十一、少女メナシェの顧み

 ざわざわと、水のうねる音が聞こえた。

 

 あたしとディディはパナジー河をアムカマンダラに入り込む手前でファリードを降りていた。

 通りを北側に抜けるてしまえば、歪なアムカマンダラの雲も薄くなり、やがてパンパワッド沼沿いに出た。

 

 ソソの灯台から少し離れると、もう辺りは深淵のような暗がりに落ち着いたが、それでも目が馴れれば次第に天体苔が小さく照らす廃墟の街並みが見えるようになった。

 

 古い石造りの街路を歩いていると、左手の波打ち際に幾つかの人影が見えた。

 

 炎を炊いている側には四、五人の団体がいる。

 死体を焼いているのだ。

 ウヴォにおける川の役目のひとつは、亡骸の灰を流してゆくことにある。

 

 少し離れた所にはまた同じような団体がいたが、彼らは火は炊かずにひざまづき、祈りを捧げていた。

 邪教徒だ。

 

 他には豚の死骸を沼に放り投げる男たち。

 男たちからそれほど離れていない場所で、子供が水に漬かって遊んでいた。

 

 人々が多いのは祭りが近いからだろうか。

 ぼんやりとそんなことを思った。

 

 古い街路は、水面すれすれを通って小さなトンネルに入った。

 トンネルを潜る間際、どろどろになった死体が沼から打ちあがっているのが見えた。

 

 あたしの足は、まだ震えていた。

 

 パンパワッド沼沿いの眺めは見慣れている。

 死に近しい沿岸は、生活の一部だからだ。

 足の震えは全く別のところからきている。

 

 ソソ。

 

 あの漆黒の諸目をもう何度も頭から掻き消そうとしているのに、うまくいかなかった。

 追い出そうとしても追い出そうとしても、あの目はいつまでもあたしの後ろで黒く光っていた。

 

 あたしはソソとの賭けに勝った。

 きっと運が良かったんだろう。

 ただ単にそれだけだ。

 それしかない。

 

 あたしは、ディディの見よう見まねで札をやりくりしただけに過ぎない。

 全て札に宿る運命の女神任せだったのだ。

 あたしの捲った数字はソソのそれよりも、ケアンのそれよりも、九に近かった。

 

 終わった瞬間ディディを振り向いたあたしは、やっぱり情けなくにやけ顔をしていたに違いない。

 それを見下ろすディディもまた、心底楽しそうに笑っていた。

 

 そんなあたしたちに、ソソがなにかをいった。

 それがなんだったのか、あたしは記憶にすらない。

 

 ただ、ソソの奈落の底のような深淵の瞳に、強く見つめられた。

 それだけで、今までの全てを後悔したくなった。

 今までの自分が選んできたこと、発した言葉、生きてきたこと自体さえも。

 

 

「もちっと、胸を張ったらどうだい」

 

 

 ディディは、こちらを振り向かずにいった。

 

 

 「あのソソを相手に、お前さんは切り抜けたんだ。運も実力の内だぜ」

 

 

 あの瞳に晒された今、そんな自信はこれっぽっちも沸いて来なかった。

 

 ソソは、約束通りあたしを見逃した。

 それが沢山の観衆を前にしていた為なのか、それとも他のなにか理由があったからなのか、あたしには分からない。

 とにかく、あたしは九死に一生を得たらしい。

 その実感は今もまだないけれど。

 

 あたしは俯いたまま、ディディの後ろを歩いた。

 ディディの足下にちらちら尻尾を揺らすにゃんこを追いかけるように歩く。

 

 と、ディディが突然、あたしの頭をくしゃくしゃと撫でくりまわした。

 あたしは、慌ててその大きな手をひっぺがした。

 

 

「なにすんの!」

 

 

 思いっきり睨み上げてやると、ディディは愉快そうに笑っていた。

 

 

「顔を上げろっていってんだよ」

 

 

 ディディはそういうと前を向いてしまって、そうしてから一言つけ加えた。

 

 

 「せっかくの大女優の顔が、勿体ねぇだろ?」

 

 

 あたしは暫し、呆然となってディディを見上げた。

 

 大女優?

