十八、少女メナシェのたそがれ

 雨が降った。

 

 あたしは阿呆のようにアムカマンダラの雲を見上げるばかりで、せっかくの機会に傘を差すってことに頭が回らなかった。

 

 祭りの御輿行列がアムカマンダラの雲を大きく散らしたおかげで、灯台から遠く離れたあたしたちの家の近くまで、その靄はひしゃげた虹色をばら蒔いていた。

 いつも不吉な相に映っていたアムカマンダラの雲は、今はなんだかとても美しかった。

 

 雲の隙間からは星空が見えていた。

 天体苔だ。

 地底の深淵をおぼろげに浮かび上がらせる天体苔の光が、静かにアムカマンダラの雲を光らせていた。

 

 どこかで魔女が、あらんかぎりの色の花を集めて煮込んだ釜から、耀く煙を立ち上らせているのかもしれない。

 その眺めには、確かに魔力みたいなものがあった。

 冥府とか、神様の国は、きっとこんな眺めに溢れてるんだろう。

 その切れっぱしがなぜだか地上に落っこちて、ひょんなことに地底の片隅にその顔を覗かせたのだ。

 

 そう思った。

 

 幽精ジンは、半刻待つといった。

 もうそろそろ時間だった。

 だけれど、イサイが現れる気配は一向になかった。

 

 それでももう少しこうしていたい、と思ったとき、ふと手に持った傘の存在を思い出した。

 そんな風にして、あたしはようやく傘を差した。

 地底で出番を待ち続けたこの竹細工の、晴れ舞台だ。

 

 雨なのに晴れ舞台ってのは、ちょっと変だ。

 そもそも晴れってものをあたしは知らない。

 それは地上にあるものらしいのだけど、是非とも一度は見てみたいとあたしは思っている。

 

 そういう何気ない話を、イサイにしたいと思った。

 でも、イサイはいない。

 

 美しい眺めのことも、ようやく日の目を見た傘のことも、じりじりとあたしの中で熱くなっていたけれど、やがて少しずつ冷えていくような感覚に変わっていった。

 

 遠くに離れて腕を組んでいた幽精ジンが、腕を解いたのが目の端が捉えた。

 幽精ジンはきっと、舟に乗れ、というだろう。

 地上に連れていってくれるのだといっていたものだから、そうに違いない。

 

 こんなことってあるんだろうか。

 

 空飛ぶ舟に乗って、あたしは本物の太陽と本物の空の下へ行くのだ。

 薄暗い地底から抜け出して、誰もが羨む地表の街へ。

 

 

「嫌だ」

 

 

 声が、転がりでた。

 この泥穴のしがらみを断ち切れるっていうのに、なにが嫌だっていうんだろう。

 自分の声に驚いて少し慌てたけれど、不思議ではなかった。

 

 あたしが嫌なのは、結局、イサイが側にいないことが、なのだ。

 

 そんな風に思ったときだった。

 足音が聞こえてきた。

 幽精ジンには足がない。

 だから、違う誰かだ。

 そもそも、足音は幽精ジンのいる方向とは逆方向から聞こえてきた。

 

 廃墟となった街の住居棟インスラ群の奥では、姿はなかなか見えなかった。

 闇間からその人物が現れるのを、あたしは瞬きもせずに見守った。

 幽精ジンが身を固くしているのが分かった。

 あたしの家を知っている者は、そう多くないからだ。

 

 天体苔の淡い光の下に、最初に小さな影が躍り出た。

 黒猫だった。

 

 分かっていた。

 

 イサイは、そんな奇妙な音を立てる履き物なんか突っ掛けちゃいないから。

 足音の正体は、灰色の瞳の歌舞伎者ダリルだ。

 

 容易に想像がつくことだった。

 それなのに、あたしは期待することを止められなかったのだ。

 

 

「そんな顔するこたぁ、ないだろうが」

 

 

 ディディは姿を現すと、くたびれたように笑った。

 珍しく羽織にきちんと腕を通していると思えば、その懐にはきつく巻いたさらしが覗いていた。

 頭には不格好に木綿布をまきつけており、血らしき黒ずみに汚れた布の間からは、黒髪が飛び出ていた。

 腰布はずたずたに引き裂けていて、血痕が至る所に見受けられた。

 どうすればそんなにぼろぼろになれるのかというくらい、ディディは酷い姿をしていた。

 

 

「また、手当てしてくれるか?」

 

「……あたしは医者じゃない」

 

 

 捻りのないことをいったな、と思った。

 

 だから、アニタみたいにしてみたらどうかと思って、つんと横を向いてやった。

 そうしてから、しまったと思った。

 ディディはアニタを失ったのだ。

 嫌な思いをしたかな。

 あたしはちらと傘の縁を持ち上げて、ディディを見上げた。

 

 ディディは頬に長い溝みたいな皺を吊らせて笑っていた。

 人を小馬鹿にするようないつもの笑みではなくて、自嘲するような悲しさもなくて、どんな色にも染まってない笑みだった。

 

 はじめて見るディディの顔だった。

 

 痛々しいくらい、ディディという男の素顔を晒していた。

 ディディはいつも、アニタにこんな顔で笑っていたのかな。

 そう思ったとき、あたしはずいぶん長いことディディを見つめているのに気づいた。

 

 ディディの平手が傘の下に伸びてきてずしっと頭に乗せられた。

 あたしはなんだか熱くなって、俯いてしまった。

 

 幽精ジンが身じろぎをして、口を挟もうとしたのが分かった。

 でも、結局いつものどら猫の唸り声みたいな声は飛んでこなかった。

 ディディがなにかを取り出したからだった。

 それを見て、言葉を飲み込んだのだ。

 

