若い芽を摘むということ

「本当にしつけがなっていなくて、貴女には申し訳ないとは思っていますが」


 時雨さんはため息とともに吐き出すように言った。


「……言い訳になりますが、うちはこのとおり、母は留守がち、父も早くに亡くなって不在だったので。僕の教育が悪かったんでしょう。あんな我儘娘に育ってしまいましたが……。いい機会です。少し、自分で考えさせます。このままでは、妹の将来にかかわりますから」

「そう、ですか……」


 兄であるこの人がそう言っているのに、私がしずくちゃんを追いかけるわけにもいかない。


 私はひとまず、席に着きなおした。


「しずくちゃん、悉皆屋になりたいって言っていましたよ。夢を応援してあげないんですか?」

「夢なんてものじゃありません。あれは独り立ちするのを怖がっているだけですよ。本人はこれまで面倒を見てきた僕への恩返しのつもりなんでしょうがね」


 それはあるような気がする。あの子がとても兄想いだというのは、ここで過ごした少しの時間でもわかっていたから。


「ですが、ずっと家族といられるわけでもないんです。いつかは離れなければならないのを、しずくは認めなければいけません。その上で、独り立ちする覚悟を決めて悉皆屋になるというのなら、若い芽を摘むつもりはありませんよ」

「……そう、ですね。すみません、差し出がましかったです」

「いいえ。それよりも食事を続けてください。せっかくの料理が冷めてしまいます」


 彼ら兄妹のことは、彼ら自身が解決すべきだ。


 ……そう思っていたのだけれども。やはり、放っておくこともできなかったのは、しずくちゃんが夕飯をほとんど食べていなかったからだ。


 つらい時にお腹が空いていると、どんどんと嫌な方向に物事を考えてしまう。ひとまずおいしいものさえ食べられたら、ほんの少しでも心痛は軽くなる。


 それを実体験として知っていたので、私は食後、冷凍ホットビスケットを温めて、アイスクリームといちごジャムをたっぷりと挟んだデザートを作り上げた。


 かなり甘いので、飲み物はローズヒップティーを選ぶ。酸味と彩りを加えたセットはアフタヌーンティーにもおすすめだ。


 お盆に乗せたホットビスケットを運んだ彼女の部屋は、しんと静まり返っている。

 私は拒絶されるのを承知の上で、扉越しに声をかけた。


「ねえ、しずくちゃん。甘いもの食べない?」

「食べない!」


 即答と同時に、ぐうぅと大きくお腹が鳴った音が外まで聞こえてきた。


「なに笑ってるのよ!」

「笑ってないよ。夕飯、食べかけだったもの。お腹空いちゃったんでしょう? これ、ここに置いておくから気が向いたら食べて。アイスだから、早めのほうがいいとは思うけど」


 私は声をかけてから、扉の前にお盆を置いた。


 直後、開いた扉から伸びてきた白い手がお盆を攫う。流れるように閉まった扉。あまりの早業にぽかんとして、それから今度こそ本当に笑ってしまった。


「食べたらお皿を廊下に置いておいてね」


 そうして、階下に戻ろうとした私の背中にしずくちゃんの声が届く。


「あたし、これ知ってる。コンビニのお菓子でしょ」

「うん。でも、アレンジをひと手間加えたからもっとおいしいよ」

「アレンジとかそんなこと言って、あなた、いっつも時短料理ばっかり」

「ごめんね」


 それは本当に申し訳なく思っていることだった。


 手間をかけた料理を作ることができない。それは私の問題だ。料亭にいる時を思い出しそうで怖いという、自分勝手な理由に時雨さんとしずくちゃんをつき合わせているのはわかっている。