 あたしが?

 

 

「ほんとうに?」

 

 

 足を止めてしまったあたしに構わず、ずんずん進むディディを、あたしは慌てて追いかけた。

 そうしてその袖を引っ張って、懸命に声を出した。

 

 

「ほんとうに? 大女優?」

 

 

 ディディはなんとなくくたびれた目であたしを見た。

 

 

「自分でわからねえか? あれだけの人間を、お前は虜にしたんだ」

 

 

 あたしは、こっちを振り返るディディの横顔をしばらく見つめた。

 

 丁度そこにだけアムカマンダラにあぐらをかく灯台から鶯谷うぐいす色の明かりが差し込んでいて、ディディのよく通った鼻筋を浮かび上がらせていた。

 その目は、なんだかやっぱり不健康に磨り減っているような感じだったけれど、真っ直ぐにあたしを見ていた。

 はったりをかます時の目をしていない。

 そんな気がした。

 

 あたしは胸の奥が熱くなるのを感じた。

 そのうちに顔も火照り出してくる。

 この男の前で簡単に笑うことなんてしないと、何度も心に決めたはずなのに、やっぱり口がにやけるのを止められなかった。

 

 それどころか、嬉しくってしょうがないあたしは、思わずその場で跳び跳ねる有り様だった。

 

 

「そっか、そっかぁ」

 

 

 あたしはディディを追い越してとんとんと靴を鳴らした。

 


「大女優かぁ」

 

「おい、あぶねぇぞ」

 

 

 先に入ってきた言葉があたしの頭を占めていて、ディディの制止はちっとも耳に入ってこなかった。

 

 大女優。

 あたしが、だ。

 

 親父の芸を見ながらいつもいつも夢に見ていた言葉。

 親父と二人で見た旅芸人の舞台で、羨望の眼差しを向けた幾人の女優たち。

 あたしは、今日でその仲間入りをしたのだ。

 

 浮かれきってたあたしは、真っ暗なトンネルの出口でいつもは用心して跨ぐ小さな側溝に向けて、思いきり足を踏み出した。

 ごつっと、その小さな窪みに爪先を打つようになったあたしは、バランスを崩してその場にひっくり返った。

 歓声は跳ね上がって悲鳴になり、気づけば仰向けに倒れ込んでいた。

 

 すっ転んだ驚きが、あたしにようやく一種の冷静さをもたらした。

 

 一緒に転げた傘は、どうやら無事だ。良かった。

 あたしは寝そべったまま傘を抱き寄せた。

 

 視界には、大魔人のような怪しい影となった建物と、その上にきらめく天体苔があった。

 

 人はこの苔の生い茂る天井を、偽りの夜空と呼ぶ。

 地表に出ればもっと美しい夜空があるのだろう。

 そしてなによりそれは本物だ。

 

 けれど、偽物だっていい。

 本物なんか見えなくっても、あたしはこれでいい。

 そう思った。

 

 ディディに大女優っていわれたこと、早く親父に話したかった。

 あのあんぽんたんがどんな顔で驚くのか、早く見てやりたいと思った。

 だから、早く会わなきゃいけない。

 親父、いつ帰ってくるだろう。

 親父、今どこでなにをしているのかな。

 

 そこまで考えたとき、急にあたしの頭の奥は静まった。

 

 ディディは、親父が騎士カルキから逃げ切ったんだといった。

 じゃあどうして姿を見せに現れないんだろう。

 帰ったら家で待っているだろうか。いや、きっとそうではない。

 

 親父は、ソソの大事な光るものに悪いことをした。

 

 あたしもディディも、もうそのことを知ってしまっている。

 最後に別れた時、親父は見たこともないような顔をしていた。

 茶色い目は、あの咄嗟の時間の中で今までにないくらいあたしを写し込んだ。

 まるで、その別れが意味あることかのように。

 

