第一章

赤茶けて乾燥した大地に、忽然となつめやし畑が現れた。緑の木々の存在は、その土地に水がある証拠だ。なつめやしの木々の間に、白い小さな家々が立ち並んでいるのが遠目に見えた。


丘の上からは集落の様子が一望できる。村の周囲に植えられたイチジクや葡萄の木々が、穏やかに風に揺れている。満々と水をたたえた灌漑用水路が、まるで血管のように村のすみずみまで張り巡らされているのが、遠目にも伺えた。


 粉ひき小屋の大きな水車が、豊富な水を受けてゆっくり回っている。その緩慢な動きを眺めていると、いつしか眠気に誘われるようだった。


 砂を踏みしめて丘に立つのは、燃え立つような赤毛が印象的な若い娘だ。彼女は腕を組んで、肩までの髪を熱い風になびかせながら、じっと村を見下ろしていた。


 肌はよく日に灼けて、ほとんど褐色に近い。灰色の瞳は考え深げで聡明そうであるが、どことなく人を拒絶するような冷たさを感じさせる。年の頃は十代後半から二十代前半といった所か、よくよく見れば整った顔立ちをしているが、その刺し貫くような鋭い目つきや引き締まった口元から、どうかすると若い男かと見まごうようであった。


 日よけの長いマントで身を包み、その下は質素な短い胴着を着込んで、ぴったりとした脚衣に革の長靴を履いている。その男のようななりも、彼女が若者に見えるのに一役買っていた。


やがて彼女は口を開いた。


「ハキール、村だ。ありがたい、久し振りに水にありつけるぞ」


「もう少しで日干しになるところだったな、ザナ」


 旅の連れのハキールが、笑いを含んだ声で言う。ザナは村に目を向けたまま、女にしてはやや低めの声で呟く。


「なつめやしも葡萄の木も沢山生えているし、緑豊かで居心地の良さそうな村だ。しばらくあの村に留まって商売するのもいいな。最近旅続きだったから」


「おやおや、ザナの口からそんな言葉が出るとはね。お前さんもようやく、一つところに落ち着きたくなったってわけかい?」


 ハキールが冷やかすように皮肉げに笑う。ハキールとザナが出会ってからもう十年以上が経つので、二人の間にもはや遠慮はなかった。


 ザナは小さく肩をすくめ、鼻で笑った。


「馬鹿言え。一つの土地に留まるなんて、まっぴら御免だ。あたしは旅暮らしが気に入ってるんだよ。運び屋稼業は、一度やったらやめられないからなあ」


 ザナはマントを大きく翻して踵を返すと、長い脚を上げて軽やかにハキールに飛び乗った。ザナはハキールのハンドルを握り、思い切りアクセルをふかした。


「よし、じゃあ行こうぜ、相棒!」


 ザナを乗せたハキールは、爆音を上げながら丘を駆けくだり、村へ向かった。



 人口二千人ばかりの小さな村で、学問堂は唯一の学校である。学問堂の裏手には薬草園が広がっており、チシャやニガヨモギ、マンネンロウに月桂樹、からし菜にハツカダイコンなど、生活に役立つ様々な薬草が植えてある。学問堂に通ってくる小さな子供らも、時折は畑の世話を手伝い、その褒美として好きな薬草を持ち帰ることが許された。


 アシュラフは畝の間を歩いて薬草の手入れをしつつ、食べ頃になった玉葱とニンニクの収穫をしているところだった。足元ではにわとりとひよこが好き勝手にうろつき回り、地面をほじくり返してはミミズを捕まえている。


 ばたばたと慌ただしい足音が聞こえてきたかと思うと、十になるかならないかの子供が二人、薬草園に転がりこんできた。


「先生!アシュラフ先生、大変だよ!」


「やあ、リクとセリムじゃないか。一体どうしたんだね」


 アシュラフは腰を伸ばして、すっと立ち上がった。それはすらりと背の高い、まだ二十代半ばと見られる青年だった。


 白いおもては冷静で、細い鼻梁は高く通っており、若い学者であるかのように理知的な顔だちだ。漆黒の髪は肩までまっすぐ流れている。切れ長の黒い瞳は穏やかで、どことなく相手を包み込むような優しさがある。


