西御門時雨の小話

西御門時雨の与太話

 物心ついた時にはもう、僕の目はその視界に奇妙なものたちを映し出していた。


 初めは、祖父の着物に憑いていた口の悪い少女の憑き物や、祖母の大切にしていた姿見に映り込む見知らぬ小姓の姿。不可思議な現象は、あまりにも身の回りに溢れていた。そのすべてが、僕にとってはありきたりな日常だった。


 だけど、僕はすぐに多くの人々にとって異形を目に映す力はないのだと知ることになる。

 どうやら祖父譲りのこの力。けれど、母も妹も同じ景色を共有することはなく。


 幼いころは、近所の子供たちから嘘つき呼ばわりをされたものだった。

 今となっては彼らの言い分も理解できるとはいえ、当時はなぜ嘘だと決めつけられるのかわからずに、毎日のように泣いて家に帰った。


 彼らは知らないのだ。あやかしと呼ばれるものは、存外どこにでも溢れているものだと。彼らの多くは生涯気づかないのだろう。それらが『見える』ということは、ただそれだけで日常生活を困難にするということを。


 たとえば授業中、教室のなかで化け猫が猫じゃ猫じゃを踊り狂っていたり(容赦なく机の上に飛び乗ってくるので、気が散る)、たとえば旅行中、宿の部屋の隅に髪の長い女が陣取っていたり(当然、間借りするだけで宿代は折半してくれない)。


 突然、目の前に現れることもあるので、その度に驚かされては周囲を訝しませるばかり。


 なぜまわりの人々にはこれらが見えないのかは、わからない。


 ただ誤魔化し、気づかれないよう、気遣われないよう、いつしか取り繕う術ばかりがうまくなった。いつしか、気を張り詰め続けるのにも疲れて嫌味で武装して人を遠ざけた。


 好き好んで見ているわけではない。捨てられるのなら、喜んで捨てよう。——けれど、僕はその術を知らなかった。


 そんな僕に今は亡き祖父は、悉皆屋の跡を継ぐことを勧めた。

 当時、悉皆屋の主人だった祖父もまた僕と同じ力を持っていた。彼はそうして、僕に如才なく世間を渡るための処世術を叩き込んだ。


「人にはそれぞれ役目がある。それを探しながら、まずはおまえにしかできないことを極めなさい。そうすれば、自然と居場所は出来上がっていくものだ」


 僕にとって、それが憑き物落としだった。


 着物に憑いた念を見出し、その根源を取り去ることであるべき場所に戻す。あるいは、焚き上げることで想いを空に返す。到底、天職とは思えないが、それでもひとりで働くのは気楽だった。


 僕の力は長く共にいると移ることもある。

 それなりに親しくなれる人がいても、たいていの場合は気味悪がられて立ち去られる。もういい加減、人づき合いには疲れていた。


 そして、ついに彼女がやってきた。


 近江寿葉さん。澄んだ瞳の美しい女性だ。


 しずくの友人たちのように快活に笑うこともなく、感情をあらわにして怒ることもせず、淡々と仕事をこなす。憑き物すらものともせず、ただの業務の一環と見做している節すらあるのだ。僕にとって、彼女は未知の人だった。なにしろ、底が見えない。


 あるいは――都会の女性というものは、誰もが彼女のようにすべてをビジネスとして割り切っているものなのだろうか。


 いつか、ぽつりと零してしまった彼女への印象を聞いた妹は、雑誌に向けていた顔を上げた。それから、チベットスナギツネのように目を細めて怪訝そうに僕を見る。


「いや、それはお兄ちゃんも一緒じゃない? 東京のサラリーマンみたいに、得意技は世間の荒波で鍛え上げた営業スマイルですって感じ」

「意味が分からないんですが」

「マックでスマイル頼まれたバイト的な? スマイルゼロ円プライスレスな代わりになに考えてるかわからないっていうか」


 辛辣な言葉は続く。


「接客見てるとさ、ぶっちゃけ胡散臭い時あるし。イケメンじゃなかったらただの怪しい男。お兄ちゃんは自分の顔にもっと感謝したほうがいいと思う。女性客はあたしの見立てじゃ百パー顔目当てだよ」