 その結果を手抜きだと謗られるとしても、私は甘んじて受け入れるしかない。

だから、謝ったのだ。


 けれども、しずくちゃんは謝罪されるとは思っていなかったらしい。はっと息を飲み込んだ気配があった。


「ごめんね、しずくちゃん。おせっかいなのも、迷惑なのもわかってるの。急に知らない人と一緒に住むのが嫌だっていうのも、わかってる」


 やはり、潮時なのかもしれない。


 そう感じたところで、しずくちゃんが扉から顔だけのぞかせた。


「……なんであなたが謝るの」

「……ごめんね」


 そうとしか言えないのが歯がゆい。


「ねえ、あなた料理人だったんでしょ。お母さんがそう言ってたけど」

「うん、前は料亭にいたから」

「ふうん。まあ、料理は悪くないんじゃないの。時短のばっかりだけど。なんで家政婦なんてしてるの? どっかの厨房で働けばいいのに」


 珍しくしずくちゃんから尋ねられたのに、私は答えるべき言葉がすぐに見つけることができなかった。


 正直に答えるべきだと思う反面、まだ高校生の女の子に話すような理由ではないのが悩ましい。


「いろいろあったんだよ」

「じゃあ、どうして料理人になったの?」

「それは、…………料理が好きだったから」

「どうして過去形なの」


 わからない。自分のことなのになにもわからなかった。だから、こんなにも苦しくなるのだろう。


 ずるいと知りながら黙っていると、しずくちゃんは顔をくしゃりとゆがめた。


「……あたし、着物は好き。かわいいから。お兄ちゃんが、大事にしているものだから。でも、それだけ。それじゃだめなの? 誰かのために働きたいって思うのはだめ? 力になりたいって思うのは間違ってたの? 好きなだけじゃ、足りなくなるの?」

「それはわからないよ。私には答えられない」


 廊下の窓から、床の木目に月あかりが零れ落ちた。風が吹くたび、雲間に揺れる月光が霞む。なにかを切々と訴えかけるように。

 迫りくる夏の気配が、夜の空気に満ちていた。


「でも、少なくとも自分で決めないと。自分が誰かのためにしたいって決めたことなら、私はいいと思う。誰かに言われたからってだけで決めてしまったら、きっと後悔するから……。でも、どんなことにも正解はないんだよ。だから、しずくちゃんが悩んで、自分の頭で考えて決めて、後悔しないって思える道を選ばないと」


 しずくちゃんは眉根を寄せて黙り込んでいる。伏し目がちになって、視線を床に落として。彼女は今にも泣きだしそうに見えた。


「時雨さん、若い芽を摘みたくはないって言っていたよ。しずくちゃんが本気なら、ちゃんと話せばきっとわかってくれるんじゃないかな」

「そんなのわからないじゃない。摘みたくないけど、容赦なく摘んでくるかも。お兄ちゃん、頑固だし、意地悪だし、しかも意固地だし」

「……でも、それもきっとしずくちゃんが大事だからなんだよ」


 私は言葉を選びながら、しずくちゃんの瞳を見つめた。


「お茶って若い芽を摘むの、知ってるかな。一芯二葉っていってね、まだ開いていない新芽とその下の二枚を摘むの。それが職人さんの手を通じておいしいお茶になるんだよ。だから、うまく言えないけど……人に委ねるのが間違いとは思わない。摘まれた先で鍛え上げてもらって、新しい自分になれるかもしれないから。だけど、人間は葉っぱではないでしょう? 感情があるから、自分で決めたことじゃないと、後悔するかもしれない。感情の行き場をうまく見つけられないかもしれない。その時に誰かのせいにして逃げたくないなら、自分の頭で考えないとだめなんだよ」


 しずくちゃんは答えなかった。いつになく弱気な瞳で小さな体をさらに小さくしている。


「……お皿、後で廊下に戻しておいてね。取りに来るから」


 ぱたんと静かにしまった扉に背を向けて、私は階段を降りようとした。そして、階下から二階にかけての踊り場に立っていた時雨さんにびくっとする。


「……もしかして、聞いてました?」

「……すみません、出るに出られず立ち聞きなんてぶしつけな真似を」

「いえ、私こそ勝手な真似をして……」


 時雨さんは放任主義だったけれども、放っておけなかったのは私だ。


 他人様の家庭の事情に首を突っ込んでしまったのは、やっぱり気まずい。偉そうなことを言ってしまったからなおさらだ。


「いいえ。……ありがとうございます。……しずくも、救われたと思います」


 だけど、時雨さんは薄い唇に微笑を乗せる。珍しく思い出し笑いのようなものを顔の上に漂わせ――、そして私の隣を通り過ぎて三階へと上がっていってしまった。

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