蹉跌
深夜ひまりは理一郎から、
「これからバイクで行くから、一時間ぐらいしたら着く」
というメッセージをもらうと、ベッドの中で様々な妄想をしながら、せめて可愛らしい姿で逢いたかったのか、例の髪留めを取り出した。
そうこうするうちに一時間過ぎたのか、
「着いたよ」
メッセージが来た。
廊下の窓を開けると、隣接する水族館の閉め切られた門の前に、見慣れた赤いドラッグスターがいる。
物音を立てないように抜け出した。
水族館の前まで来ると、
「…逢いたかったんだからね」
ひまりは睨むような目つきから理一郎にしがみつくと、もう離さないと言わんばかりの力の強さで抱きついた。
「…ワガママ言って、ごめんなさい」
「いいんだよ」
グローブを外して、ひまりの頭を撫でた。
見ると、例の髪留めがある。
「やっぱり似合ってる」
ひまりは理一郎の唇に軽くキスをしてから、
「ありがと」
少し話そう、というとひまりは死角になりそうな、近くの磯浜にあった番屋を目指した。
このあと明け方近くまで、ひまりは理一郎とのしばらくぶりの逢瀬をし、
「これで合宿終わるまで大丈夫ってぐらいデートしたから、もうワガママは言わない」
笑顔でひまりは部屋へ戻った。
髪留めを外してポーチにしまい、誰にも見られないよう警戒しながら朝を迎えると、何食わぬ顔で日常を過ごした。
ひまりも、人目を気にしながらも上手く振る舞ったと思っていた合宿の最終日、
「ひまり、男と会ってた?」
後ろ袈裟に斬るように背後から声をかけたのは英美里であった。
「急にどうしたの?」
ひまりは身構えた。
「…夜中に抜け出して、赤いバイクの人と抱き合ってたよね?」
たまたま英美里はのどが渇いたので、起きて自販機で麦茶を買って、戻ろうとしたときに見たらしい。
ひまりは、顔色が変わった。
「仮に彼氏なら、退部なんだけど…」
それでも英美里は、ひまりを信じたかったらしい。
見つかった、と分かった途端のひまりは、このときある程度のシミュレーションをしていたのか、すでに肚が据わっていたものか、
「…彼氏じゃないよ」
「よかった」
英美里は安堵した顔をした。
「彼氏なんかじゃない、あれは私のフィアンセ」
ひまりの一言に、英美里は脳天から岩でも投げつけられたような衝撃をおぼえた。
大問題ではないか。
「…ふ、ふぃ、フィアンセ?!」
英美里は腰から力が抜けた。
「英美里、私アイドル部辞める。隠したのも悪いし、抜け出して逢ったのも私のワガママだし、何より恋愛厳禁のルール破ったんだし。謝って済む問題じゃないし、きっとみんなから非難されるのも分かってた」
ひまりは、このときが来たと見切ったのか、悟り切った物言いをした。
「だから私は辞める。歌もダンスもすべて辞める」
ひまりは決然と言った。
ひまりはもう心を確固と決めてあったらしく、
「…今まで、ありがとうございました」
深々と英美里に頭を下げた。
背を向けた。
「…待って」
英美里は呼び止めた。
「…そこまで覚悟していたなら、何で黙ってたの?」
「逆に訊くけど、裏切り者の言葉を英美里は信じられる?」
英美里の目から、涙がハラハラとこぼれてゆく。
「私は裏切り者の言葉は信じない。私が今の英美里の立場なら、何を言っても言い訳だって聞く耳を持たないと思う」
自身が仲間を裏切ってしまったことを、ひまりは痛ましいばかりに気づいている。
「…英美里、短い間だったけどありがとう」
ひまりは再び背を向けると、今度は振り向くことなく離れた。
このときのひまりの凄みは、そのまま部屋へ戻るなり相部屋の菜穂子に、
「ちょっと身内の件で急用できたから、先に私帰るけど、心配しないで大丈夫だから」
とだけ言い残し、すでにまとめてあった荷物を手に、みずからタクシーを呼んで学校へ行き、その日のうちに通信制への転籍届を出してしまったところであった。
あざやかというより他ない。
「…ひまり、そこまで悩んでたんだ」
るなはひまりをどうしても責められなかった。
全体に知れ渡る頃にはひまりの姿はなく、いちばん最後に報告を聞いた清正も、
「ワイがもう少し早く気づいてたら、何とかなったんかなぁ」
としか言いようがなかった。
数日も過ぎると、
「ライラック女学院アイドル部の現役メンバー突然の脱退」
というニュースとして、ひまりの脱退は新聞やテレビで流れた。
教育実習が終わったあとも時たま来ていた澪は、
「うちの部ってさ、なぜか夏場になると何か起きるよね」
美波や翠の件もあって、澪は「今度厄祓いしなきゃね」と笑える話にしようとしたのだが、
「笑える訳ないでしょ」
美波に叱られた。
今回は現役メンバーの問題なだけに清正も責任は感じていたらしく、
「今年度限りを以て顧問を辞任」
という進退伺を出した。
他方でメンバーたちの中には、
「勝手に辞めて、何イキっとんねん」
と翔子のように腹を立てていた者もあった。
単にリードボーカルが一人抜けただけではない。
ダンスのフォーメーションも大幅に変わる。
「まぁうちら残りモンで、何とか気張るより他はないけぇ、新しくするしかない思う」
優子は前を向いていたが、英美里は責任を感じていたらしく、
「私にも責任はあるような気がする」
と言い、
「部長辞めようと思う」
だりあにだけ、もらしたことがあった。
「ダメだよ、辞めたら負けになるから」
何の負けなのかは分からないが、だりあは強く慰留した。
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