「そこはせめて九割九分九厘でしょう」

「たいして変わらないじゃん。四捨五入したら一緒。だからさあ、寿葉さんもたしかにクールだけど、お兄ちゃんにはビジネスライクとか絶対言われたくないと思うんだよね」


 以上。いつの間にか、彼女にすっかり懐いていた妹の弁である。


「お兄ちゃんさあ、せっかくきれいな顔をしてるんだから、もったいないよ。寿葉さんだって、意外と幸村さんみたいに底抜けに明るいだけのナンパ男のほうが好きかもしれないし」

「待ちなさい。どうしてそこで幸村が出てくるんですか?」

「取られかねないってこと! つまり、ちょっとは笑ってうちの家の居心地のよさを演出したらって言いたいの」

「僕は自然に笑ってます。ほら、ね?」

「笑ってないから。それ、ジャパニーズスマイルだから。営業スマイルだから。笑顔、下手すぎだから」


 容赦のない攻撃を休まず、しずくは女性向けのファッション雑誌を押しつけてきた。

 ちょうど開かれていたページには、変顔をしている女性の顔が並んでいる。


「それ、小顔体操。顔の筋肉に聞くから、これから毎晩お風呂でやりなよ」

「風呂じゃなければ駄目なんですか」

「だめ。今ここでやられたらあたし絶対爆笑するし、お兄ちゃんの変な顔とか見たくないし」


 あっけらかんと言い切って、しずくは寿葉さんが作ってくれたフィナンシェをぽいっと口に放り込んだ。皿の上に積まれていたフィナンシェは、いつの間にか半分以上妹の腹に収まっている。幸せそうな顔でむぐむぐと咀嚼し、それから足を組みなおした。


「でも珍しいね。お兄ちゃんがそんなによその人に興味持つのって」

「おまえもずいぶん彼女に懐いているでしょう」

「話逸らさないで」

「仕事に戻ります」

「逃げないで」

「逃げてません。来客予定なので、準備が必要なだけです」


 逃げるようにリビングを後にして、作業場に入ってしばらく。庭で洗濯物を取り込んでいた寿葉さんが顔を出した。


「時雨さん、お客様いらっしゃいましたよ」

「ああ、わかりました。おとおししてください」


 頷いて部屋を後にした彼女を見送って、先ほどのしずくの言葉を思い返す。


(珍しい、か)


 興味も持ちたくなるというものだ。彼女は謎めいている。憑き物に同情し、寄り添い、恐れない。すべてがまったく理解不能で、だからこそ目が離せない。


 彼女はこの家に来て早々に憑き物を目にしてしまった。


 一度だけでない。その後も、見続けている。これまでかかわってきた人々なら、とうにここを立ち去っている程度には。


 それでも、彼女はここにいる。


 初めは、なにかこの家に残るに足る理由があるのだと思った。一番に思い浮かんだのは母がしずくに言ったという嫁入り談義だ。だが、彼女には僕の嫁になるつもりは一切ないらしい。


(では、なぜ?)


 いつの間にか、僕はあの女性のことばかりを考えていた。


「こちらへどうぞ」


 作業場で考え込んでいると、寿葉さんの案内でひとりの老人がやってきた。祖父の友人だった戸張さんだ。同じく小町通りで呉服屋をしている彼は、しわだらけの顔をくしゃりとさせて笑う。