 

「おい、死んでねぇだろうな?」

 

 

 無遠慮な声が飛んでくる。

 あたしはディディをひと睨みしてやろうと体を起こす。

 気づけばディディはなだらかな坂を登りはじめていて、あきれた顔でこちらを見下ろしていた。

 黒いにゃんこだけがあたしの側に頭を屈めてくれていたが、毛繕いに忙しいらしくその顔はあさっての方を向いていた。

 

 あたしは仕方なしに起き上がろうとして、足に鈍い痛みを感じた。

 つい、しゃくりあげるような小さな悲鳴が口をついて出た。

 けれど頭の中は、慣れ親しんだその痛みに別段驚くことはなかった。

 

 まずい、立たなきゃ。

 そう思った。

 

 傘を支えに懸命に立ち上がろうとする。

 けれど痛みは、じくじくと足の筋肉を蝕んでいた。

 身体を捩って、なんとか前のめりになろうとする。

 と、骨の髄の辺りからぴりっと鈍痛がきて、上手く出来ない。

 とうとうあたしは傘を放り出して、四つん這いになった。

 右足を踏み出すと、脹ら脛の辺りが痙攣しているのが分かった。

 

 駄目だ、これじゃあ立てない。

 焦燥が胸を焦がす。

 あたしは一人でやらなきゃいけないのに。

 そう、さっきみたいに一人で。

 

 いつの間にか、左目からつっと冷たい筋が伝った。

 うつ伏せのあたしの鼻先にひとたび留まって、それは地面にぽたりと垂れた。

 にゃんこが、また遠慮がちによたよたと近づいてきた。

 

 あたしが不安の闇の虜になった時、いつもこの子は近寄ってくれる。

 まるで心があるような猫だ。

 

 

「おまえ、足萎えか」

 

 

 ディディの掠れた声が、頭のすぐ上で聞こえた。

 

 足萎え。

 

 人々の間でそう言われる人のことは知ってる。

 足が弱く、長く歩いたり、仕事に従事することが難しい人がそう呼ばれていて、あたしもそうだってこと。

 

 歩き過ぎた。

 大丈夫って思ったんだ。

 最近は歩けなくなることは、ほとんどなかった。

 でもそれは、ほとんどの移動を親父におぶさっていたからだ。

 

 親父の足は強い。

 騎士団から毎度逃げ仰せるくらいだ。

 並大抵じゃない。

 

 あたしが、本当に親父の娘に生まれていたら、そうしたら親父みたいな強い足になれたのかな。

 そんな事を思うと鼻の奥からじんわり熱くなって、ぽろぽろと止めどなく涙が溢れて落ちた。

 

 

「本当に、一人ぼっちになっちゃうかな」

 

 

 あたしはそんな酷い顔のままディディを見上げた。

 ディディはまた、あたしを真っ直ぐ見下ろしていた。

 

 

「あたしはイサイの娘じゃないって、いっちゃったから」

 

 

 本当の事をいってしまったから。

 だから親父はもう帰ってこないかもしれない。

 

 一人になる。

 一人は怖い。

 一人は残酷だ。

 誰にも、愛されていないんだって思い知る。

 それがどれだけ残酷な気持ちになるか、知っている人間がどれだけ居るだろう。


 そういう人間はアムカマンダラにこそ多いのかもしれない。

 ここは追放された人々の行き着くところだからだ。

 街から、血の繋がりから、共同体ジャーチから、排除された人々の街。

 

 あたしもそのうちの一人だ。

 

 どうして排除されることになったかは知らない。

 生みの親の顔すら、あたしは知りようもなかったのだから。

 

 

「ほら」

 

 

 がさがさした声が聞こえてきた。

 目を上げると、あの日の親父と似た背中があった。

 ディディがかがんで、こちらに背を向けて手を差しのべていた。

 