 目の前に差し出されて、あたしは使い古されたリュートを見つめた。

 

 

「メナシェ」

 

 

 ディディの声が掠れた。

 

 そのリュートをみていると、イサイの汗くさい匂いが香ってくるような気がしていた。

 リュートの首には小さくヒビが入っていた。

 黒いみみず腫れをしばらく眺めて、それからリュートを受け取った。

 木の冷たい感触と、それに少しべたべたとする感じがあった。

 イサイのリュートを触ったのは何度目かのことだ。

 リュートを見下ろして、どうしてディディがこのリュートだけを持って現れたのかを考えた。

 

 

「イサイはな」

 

 

 もう一度見上げたディディは、もう笑ってなかった。

 でも、何色でもない顔のままだ。

 

 あたしはその顔を黙って見返した。

 

 お腹の底に厚い鉄板が入ってるみたいに、ぎゅうっと重くなった。

 傘に弾かれる雨音が、不快に感じられた。

 ディディの顔の後ろには光るアムカマンダラの雲が波打っていて、あたしの頭のなかはぼんやりとしてしまっていた。

 

 それなのに、ひとつはっきりとしていることもあった。

 いつか誰かが、戸口に立ってあたしに告げると思っていた。

 それが騎士カルキなのか、ソソの子分なのか、幽精ジンなのか、考えたりしたものだ。

 

 けれど現実は、歌舞伎者ダリルの英雄ディディだった。

 ディディの口から語られることは、嘘偽りない本当なのだという感じがした。

 

 嫌だ、ともう一度思った。

 

 

「イサイは……」

 

 

 熱い何かが、あたしの中で弾けた。

 あたしは強く目を瞑って、足を踏ん張った。

 

 そうして、ディディに向かって頭を突き出した。

 

 鈍い音がして、ディディの呻き声が聞こえた。

 ディディにいつだかものを投げつけられた時みたく、脳天がじんと痺れた。

 

 鼻の奥がつんとした。

 耳が燃えるように熱かった。

 何が何だか分からなくなってしまって、あたしは駆け出した。

 

 イサイは帰ってこないよ。

 

 誰かがそう告げに来る日がいつか来るんだと、なぜだかあたしは思っていた。

 本当のことになったのだ。

 それだけだった。

 

 でも、胸のうちに尖ったものがあって、そこがじくじくと鼓動を打っているようだった。

 

 偽物だって良かった。

 星空も、偽物だってこんなに綺麗なのだ。

 太陽が偽物だって構わない。

 

 だから、許して欲しかった。

 

 偽物だって、イサイと一緒にいさせて欲しかった。

 イサイはそれじゃあ、駄目だったんだろう。

 イサイはいつだって、本物になりたがっていた。

 大空洞の天井を見上げるその目は、偽物の空も、隣にいるあたしも、結局見えてはいなかったのだ。

 地表の世界にあるような、本物を……ただひたに、道化イサイは求め続けていたのだ。

 けれどこの偽りの地底を抜け出したところで、そこに本当を語れる人間などどれだけいるだろう。

 イサイはただ漠然と、偽物の世界を憎んでいたんだ。

 けれどあたしは、偽物だって良かった。

 

 偽物だって良かったのだ。


 それから何があったのかは、あまり覚えていない。

 

 気づけば、あたしは幽精ジンの浮遊槽の中にいた。

 持っていたのは、傘とリュートだけだった。

 浮遊槽はやがて長い縦穴を抜けて地表へと抜けていき、地上であたしは新しい生活を始めることになった。

 

 傘を買ってくれたときのイサイを、時々思い出す。

 雑多に盗品を並べる、アムカマンダラのおんぼろ小屋の店。

 あたしが玩具にできるようなものを永遠探し歩いた末に、ようやく見つけたのが、あの傘だった。

 

 

「ほら、こうやって開けば、羽が広がるんだ。面白い仕掛けだろう。桃花の色だし、女の子らしくって、いいだろ。な? あ、だけど、開いたり閉じたり、あんまりやると壊れちまうからな。気を付けるんだぞ」

 

 

 父親らしいことを成し遂げたことを喜んでるみたいに、あたしはそっちのけでイサイはよくしゃべった。

 あたしはよく分からなかったけど、イサイが嬉しそうにしていたのでなんだか嬉しい気分になった。

 そうして、傘を壊さないように、それを開いたり閉じたりするのは、一日に一度だけと、決めていたのだった。

 

 地上の生活で雨がふるたびに使うようになると、傘はすぐに壊れてしまった。

 

 イサイは、「面白いこと」を誰よりも愛している人だった。

 

 それ故に、芸にのめり込んでその才能を開花させることができたのだ。

 ハヌディヤー通りでは道化イサイの最後の芸は語り草になっていて、ソソの目の光るアムカマンダラでさえ人々の口に戸は立てられなかったようである。

 あたしはその後、生涯にわたってイサイの芸ほど素晴らしいものを見ることはなかった。

 

 そしてそれからは一度たりとも、ディディに会うことはなかった。

 

 顔ぐらい見にきてくれればよかったのに、と思わないこともない。

 けれど時より現れる黒猫に、あたしはついつい独りごちる癖がついてしまって、その癖は年老いてからも抜けることはなかった。

 あのときと同じ黒猫かは分からない。

 けれどそのちょっと不吉な来訪者は、忘れた頃にあたしの元を訪れ、あの一握りの温度をあたしに与えてくれた。

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