俺にも想像できん。よく発狂しなかったもんだと思うよ」

「人の臓器を移植するって……そんな話は聞いたことがない!そもそも、そんなことが可能なんですか!」

 アシュラフは信じられなかったが、ハキールは至って冷静だった。

「俺がまだ人間だった頃、そうした手術は普通に行われていたんだ。度重なる世界大戦によって、高度な科学技術のほとんどが失われたが、ザナのいた施設の連中は日夜研究を重ねて、臓器移植の技術を復活させたんだ。その努力だけは俺も認めんでもないがね」

 外から人の話し声が聞こえてくる。ザナが子供達と一緒に帰ってきたのだ。ハキールは心なしかやや早口になった。

「もともと、ザナがいたその研究施設は、大戦によって失われた古き技を復活させる目的で研究者たちが集ったのがそもそもの始まりだったんだよ。何百年も地中に埋もれたままだった俺を発見したのも奴らさ。あいつらは俺のバイクに使用されている核燃料を取り出したくてうずうずしていたんだが、俺も簡単に渡してやるわけにはいかないんでね、ザナをそそのかして一緒に施設を脱走したんだ。それからはご存じの通り、二人で運び屋をして何とか生き延びてきたってわけさ」


 がらりと玄関の引き戸が開いた。ハキールは直ちに口をつぐみ、ただの黒光りする巨大な機械へと変貌した。そうしていると、先ほどまで自分に大いなる秘密を語ってくれた聡明なハキールがそこにいるとは、アシュラフには思えなかった。

「ただいまあ!先生、これ見てよ!ザナが棒を使って、たくさん落としてくれたんだよ!」

 学問堂の生徒達が、籠一杯のシトロンを誇らしげに持ち上げてみせる。ザナはいつもながら仏頂面というほどでもない無表情で、靴についた泥を玄関先で落としていた。

「あ……ああ、お帰り。みんな喉が渇いたろう?待ってな、山ハッカのお茶を作ってやるから。上がって、居間で待っていなさい」

 生徒達はわっと歓声を上げた。山ハッカの葉をたっぷり入れ、金冠花の蜜で甘く味付けした冷たいお茶は子供達の好物だ。みんな我先に靴を脱ぎ捨て、どやどやと居間に入っていく。

 ザナは最後に玄関に入ってくると、土間にすまし顔で鎮座しているハキールにふと目をやり、声をかけた。

「ハキール……どうかした?」

「どうしたって、何が?」

 ハキールの口調は全く平静で、そこには感情の揺れは微塵も感じられない。

「何だか……いつもと様子が違ってみえる」

「そんなことを言うのはお前さんだけだぜ」

 ハキールは苦笑した。

「ただのバイクが、一体どうしたらいつもと違って見えるんだよ。ほら、お前もアシュラフを手伝って、山ハッカを摘んでこい」

「うん……」

 ザナは微笑して、玄関を出て家の裏手にある薬草園に向かった。

「鋭い奴だぜ、全く」

 ハキールは小さく嘆息し、再び沈黙した。



 ザナとハキールがアシュラフの家に逗留して、はや三週間が経過した。ザナはその間も村人や隊商に頼まれてぽつぽつと運び屋の仕事をこなし、少なくない金を稼いでいた。

 村の子供が夜中に突然の腹痛を訴えたときは、ザナはすぐにただ事ではないと判断し、直ちにハキールに飛び乗って、大きな街から医者を連れてきた。

 医者の見立てでは、ザナが知らせに来るのがあと少しでも遅れていたら危険な状態だったという。ザナはすんでの所で子供の命を救ったのだ。

 子供の両親は地面に頭をすりつけんばかりにして、泣きながらザナに礼を言ったが、ザナは困惑したように肩をすくめるばかりだった。


 先日人さらいから子供達を奪還してくれた件もあり、ザナは村人達から大いに感謝され、もはや村の一員として人々から受け入れられるようになった。

 そんなザナを見ていると、立派に人間社会に順応しているようにアシュラフには思われて、ザナはもう二度と人に心を開こうとはしないといったハキールの言葉が、まるで悪い冗談のように思われてくるのであった。