 

「早く、おぶされよ」

 

 

 その口調はひどくぶっきらぼうで、照れていたんだとしてもそんな脅すような口調でいうことはないんじゃないかと思った。

 けれどその手は確かに差しのべられていた。

 

 あたしは這い寄るようにその背中にすがりついた。

 涙はどうにも止まらなくなっていて、後から後から溢れ出てはディディの黒い羽織りに吸い込まれていった。

 

 あの日、アムカマンダラの片隅で、まだ親父ではない頃の道化イサイを、あたしは見ていた。

 

 僧正の葬儀がパナジー河であったときだ。

 大勢の人が河原へ押し寄せ、アムカマンダラの歌舞伎者ダリルは弔事に際した施しを求めて湯気と灰の立ち上る河原で芸に勤しんだ。

 その中にイサイはいて、あたしはそのときただの物乞いだった。

 

 人々は僧正の救いを願ってめいめいの乞食たちに布施を落とした。

 粗方の市民が去っていくと、歌舞伎者ダリルもとっとと川原を離れていった。

 イサイは一人残っていつまでも芸を続けていた。

 一人芝居と手品芸だ。

 葬儀の後片付けに繰り出された数名の坊主が、残ってその様を眺めたりしていた。

 

 問題は、惨めな道化を見て己の優越感を満たそうっていう連中はどこにでもいて、僧会の坊主だってそれは例外ではないってことだ。

 奴らは次第に、自分の鬱屈を晴らしてくれようと、道化に汚い野次を飛ばして物を投げつけたりした。

 

 

「道化は笑われてなんぼだろう。おれたちゃその手伝いをしてやってるのさ」

 

 

 ほんの僅かに残っていた見物人も奴らが暴れれば暴れるほど離れてゆき、後には道化と乱暴者の坊主だけが残された。

 それでも道化は芸を止めなかった。

 男たちの執拗な嫌がらせを受け流したり、時に真っ正面から相手をして、しぶとくそこで芸を続けた。

 おどけ、おちゃらけ、道化は連中が飽きるまでその相手をした。

 

 やがて他人を貶めるのにも飽きたのだろう、男たちはその場を去っていた。

 道化は一人になっても尚芸を続け、誰かが立ち止まるのを待った。

 けれど、遠巻きにパイプを吸いがてら眺める者や葬儀の火の番が胡散臭そうに見やるだけで、客と言えるような人々はその砂利の河原に一人もいなかった。

 

 あたしのそれは、興味本意だった。

 

 道化の正面に座ったらあの劇場を独り占めできるのかな、と思ったのだ。

 汚いボロを纏った物乞いの娘が一人、道化の前に進み出て座った。

 道化はそれを見てまた必死で芸を始めた。

 言葉をろくに知らない子供にも分かる、無言劇だった。

 大袈裟すぎるほどの身振りを交えながら、道化は芸を始めた。

 

 あたしにとって、それは見たこともないような娯楽だった。

 

 抗い難い魅力にあたしはけたけた笑い始めた。

 手を叩き、足をばたつかせて、あたしは笑い転げた。

 

 異様な光景だったと思う。

 アムカマンダラの片隅、死人の灰が舞い上がる川辺で、一人の痩せっぽちの娘と、そのために必死で芸をする道化。

 気味の悪い光景ですらあったかもしれない。

 

 あたしの熱烈な反響に、誰かが道化イサイの才能に気がつくかと思えば、そんなことはなかった。

 ちょうど間が悪くそこを通りかかった悪徳商売の連中が目をつけたのは、笑い転げるその小さな子供の方だった。

 

 大柄な男が二人、あたしの方へ歩いてきた。

 道化があっと声を上げた時には、娘は男らに連れ去られていた。

 変な菌に感染した馬鹿どもに、娘は必要とされるのだ。

 