 アシュラフがまとっている白い長衣は、厳しい日射しと砂嵐を避けるためのものだが、その静かで落ち着いた物腰のせいもあって、まるで砂漠に住まう隠遁者のように浮世離れした印象を彼に与えていた。


 リクとセリムはアシュラフの手を引っ張って、口々に言った。


「先生、村に旅人がやって来たよ!男みたいな格好をした、女の人!」


「そいつ、見たこともない変な馬に乗っているんだ。黒と銀色に光ってて、すごい大きな声で鳴く馬で、ものすごく速く走るんだよ!もう村じゅう大騒ぎだよ!」


 よっぽど慌てていたのか、リクもセリムも師の前だというのに丸帽すらかぶっていない。リクとセリムは兄弟で、学問堂に通ってくる生徒だった。アシュラフはおのれの自宅の居間を学問堂として開放し、幼い子供達に毎日読み書きや算数を教えているのだ。


 とそこへ、子供達の父親である村の石屋が顔を出した。


「アシュラフ先生、早くいらしてくだせえ。あの旅人さんをどうすべきかわからんので、みんな困り果てています。早く先生をお連れしろと長老方もわめいておりますんで」


「わかりました、参りましょう」


 アシュラフは玉葱とニンニクの入った籠を置くと、子供達と手を繋いで、村の集会場へ向かった。


 問題のその旅人は、風通しのよい集会場の縁側に腰掛けて、薔薇の実のお茶を振る舞われているところだった。


 小川に付けて冷やしてあった水瓜を村の女が食べやすく切り、皿に盛って出してやると、旅人はことのほか喜んだ。


「これはありがたい。砂漠を旅してきた者には何よりの馳走だ」


 遠慮なく水瓜に手を付け、しゃくしゃく音を立てながら頬張っている。そこへ、子供達に連れられてアシュラフがやって来た。


「おい、アシュラフ先生だ。村長が来たぞ」


「おお、アシュラフ族長だ」


 アシュラフが集会所に近づいていくと、村人達は会釈して道を空けた。子供はアシュラフの手を引いて指さした。


「先生、あれ!あれだよ、すごく速く走る、変な馬!」


 なるほど、縁側に面した中庭には、黒光りする大きな化け物のような、奇妙な物体が止めてある。一見すると馬に似ていないこともない。


「おお、これは……」


 アシュラフは感心した口調で言うと、吸い寄せられるように近づいた。周りから村人達の声が飛んだ。


「先生、危ねえですよ!あんまり近づくと噛みつかれるよ!」


「大丈夫、これは馬ではない。モーターバイクという名前の乗り物で、第七次世界大戦の前まではどこでも普通に使われていた、機械という非生命体に含まれるそうだよ」


 水瓜を囓っていたザナが顔を上げた。


「へええ?よくご存じで。それを知っている人間には、今まで会ったことがなかったね」


 ザナの目が値踏みするように冷ややかに底光りした。アシュラフはそこで初めてザナに向き直り、彼女の目を真正面から見つめ返しながら、穏やかに微笑んだ。


「蔵にあった古い本に、モーターバイクなるものの名前と姿形が載っておりました。しかし実物を見るのは初めてです。本当に存在したのですね。度重なる戦争で、とうに失われた古き技だと思っていたのですが……」


 アシュラフはザナの隣に少し離れて腰を下ろした。子供達は恐る恐るバイクに近づき、おっかなびっくりであちこちに手を触れている。


 アシュラフは居住まいを正すと、自分の胸に手を当てて、丁寧にお辞儀をしながら言った。


「申し遅れました、わたくしはザラキエフの息子、アシュラフと申します。ランスの民の族長でこの村の長でもあった父が昨年亡くなりましたので、父親の跡を継いで、いまは私が氏族長と村長を兼任しております。長老達に補佐してもらいながら、この村と近隣一帯のランス族の村々を束ねております。よしなに」