「時雨の坊ちゃん、忙しいところ悪いね。またいくつか着物を仕入れたんだが、こいつは『ろまん亭』さん向けだと思って持ってきたんだ」

「戸張さん、『ろまんてぃゐく』です」

「だって言いにくいんだもの」


 戸張さんはぺろっと舌を出した。老人なりにかわいく誤魔化して、いそいそと着物を風呂敷から取り出す。


「……うち向けということは、憑き物ですか?」

「うんにゃ。でもちょっと面白いから、しーちゃんの勉強にゃあよさそうだぞ」


 目の前に広げられた着物は袷。瑠璃色の生地に散る初夏の花々、そしてその合間を飛び交うのは小鳥の群れ。小鳥の名はメボソムシクイ。風に薫る夏の葉を感じるいい品だ。


 一見したところ、おかしなところはなにもない。


「これがなにか?」

「実はこいつは大正のアンティークものなんだが、質にとられた品だって話でね。それも、金のない女がわざわざこの着物を仕立てて、取り立てに来た高利貸しに渡したそうな」

「……ああ、質草ですか。それは洒落がきいていますね」


 女が隠した意図を読み取って頷けば、戸張さんは退屈そうに胡坐をかいた。


「なんだつまらんなあ。もうわかっちゃったのかい。ここでわからん顔でも見せりゃあ、わしが教えてやろうと息巻いてきたってのに」

「はは、なにをおっしゃる。僕などまだまだ浅学菲才の身ですから、今後ともご指導ご鞭撻を賜りますようお願い申し上げます」

「やめろやめろっ、おまえさんが言うとかえって嫌味だぁ」


 ……と、言いつつ嬉しそうだ。昨今では着物の話をできる人間も減ったので、彼としてはさみしいことも多いのかもしれない。


「で、金額なんだけど三万八千円でどうだろ。シミもないし、良品だ。いんたーねっと通販ってやつで頼むよ。売れたら仲介料で一割。どう?」

「わかりました。では、お預かりします」


 交渉が成立して、着物を預かったところで寿葉さんが戻ってきた。


「失礼します、お茶をお持ちしました」


 広がる着物を見て、後のほうがいいかしらと目で尋ねられる。僕は着物をひとまず片付けて、彼女を促した。


「ありがとうございます」


 意図を汲んで入室した彼女に、戸張さんが真顔で首を傾げた。彼がすっとぼける時の癖だ。


「ああ、そうだ。気になってたんだ。時雨の坊ちゃん、いつ結婚したの。ご祝儀忘れちゃったよ。こーんな器量よし捕まえちゃって、うらやましいなあ」

「迎えていません」


 先日、彼女が結婚だなんだと言われるのを嫌がっていたのを思い出して、僕はすぐさま否定した。


 寿葉さんも続けて頭を下げた。


「はじめまして、家政婦の近江です」

「彼女が家事を全部してくれているんです。寿葉さんがいないと、うちは今頃ごみ屋敷ですよ」

「ははは、そりゃあ大事にせんといかんなあ」


 上機嫌に笑う好々爺が茶飲み話をして、帰路に就いた後。


 僕は改めて着物を作業場に広げた。しずくの勉強にと言ったものの、妹はすでに悉皆屋以外の道を探し始めている。


 とはいえ、知識はあって損のないものだ。後々、時間を見つけて教えてやろうと思っていると、寿葉さんがやってきた。


「空いた湯呑、片付けますね」

「ありがとうございます」

「……あの。それ……、かわいい小鳥ですね」


 着物に気づいた寿葉さんが呟いた。


 どこか申し訳なさそうな顔をしているのは、先日逃げ出したカワセミを思い出しているからかもしれない。あの日、彼女が扉を開けた時、すでに憑き物は着物から抜け出していた。ようするに、あれがこの家から逃げ出すのは時間の問題だったのだ。だからこそ、何度気にしなくていいと言っても、彼女は未だにカワセミを探しているらしい。ずいぶんと義理堅いことだと思う。