 ザナは子供に愛想のいい女ではなかったが、それでも不思議に子供達に懐かれた。彼女は子供をどう扱っていいかわからなかったので、大人に接する時と変わらぬ態度を取るしかなかったのだが、子供を子供扱いしないところが却って彼らから信頼されたのかもしれない。


「ザナ、ハキールに乗せて!」

「あっ、ずるい。僕もハキールに乗りたい!」

 子供達にわあわあせがまれて、ザナは仕方なく順番に一人ずつ子供を自分の後ろに座らせて、村を一周してやるのだった。子供はザナの胴にしっかり腕を回してしがみつき、きゃあきゃあ言いながらも大はしゃぎでこの遊びを楽しんだ。

 アシュラフが居間に端座して、学問堂の授業で子供達が提出した算術の答案を朱筆で添削していると、ハキールのエンジン音に子供達の歓声が入り混じって聞こえてきた。

(また子供達がザナにせがんで、ハキールに乗せてもらっているな)

 アシュラフの理知的な白いおもてが、ふっとなごんだ。こういう生活がずっと続いてくれればいいと彼はいつの間にか願うようになった。


 ザナも気が向いたときはアシュラフを手伝って、学問堂の仕事の手助けをした。

 アシュラフとザナが二人で、生徒用の小さな文机を居間に並べて午後の授業の準備をしていると、石屋の倅のリクとセリムがやって来て縁側から顔を出した。

「先生、先生。今日は父ちゃんの仕事を手伝うから、勉強はお休みします!」

「ああ、そうなの。わざわざ伝えに来てくれてありがとう。そうだ、痛風によく効く薬草があるから、お父さんに持って行きなさい」

 アシュラフが薬草を袋に入れている間、リクとセリムは並んで縁側に頬杖をつきながら、紙と硯をそれぞれの文机に置いているザナを見やっていたが、リクが出し抜けにアシュラフに向かって尋ねた。

「ねえ先生、いつザナと結婚するの?」

「えっ」

 アシュラフは思わず薬草を取り落とす。リクはたたみ込むように言葉を継いだ。

「先生、ザナと結婚するんだろ?先生はザナのこと好きだもんなあ。いつもザナの方ばっかり、ぽーっとした顔で見てるもん」

「な、何を言うんだ!」

 普段冷静なアシュラフのおもてが、さっと紅潮した。リクとセリムはませた口調で、かわるがわるはやし立てた。

「ザナは綺麗だもんなあ。無愛想だけど」

「男は髭が生えたらすぐ結婚しないと駄目なんだよ。アシュラフ先生なんて遅すぎるくらいだよ。村じゃみんな心配してるんだから」

「お姉ちゃんももう結婚してないとおかしいよ。女の子は、おっぱいができたら結婚するんだ」

 セリムはザナに言いながら、自分の平らな胸の前にこんもりと小山を作る手振りをして見せる。ザナは口の端をわずかに動かして、ふっと笑っただけだった。

「こら、お客様に失礼な!お前達、こんな所で喋っている暇があったら家の手伝いをしてきなさい!」

 アシュラフが叱りつけるように言いながら薬草を渡すと、子供達はきゃあきゃあ笑いながら逃げていった。

「済まない、子供達が変なことを言って……」

「別に」

 どうでもよさそうにザナは答える。言ってみればザナは常に、ハキールを除いてこの世の全てに関心がなさそうなのだ。

 答案の枚数を数えているザナをアシュラフはしばらく黙って見つめていたが、やがて口を開いた。

「ザナ」

 ザナが答案を抱えたまま、すっと振り返る。アシュラフはいささかおもてをあらため、口調もあらためて言った。

「あの、君さえよければ……ずっとこの家にいてくれてもいいんだよ。君の食べる分くらい、僕がなんとか稼いでみせるし……。君は学問堂の仕事や畑仕事を時々手伝ってくれれば……」