 差し伸べられた手を握りながら、ザナはさばさばと言った。


「ザナです。父称はありません、ただのザナ。このバイクに乗って村や街を渡り歩いては、運び屋として日銭を稼いでいます」


「運び屋?ほう、それはどんなお仕事ですか?」


「隊商や商組合から依頼を受けて、村や街に香辛料だの砂金だのを運ぶんですよ、この単車に乗っけてね。馬や駱駝よりよっぽど速いし確実だから、わりと重宝がられているんです」


「ではずっと旅を続けられて……?」


「ええ、自由気ままな旅稼業です。北からずっと南下してきたのですが、ここから先の土地へ向かう前に、まずはこの村で骨休めしようと思って立ち寄らせていただきました」


「そうでしたか。どうぞ一ヶ月でも半年でも休まれていって下さい。我々ランスの民は、旅人をもてなすことを最上の喜びとします。友愛の精神こそがランスの魂であり、誇りです。我々はあなたを歓迎します」


 族長としての威厳を凛と漂わせてアシュラフが言うと、このやりとりを見物していた村人達の中に低いどよめきが起こった。長老達が身振りで女達に指示し、急いで新しいお茶を持ってこさせる。何が始まるのかとザナは不思議に思ったが、余計な口はきかず、黙っていた。


 やがて用意された器に菩提樹の葉のお茶が注がれた。村で飼っている山羊の乳から作られたバターが、塊ごとお茶の中にどぼんと入れられる。バターを溶かしながら、アシュラフが塩をひとつまみ、お茶に振り入れた。


「どうぞ、おあがり下さい」


 アシュラフに促されて、ザナはそのバター茶をおしいただいてから飲んだ。全部は飲まず、一応器に少し残しておく。そのくらいの常識はザナもわきまえている。


 村人達はしんとなって、食い入るように見つめていた。ザナが口を付けた器を今度はアシュラフが取り上げて、彼も一口飲んだ。器を置いて、アシュラフは口を開いた。


「旅人よ、あなたは我々の大地が与えたもうた実りを、共に口にしました。あなたは我々ランスの民と既に姉妹です」


 アシュラフが静かに宣言すると、村人達の緊張がほっと解けるのがザナにも伝わった。再びざわめきが起きたが、既に村人達の顔には穏やかな笑顔が戻っていた。彼らは安心したように腰を上げ、三々五々帰りだした。


(今のは歓迎の儀式か何かだったんだな)


 これまでの旅でも、ザナは色々な村で様々な儀式をもって迎え入れられてきた。そうした経験から言えるのは、こういう時は黙って村人達の言う通りにしているのが最善であるということだった。


(まあこれで、あたしはめでたく村に受け入れられたってわけか)


 一安心したザナは、手を伸ばして水瓜をもう一切れ取った。アシュラフは鉄瓶を取って、薔薇の実のお茶をザナの湯呑みにつぎ足してやる。


「この村にお立ち寄り頂いて本当に良かった、この先の土地に行かれるなら、どこを通るべきか前もって知っておかないと物騒ですからね。ここら一帯の地方は複数の氏族が統治しておりまして、その勢力範囲は非常に込み入っているのです。主要十氏族と俗に申しますが、この地方ではそれがさらに複雑に枝分かれしております。外部の人間に対して非常に攻撃的な氏族もありますから、うかつに彼らの村に近寄ると危険です」


「危険とはどのように?」


「馬で追われて矢を射かけられますよ。ゼラン族などは騎馬民族ですから、彼らの怒りを買うと特に厄介です。我々も敵対する部族が統治する村の近くを通るときは、これ以上はないと言うほどの注意を払います。部族同士の戦争でも起こったらことですからね。七度に亘る世界大戦で、人類はもう絶滅寸前とも言えるほど人口が減少してしまったのですから、生き残った人間同士で殺し合いをしている場合じゃないと私は思うのですが……」


 最後の言葉は独り言として口の中に消えた。アシュラフは袂から筆入れを出し、腰にくくりつけていた墨壺の蓋を開けた。懐紙を広げながら彼は言う。


「ランスの民の氏族長として、土地の通行証をお渡しします。我々と友好関係を築いている氏族なら、この通行証を見せれば問題なく通してくれます。ついでにここいら一帯の詳細な地図もあとでお渡ししましょう。各氏族の勢力分布も記載されておりますから、今後の旅に不可欠となるでしょう」