 片方の男は鬼で、魔族アスラの中でもとりわけ腕の太いのが取り柄だった。

 現場を目撃した者達は、助けるどころか関わらないように努めた。

 それも当然のことかもしれない。

 

 なのに、隆々とした腕の持ち主に組み付いた奴が一人だけいた。

 道化だった。

 

 奴は魔族アスラの肩にかぶりついた。

 顔に滅茶苦茶な色の厚塗りをして、髪を振り乱した小柄な男が、目を向いて飛び掛かるのだ。

 暗闇の中ではどちらが魔族アスラか判別がつかなかったことだろう。

 そいつを振り払おうと男共がどれだけ工夫を凝らしても、闇に紛れ、奇襲を食らわし、道化は追ってきた。

 

 音を上げたのは、二人組の方だった。

 

 彼らが道端に放り出した娘に、道化は駆け寄った。

 泣きじゃくる娘に、道化はどうしたらいいのか分からなかった。

 

 散々右往左往した挙げ句に、その場でもう一度芸を始めた。

 

 道化に出来ることはそれしかなかった。

 芸のために生き、芸のために死のうとしていた道化に、子供をあやすなんて器用なことができるわけがないのである。

 けれど、それで子供は泣き止んだ。

 必死に飛びはね、自分の尻をしばき、転げ回って見せる道化を、子供はただぽかんと見つめた。

 

 道化にとっては、それで充分だった。

 

 子供が泣き止んで見つめること。

 そんな些細なことが、道化にはとてつもない喜びだった。

 道化は思わず娘を抱き締めた。

 そして娘の細い足を見て、道化は背中を向けて後ろ手に手を差しのべたのだ。

 

 

「今日から、おいらがおまえの父親代わりだ」

 

 

 後先考えない愚かな道化は、その時そんな言葉を漏らした。

 その時初めて、あたしはメナシェという名前を得た。

 

 

「……でも、それは苦しい時間の始まりだった。イサイは自分の暮らしに精一杯で、子供の面倒を見ることなんてこれっぽっちもできなかったんだ」

 

 

 嗚咽が収まるまで、束の間の時間がかかっていた。

 

 ディディはあたしを担ぎながら、ほとんどあたしの家の近くまで来ていた。

 そんな背中に、あたしはぽつりぽつりとあたしと親父のことを話した。

 ディディは黙ってそれを聞いていた。

 もしかしたら、聞いちゃいなかったかもしれない。

 それでもあたしは胸の奥のつっかえを吐き出すように、言葉を連ねた。

 

 

「親父は、何度もあたしを捨てようとしたよ」

 

 

 親父は、あたしを見知らぬ土地に置き去りにした。

 一度や二度ではない。

 半端者の親父はその度にあたしを拾いに戻ってきたのだけど、何度もやられる方は堪ったものじゃない。

 

 あたしは捨てられるたんびに、喉も割けよとばかりに泣き散らした。

 戻ってきた親父に、罵詈雑言を浴びせかけた。

 

 最初、あたしは親父を罵るために言葉を覚えた。

 父親だなんていっていたけれど、あたしは信用なんてしてなかった。

 その頃は、ただそいつをあたしはイサイ、と呼んでた。

 父ちゃんと呼んでくれ、なんてふざけたことを抜かそうもんなら、あたしは奴を蹴り飛ばした。

 

 

「さぞ間の抜けた親父なんだろうとは思ってたけどな」

 

 

 ディディは前を向いたままぼそぼそと独り言のようにいった。

 なんだ、聞いてたのか。

 あたしはちらりとディディの後頭部に目をやった。

 それからその向こう側を見て、あたしはディディの肩をとんと叩いた。

 

 

「着いた。ここがあたしの家」

 

 

 本当はメナシェとイサイの家だ。

 けれど、幾度も捨てられたことを思い出していたあたしは少しむかっ腹が立っていて、そういった。

 

 アムカマンダラの外れ、大空洞の果ての岩壁がせり出し、かつての都市の崩れかけの住居棟インスラが折り重なるように林立して網目模様の街路を作る迷路。

 あたし達の部屋は上等にも、そのうちひとつの一階にある。

 