 だが皆まで言わせず、ザナはばっさりと切り捨てた。

「あたしは旅が好きなんだ。ハキールに乗って、風みたいに自由に大地を駆けて、気の向くまま好きなところに行きたい。金がなくなったときだけ働いて、寝たいときは寝るこの暮らしが気に入ってるんだ。毎日地道に畑を見回って、作物の出来具合に神経をすり減らすような生活なんて、性に合わないよ」

「で…でも、この生活にはいいことだって沢山あるんだよ。収穫の喜びには何ものにも代えられないし……君も一度やってみればわかるよ!」

「御免だね」

 少しも心を動かされた様子もなく、あっさりとザナは言う。アシュラフはぐっと拳を握り、奥の手を繰り出した。

「ハキールとずっと一緒にいたいって君はいうけど、それは逃げじゃないのか?いつまでもそうしているわけにはいかないだろう。だってハキールは人間じゃなくて、バイクに過ぎないんだから。どんなにハキールを愛したところで、それは本当の人間の男と築く家庭じゃないよ。君は結局、他人と向き合うのが怖いんじゃないのか?」

 少々卑怯な気もしないではなかったが、アシュラフは先日のハキールとの会話によって知り得たザナの急所を突いたつもりだった。

 その効果は少なからずあったようで、ザナは灰色の瞳を怒りに燃やし、いきなり立ち上がった。

「ハキールが人間じゃないだと?ほざけ!ハキールの心は誰よりも優しい。姿形なんて関係ない、バイクだろうが何だろうが、ハキールだけがあたしの家族だ!お前ら人間の方が中身はよっぽど薄汚れているくせに!」

 ザナは捨て台詞を投げつけると、いきなり縁側から飛び降り、そのまま裸足で玄関前に走っていった。エンジン音が玄関から響いてきたかと思うと、爆音は家から遠ざかっていった。おそらく当分、ザナはハキールに乗ったまま帰らないだろう。


 アシュラフは大きく溜息をつくと、ザナが放り出していった試験の答案を屈んで拾い集めた。そうやって一人でいると、失望と困惑で興奮しきった頭が、次第に冷静になってくるのが自分でもわかった。

(僕はザナにあんなことを言う資格はないんじゃないか?……表面上は他人に上手く合わせて、本音のところでは気を許していないなんて、多かれ少なかれ僕たちはみんなそうじゃないか。本当に他人に心を開いている人なんて、一体どれだけいるだろう?)

 我が身を振り返ってみれば、自分は村長かつ氏族長としてそつなく仕事をこなしてはいるが、それは単にそうした家柄に生まれついた者の義務としてやっているだけのような気がする。本音のところはこんな面倒な仕事は御免こうむりたいと思っているし、村人達と真に心が通じ合ったと感じることなんてほとんどない。


 となれば、ザナ一人が心を開いていないなどと責められる謂われは何もないはずだ。ただ彼女はハキールというバイクの姿をした相棒がいるゆえに、人間社会に背を向けているとの批判を受けやすいだけだ。

(根っこのところでは僕だって、ザナと同じ問題を抱えているんだ……)

 アシュラフは溜息をついて、首を振った。


 青空に鷲が旋回しているのが見える。ザナは村を見下ろす小高い砂丘の上にハキールを停めて、膝を抱えて座っていた。ザナは外界を拒絶するように自分の膝小僧に顔を強く押しつけていた。

「ハキール、あんたが人間だったらなあ……そしたら、誰もあたしをあんたから引き離そうとしなかっただろうに……」

 ザナは無念そうにぽつりと呟いた。ハキールは沈黙したまま、何も言わない。日が落ちて、夜空に無数の星が輝くまで、二人はそのままそこでじっとしていた。


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