「そいつはご親切に」


 ザナはぞんざいに頭を下げた。それはまるで、こういう場面では一応礼を言うのが相場だからそうしているとでもいった様子だった。


 アシュラフが流麗な筆記で、通行を許可する旨の文章をさらさらと懐紙に書き付けていると、突然爆音が鳴り響き、バイクをぺたぺた触っていた子供達から驚きの悲鳴が上がった。


「おいおい、変なところを触らないでくれ!発進しちまうだろ!」


バイクの前方についている電光板から聞こえてきたのは、若い男の声だった。黒い電光板に波状の光がきらきらと走る。


「しゃ、しゃべった……!」


 子供達は慌てて飛び退いて、バイクを遠巻きにして恐ろしげに見つめている。


「君たち、そこは握らないでおくれよ。グリップをひねると、エンジンがかかってしまう」


 ザナは穏やかに言いながら、ゆったりと立ち上がってバイクに歩み寄った。バイクは閉口したといった口調でザナに訴える。


「おいザナ、このちびすけどもをどうにかしてくれ。人間だった頃の触覚が俺に残っていたら、あちこちくすぐられて笑い死にしているところだぞ、まったく!」


「まあ勘弁してやれよ。お前が急に声を上げたもんだから、見ろ、子供達が怯えているぞ」


ザナは穏やかに笑っている。


「俺には見えねえっつうの」


 バイクはふて腐れたように言う。その口調は、もし「それ」が人間であったなら、恐らく口を尖らせてそっぽを向いているところであろうと想像させた。


 アシュラフは驚きに目を見開いて、ザナとバイクのやり取りを見守っている。その視線に気がついたのか、ザナは振り向いて安心させるように笑った。


「紹介し遅れた、こいつは相棒のハキールだ。魔道でも妖かしの技でも何でもないから、心配しなくていい。このバイクの中には、世界大戦時の若い軍人の魂が生きているんだよ。はるか四百年の時を超えてね」



 なつめやしは青空に向かって緑の葉を伸ばし、柔らかい風に吹かれて揺れている。なつめやし畑をくぐる村の小道を、ザナとアシュラフはバイクのハキールを真ん中にして歩いていた。


旅人は村長の家に泊まるのが通例なので、ザナたちはいまアシュラフの家に向かっているところだ。ザナはハキールのハンドルを握って牽きながら歩いている。


 感歎した面持ちでアシュラフが言った。


「では……このバイクの心臓部にあたる精密機械に、人の頭脳の情報がそっくりそのまま、移し替えてあるということですか?」


「ま、そういうことだ」


 ハキールは鼻を鳴らすように、ぶるん、とエンジンをふかした。


「そんなことができるんですか……。確かに大戦前は、そのような優れた技が使われていたとは小耳に挟んでおりましたが……」


「俺が人間として生きていたのは、今から四百年前の第五次世界大戦下だ。人間の有する科学技術が、その最高水準に達したと謳われる時代だな。ハキールというのは、その時の名前だ。俺は二十五歳で、陸軍少将だった」


「すっごい出世頭だったんだよ!」


 ザナが我がことのように、誇らしげに口を挟む。ハキールは苦笑した。


「出世頭って言ってもなあ……。その頃既に、全世界の人口はかなり減少していたから、若いのが否応なく軍を率いて戦わざるを得なかっただけだよ」


 アシュラフが口を開いた。


「第五次世界大戦時に使用された特殊な兵器によって人類は壊滅的な被害を受け、大地も広範囲に亘って汚染され、世界の人口は激減したと聞いております。その後第七次大戦に至るまで人類は減少し続け、古き技はついに失われるに至ったとか。……僕も古老の昔語りや、村に時折やってくる吟遊詩人の歌で聞きかじった程度ですが」


「学校の先生ともなるとさすがに物識りだな、おかげで話が早いや。第七次世界大戦が終結して既に百年か、俺の生きた時代も遠くなったものだ。あれほど沢山いた戦友も、一人残らず死んでしまった。しかし大地の汚染はあちこちでいまだに残っているみたいだな」