 その横顔が陰るのを見て、僕は肩を竦めた。


「ただの小鳥じゃありませんよ。あるメッセージが隠されているんです。これは、借金取りに、とある女性が質草に渡したものなんですが……」

「掛詞ですか?」

「いいえ、これは『聞きまし』です」


 答えの糸口を告げると、寿葉さんは腕を組んで着物をじっと睨み始めた。それから、はたと当惑したように首を傾げて僕を見る。


「……聞きまし?」

「動物の鳴き声を日本語に置き換えることをそう言うんです。うぐいすなら、『法花経』。逆に、ツクツクボウシは鳴き声が名前になったパターンですね」

「……この鳥は、メジロですか?」

「メボソムシクイです」

「名前すら初めて知ったんですけど……。絶対に鳴き声すら私は聞いたことないやつですよね?」

「……そうかもしれませんね」


 たしかに、この辺りで聞くことはめったにない。僕とて知識として持っているだけで、野鳥の声を聞いた覚えはここのところしばらくない。


 彼女の疑問に頷くと、寿葉さんは音楽再生アプリを開いて『メボソムシクイ』と検索をかけた。そして、白梅の花弁のような瞼を閉じて、流れ出るさえずりに耳を澄ます。


「……すみません、さっぱりわかりません」


 たしかに、彼女の言うとおり直感できる人は少ないだろう。


「メボソムシクイのさえずりは、『銭取り、銭取り』と聞くんです」

「……つまり……」


 つまり、元の持ち主はわざわざこの着物を選んで借金取りに嫌味を伝えたのだ。


 直接伝えるのは憚られたのか、それでも腹の虫がおさまらなかったのか。なんであれ、勝気なところが悪くない。


「……ふふっ、なんですか、それ。すっごく嫌味じゃないですか」


 その時、つぼみが開くようにほころんだ彼女の微笑から僕は目が逸らせなくなる。

 初めて見た彼女の笑顔には、言葉すら続かなかった。


(……綺麗だ)


 窓から差し込む春先の朗らかな木漏れ日が、彼女の肩のあたりで陽炎のようにゆらゆらと揺れていた。


 そして、白昼夢のように――陽炎のように微笑は消える。

 だけど、彼女がもとの静謐な横顔を取り戻してからも僕はまだ、目を逸らせずにいた。あの優しく柔らかな微笑みを、もっと見ていたかった。彼女のことをもっと知りたいとすら思った。


「時雨さん?」

「……いえ、なんでもありません」


 どれだけそうしていたのだろう。見惚れていたことに気づいて、僕はようやく顔をそむけることに成功した。

 寿葉さんは不思議そうに僕を見つめ続けていた。その視線を頬に感じながら、妙な居心地の悪さを覚える。


(……なぜ、僕がこんな想いを?)


 近ごろ、僕はおかしい。彼女のことばかり考えている。それはきっと、先日聞いた彼女の言葉が胸に巣食っているからだ。


「お茶って若い芽を摘むの、知ってるかな。一芯二葉っていってね、まだ開いていない新芽とその下の二枚を摘むの。それが職人さんの手を通じておいしいお茶になるんだよ」


 それは、妹に向けられた言葉だった。それでも、僕の胸を打つのに十二分な価値を秘めていた。


 僕は、普通の人のようには生きられなかった。祖父の導きで今の仕事に就いた。いつも人に流され、無駄な足掻きを繰り返し、人の目に怯えて生きてきた。そんなみじめな半生すら、肯定されたような気がしたのだ。


 だが、彼女は仕事のためにここにいる。ならば、僕もそう接するべきだ。態度も、言葉も、――寿葉さんに捧げる想いすらも、職場の人間らしくいなければならない。勝手に救われた気になって、親近感を抱いたところで迷惑だろうから。


 そう線引きをして、逃げているのだ。彼女が離れていくのが恐ろしくて、尻込みをして、近づけずにいるだけなのだ。気づきながらも、僕は目を逸らし続けている。いつまでも、こうしてはいられないと知っているのに。


「……時雨さん?」

「いいえ、なんでもありません」


 黙り込んだ僕を、彼女が不思議そうに見上げた。それに笑みを返し、着物を畳もうと手を伸ばした時だ。廊下からしずくの声が響いてきたのは。


「お兄ちゃん、電話電話ー!」


 そして、再び時が動き出す。

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