 ハキールとザナは旅の途上、旧世界の遺物である高層建築が風雨にさらされ廃墟となって、随所にうち捨てられているさまを目にしてきた。そこは野犬すら寄りつかない死の世界だった。


「……でも、一体どういう理由であなたはそんな姿に……?」


 アシュラフの遠慮がちな問いに、しばらく沈黙してからハキールは答えた。


「おれの頭脳をこのバイクに移し替えたのは、俺の恋人だ。彼女はそれが最善と思ったんだろう……そう、今からもう四百年も昔のことだ。第五次大戦時、激戦のさなかに俺は敵の砲弾を食らって重傷を負ったんだ。医者は俺を診て、もう助からないと宣告した。だが俺の恋人だった科学者は、あきらめられなかったんだよなあ」


 ザナとアシュラフは黙って聞いている。


「彼女はどんな姿でもいいから俺に生きていてほしい、この世に存在し続けて欲しいと願ったんだ。そこで彼女は、俺が息を引き取る直前に俺の脳の情報を全てデータ化して、記録用マイクロチップに保存したのさ。それを彼女はこのモーターバイクに搭載したってわけだ。車体は超合金で頑丈だし、これなら滅多に壊れないと思ったんじゃないか。しかも原子力で動くから、いちいち燃料を補給する必要もないしな。……ええと、原子力ってのは、俺の中で燃えている命の火みたいなもんだと思ってくれ。そうか、データとかマイクロチップとか言ってもお前さん方には意味がわからないよな、でもこいつは何と言い換えればいいのか、俺にもよくわからない」


「大丈夫です、大体の感じは何となくつかめますよ」


 礼儀正しくアシュラフは応じる。ハキールは続けた。


「生命反応の無くなった俺の肉体は国旗に包まれて、戦友達に見守られながら埋葬された。その頃にはもうすでに、俺の脳の情報は全てバイクに転写されたあとだったから、バイクに生まれ変わった俺も恋人に連れられてその場に立ち会ったんだ。変な話だろ、俺は自分の葬式に自分で参列したんだぜ」


「……」


「バイクになってからは、俺は仲間達を背中に乗っけて戦場を駆け回った。時が流れ、俺をこういう姿にした恋人もやがて年老いて死んでいった。仲間達がみんな死に絶えたあとも、俺は従軍し続けた。だがある日、敵の爆撃を受けて俺は地中深く埋まっちまった。そのまま数百年の歳月が流れたが、十数年前ようやく掘り起こされ、久し振りにお天道さんを仰いだってわけさ。ザナに出会ったのは、俺が再び地上に生還して二ヶ月後のことだった」


 アシュラフはしばらくなんと言っていいのかわからなかった。超合金の車体、燃料の補充の必要もない今の体。ハキールは恐らく半永久的にこの世に存在し続けるだろう。望むと望まざるとに関わらず、彼の現在の体はそれが可能なのだ。アシュラフはためらいがちに尋ねた。


「ハキール、あなたは……永遠の命を得て、いま幸せですか?」

「さあ、わからないね……」


 アシュラフはなぜだか、ハキールが肩をすくめる姿が一瞬見えたような気がした。


「だが一つだけ確実に良かったと言えるのは、自分が生きた時代の四百年後に生まれてきた人間たちと、こうして会話ができるってことだ。これは全く想定外の経験だったね。ザナにも会えたしな」


 ザナは嬉しそうににっこり微笑む。どこか斜に構えたような皮肉めいた表情をしていることの多い彼女だが、笑うと別人のようにあどけなく、素直そうに見えた。

 ハキールは淡々と続ける。

「何百年経とうが、人間の本質ってのは全く変わらないってことが俺にはよくわかったよ。その尊さも気高さも、その狡さや醜さも。俺たち軍人は、独裁者から世界の平和を守るために戦っていた。だが大戦後、ほんのわずかに生き残った人間達が少数の氏族に分かれて、なお諍いを続けていると思うと、俺のやったことは一体何だったのだろうとふと思うよ。俺や戦友達が命をなげうって戦ったことも、俺が機械の体を得たことも、全て意味がなかったのだろうかと……」


 ハキールはふっと口をつぐんだ。それきり、彼は一人思いに沈むように、口を閉ざしてしまった。


このバイクには一人の男の魂が閉じこめられているのだとアシュラフは思った。わずか二十五歳で、若き陸軍少将ハキールの刻は、永遠に止まってしまったのだ。


 

 さすがに氏族長を兼ねる村長の家だけあって、アシュラフの家は他の村人のどの家よりも大きかった。村人達がいつでも大勢集まれるように、絨毯の敷かれた居間はかなり広々としている。全体が風通しの良い平屋造りとなっており、庭に面した板戸を開け放てばまるで壁一面を取り払ったかのようで、緑豊かな庭を見渡せる。ザナは家の中を見回した。


「こんな大きな家に独りで住んでいるの?」


「ああ、僕にはきょうだいはいないし、母は僕が小さい頃に亡くなったのでね。父が昨年病気で他界するまでは、ずっと父と二人暮らしだったんだ。どうぞ気兼ねなく、自由に部屋を使って下さい。毎日午後の数時間、この居間を開放して子供達に勉強を教えているので、その時は少し騒がしくなるかもしれないが」


「いいよ、気にしないよ」


 ザナはハキールが雨風に晒されないよう、玄関前の軒下に停めた。


 一息ついた後、アシュラフはザナとハキールに村の案内を申し出たのだが、ハキールは丁重に断った。


「俺はここにいるよ。二人で行ってくるといい」


 一人で置いていったら寂しいのではないか、退屈なのではないかとアシュラフは気遣ったが、ハキールにそうした心配は無用のようだった。


「俺は数百年も土の中に埋まってたんだぜ。時間を潰すのは慣れてるよ、気にするな」


 小さく笑って、彼は言うのだった。


 アシュラフとザナは揃って家を出た。中天にあった太陽は、やや西に傾き始めている。


「ハキールはああやって時々一人で考え込むんだ」


 村の埃っぽい大通りをアシュラフと歩きながら、ザナは淡々と言った。


「ハキールはもう人間の肉体を持たないから、吹く風を体に感じることができない。綺麗な景色を眺めて楽しむことも、美味しい物を食べることもできない。ただ、近くに接近してくるものはバイクのレーダーに映るから、どこに何があるかはぼんやりわかるらしい。あのとおり、周りの音も一応聞こえるしね」


「つまり、あくまで兵器に特化した体になったってわけだな」


 アシュラフは深く考え込んだ。


「同情なんて、彼に失礼だからしたくないけど……ハキールはつらいのかな……つらいだろうな、やっぱり……」


 ザナはそれについて何も言わなかった。ザナは彼の呟きなど聞こえなかったかのように、歓声を上げて走っていく子供達の背中を目で追っていた。


 ザナがこれまで旅してきた中でも、この村は特に水の豊かな土地だった。灌漑用水路が村の隅々に張り巡らされ、人々があちこちで顔を洗ったり水を汲んだりしている。家のそばの水路で、おかみさん達が腰を下ろして洗濯しながら、世間話に花を咲かせていた。


 用水路の水は、村を経巡って最後に果樹園となつめやし畑に注ぎ込むようになっている。豊富な水のおかげで、村全体が緑に包まれていた。


 共同果樹園では葡萄、イチジク、ざくろが栽培され、それぞれ重たげな実を付けている。シトロンの木々が枝葉を伸ばし、地面に涼しげな青い陰を落としていた。


 蜂蜜も採取しているのか、蜂の巣箱らしきものがあちこちに置いてある。放し飼いの羊と山羊はザナが今まで見たことがないほどよく肥えており、村の豊かさを感じさせた。


 ザナは感心した声を上げた。


「いいところだな。一歩村の外に出れば、乾燥した荒野が広がっているとは思えない。緑多くて、水は豊かで、ここは地上の楽園だ」


「村から約百タフィール離れたところにある山脈から、地下水を引き込んでいるんだよ。おかげでこの村は一年中水が豊富なんだ」


 アシュラフは歩きながら、村の用水路に逐一目をやって点検しているようだった。用水路に乾草が入りこんで水と一緒に流れてきたときは、その都度手ですくい上げて捨てている。


 彼は時折、水路のあちこちに設けられてある石で作った仕切りを開けて、水を違う方向に流していた。かと思えば、また少し行ったところでは石で水路をふさいで、水の流れをせき止めている。


 不思議になって、ザナは聞いた。


「何やってるんだ?」


「一日に数回、こうして水門を開け閉めして水の流れを変えているんだよ。全ての畑に水が行き渡るようにね。何時にどこの水門を開閉するかは厳格な決まりがあるから、水の司はその時間と場所を全部きちんと覚えていないといけない。水路の変更は水の司の大事な仕事なんだ」


 石で水路をふさいでいるアシュラフは、真剣そのものの表情だった。


「水のつかさ?」


「水路管理人のことだよ。水の司は、他の村や敵対氏族との水争いが起こったとき、調停役も務めるんだ」


 水の司はかなりの重職なので、村の年配の顔役が務めるのが通常だが、アシュラフは若くとも人徳があるので、村の長老達に推されて一年前に水の司に就任したのだ。


 二十代半ばにしてアシュラフは村長であり、ランス族を束ねる氏族長でもあり、学問堂の教師であり、水の司でもあるという、なかなか忙しい立場にいるのであった。


 ザナとアシュラフの頭上から、威勢のいい声が降ってきた。


「よう、先生!」


 見上げれば、なつめやしの木の上で、腰巻き一枚の若い男がなつめやしの実を収穫している。アシュラフは明るく笑った。


「やあ、トゥフマ。精が出るな」


「ちょっとどいててくれ、いま実を落とすから!」


 アシュラフとザナが木から離れると、数え切れないほど多くの実を付けたなつめやしの房が、地面に広げた布の上にどさりと落ちてきた。


 男はするすると幹を伝って降りてくると、アシュラフと肩を抱き合って挨拶を交わした。


アシュラフはザナに向き直った。


「ザナ、僕の幼なじみのトゥフマだよ。トゥフマ、こちらがこのたび我々ランス族の姉妹となったザナだ」


「へーえ、この人が噂の旅人さんか」


 トゥフマは浅黒い肌に陽気な黒い目をした、表情豊かな男だった。興味深そうにザナをじろじろ見つめる。ザナはその視線に全く動じず、無表情のまま負けずに彼をじろじろ見返した。


 男に値踏みの視線を向けられても、恥じらうという娘らしい感覚がザナには全く無いようだった。


「こんな若い娘さんが同じ屋根の下に泊まるなんて、我らが学者先生は大丈夫かねえ。緊張のあまり、今夜から眠れなくなっちまうんじゃないか?」


 トゥフマが肘でつついて冷やかすと、アシュラフは幾分顔を赤らめながら「よせよ」と言った。だがザナは自分が泊まることでなぜアシュラフが眠れなくなるのかよくわからず、無言のままだった。


 トゥフマはアシュラフの肩を抱きながら、ザナに朗らかな笑顔を向けた。


「こいつ、なかなかいい奴だろ?今じゃ寺子屋の先生なんざやってるけど、世が世ならアシュラフはえらーい王様だったんだぜ。こんなふうに対等に口をきくなんざ、絶対できなかったはずだ」


「王様?」


 ザナが意外そうな目を向けると、アシュラフは肩をすくめるようにして、少々ほろ苦い笑みをもらした。


「我々ランス氏族はすごく古い歴史を持つ民で、もともとこの地方に自分達の王国を持っていたんだよ。大昔の話だけどね。僕はその王家の直系の子孫なんだ」


「へえ、だからいま氏族長をしているわけか……」


 ザナは頷いた。別れ際、トゥフマはなつめやしの実を二人にたっぷり持たせてくれた。


 トゥフマと別れたあと、ザナと肩を並べて歩きながらアシュラフは独り言のように呟いた。


「七度に亘る世界大戦で、人類が有していた高度な科学技術は失われ、同時に古き伝統もかつての国境も、何もかもなくなった……。王の末裔とは言っても、いまの僕は村人たちと一緒に鍬をふるい、泥だらけになりながら畑仕事に汗を流す、一介の農夫に過ぎない。でも僕はそれで良かったと思っているよ。村人みんなが、気さくに僕と付き合ってくれるからね。もし王になんて生まれついていたら、きっと敬して遠ざけられて、随分孤独だったろうと思う。この村全体が、一つの家族みたいにまとまっているんだ」


「ふーん……」


「ところで、きみ親御さんは?」


 話題を変えるようにアシュラフは言った。ザナは軽くかぶりを振る。


「いないよ、私は親無し子だから。十歳でハキールに出会って以来ずっと、彼がたった一人の家族だ」


「そうか……」


 アシュラフはそれ以上突っ込んで聞くのはためらわれた。何となく二人は黙り込んだ。そのまま二人は歩き続け、気がつくと村はずれの野原までやって来ていた。


 豊富な水のおかげで、野原には様々な花が咲き乱れている。アシュラフは辺りを見回して何かを探している様子だったが、不意にある花を指し示して、ザナに笑いかけた。


「あった、あった。ほら、ザナ(アザミ)の花だよ」


「へえ、これが……。初めて見た、綺麗だな」


 ザナはおのれの名の由来であるその花を、じっと見つめた。つと手を伸ばして触れようとすると、アシュラフがやんわりと制止した。


「花の根本や葉っぱに鋭い棘が生えているから、やめておいた方がいいよ。昨日も僕の生徒がうっかり摘もうとして手を怪我したので、膏薬をつけてやったんだ」


「随分と危険な花なんだな」


 ザナは苦笑して手を引っ込める。アシュラフは言った。


「ザナの花には薄い紫とか青紫色のものもあるけど、やっぱり僕はザナの花は赤が一番綺麗だと思うな。君の髪は見事な赤毛だから、ザナという名前はぴったりだね」


 ザナはつかの間無言でいたが、奇妙に静かな微笑みを浮かべて呟いた。


「あたしにザナという名をくれたのは、ハキールだったんだ。ハキールに名前をもらうまでは、あたしは番号で呼ばれていたんだよ」


 ザナとアシュラフが家に戻ると、ハキールは玄関前の軒下で、二人が家を出たときと全く同じ様子で佇んでいた。どこからどう見ても、外見自体は旧世界の大型バイクに過ぎない。これが自分でものを考えて喋ったり笑ったりするのが、まだアシュラフには信じられなかった。


 人間のように顔が付いているわけではないので、そばに近寄ってもハキールが笑っているのか、怒っているのか、それとも退屈そうにしているか、アシュラフには全くわからない。それがアシュラフを少し落ち着かない気持ちにさせた。だがハキールと長い付き合いのザナは、そうした気後れは全くないようだった。


「ハキール、ただいま!」


 ザナは駆け寄って、巨大なバイクを抱きしめて頬ずりする。車体の前方についている電光板に、さっと波状の光が走った。電光板から飄々とした男の声が聞こえてきた。


「よう、おかえり。どうだ、なかなか面白そうなところか?」


「うん、すごく水と緑が豊かな村だよ、あたし気に入ったな。しばらくここに逗留してもいいでしょ?」


「ああ、好きにしな。別段急ぐ旅でもないしな」


 ハキールが鷹揚に言うと、ザナは歓声を上げながら車体に抱きついた。


 どこか冷めたような態度のザナが、ハキールに話しかけるときだけは小さい子供のように甘えた口ぶりになるのが、アシュラフには少しおかしかった。ザナはそれだけハキールに心を許しているのだろう。


 ザナとハキールは深い友情でしっかり結ばれているようにアシュラフには見受けられた。


 アシュラフはザナの後ろからハキールに声をかけた。


「ハキール、お差し支えなかったら、今度あなたに乗せてもらえませんか?〈モーターバイク〉なる機械を本で知って以来、僕はずっと、どんな乗り物だろう、一度でいいから乗ってみたいと思ってきたんです」


「ああ、いいとも。ザナが運転する後ろにつかまって乗るといい。俺の操縦にはコツがあって、初めての人間にはちと難しいからな」


「近くの村とかに何か用事があったら、いつでも連れて行ってやるよ。普段は只じゃないんだが、家に泊めてもらっている恩があるから、特別にあんただけは無料にしてやる」


 ザナは振り返って逞しく笑った。どうやら彼女は、お金に関してはなかなかしっかりした性格のようだった。

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