 天体苔の明かりもほんの僅かにしか入ってこない中、腐りかけの木の戸板を開けて家の中に入る。

 

 石敷きの床ががらんと広がって、小さな釜戸と天井から吊るされた黒焦げの鍋が暗がりに浮かんでいた。

 その次に闇から現れたのは、大きな篭に詰められた黄色い雲の塊のようなものだ。

 

 

「なんだ、こりゃ?」

 

 

 にゃんこが篭に向かって鼻をすんすんとやっているのを眺めて、ディディがぎょっとする。

 

 あたしは、足を引きずりながら篭の奥にある小さな椅子に腰掛けた。

 椅子には対になる小さな机があって、その上には小さな瓢箪が置かれている。

 

 あたしが説明しようとした時には、ディディは籠の中のものがなんなのかを理解したようだった。

 けれどそれがなぜここにあるのか。

 ディディの頭は今度は新たな疑問を飲み込もうとしているんだろう。

 あたしは一応、説明をしてみる。

 

 

「藤黄の花よ。手で擦るとね、すこしだけ樹脂が取れるの。それを少しずつ、少しずつ集めて、この瓢箪を一杯になってから、それを渡すとね。少しだけど、銅貨を貰えるの」

 

 

 藤黄の花は珍しいんだそうだ。

 葉巻にするのにも、花の部分は使われない。

 花は「強すぎる」んだという。

 その強すぎるものは、人の心を危険な状態にするのだ。

 

 だから普通、花を見かけることはない。

 花まで育てることは許されていない。

 それでも藤黄の花の樹脂を求める人々がいる。

 だからあたしはこの仕事にありついている。

 

 樹脂を求める人種が、どんな類いの者なのかは知らない。

 それを知ることはあたしの仕事の範疇ではない。

 ただ、子供が吸っては気狂いを起こすこともある、ということだけは教えてもらってる。

 でも吸わなければそれで済む話だ。

 

 近くに、さらに地下に続く縦穴がある。

 潜ったって誰も税を取り立てない縦穴。

 翼を持つ魔族アスラや、見るからに怪しい浮遊槽が往き来するその縦穴。

 下には藤黄の畑が広がっていて、そこから花をここに運んでくる幽精ジンがいる。

 

 あたしは彼の言う通りに藤黄をこすり、瓢箪に詰める。

 幽精ジンは、あたしのことを花繰屋と呼ぶ。

 

 

「これなら、足が弱いあたしにも出来るから」

 

 

 そういったあたしを、ディディはしばらく見つめていた。

 口の端が、どこか悔しそうに歪んでるようにも見える。

 

 

「おまえ、どうやってこんな仕事を捕まえてきた?」

 

「上の階に住み着いてる詐欺師の夫婦の、奥さんに紹介してもらったの」

 

 

 ディディの眉間にほんの少し力が入った。

 その目は少し俯いて、篭に入った藤黄に据えられている。

 

 もしかしたらこれは、あまりにも無謀な仕事なのかもしれない。

 本当は罰されるべきことで、いつの日か騎士カルキが扉の前にやってきてお前は罪人だとか宣うかもしれない。

 いや、ソソの手下の方が約束違反だといってあたしを引き摺り出すかも。

 

 そういうことになっても、あの幽精ジンは守ってくれやしないだろう。

 

 きっと正しい世界では、正しい人達が色んな取り決めと協力のもとで、あたしの作るこの樹脂を排除しようとしているのかもしれない。

 どことなくそんな気はしている。

 けれど、この世界の果てのような場所にただの小娘メナシェを裁こうって奴は今はまだ現れない。

 

 だからあたしはまだ花を手にこすりつけて、親父の帰りを待つ。

 

 いつ不条理に裁かれると知れないし、いつ身勝手に売り渡されるとも知れない。

 これはそんな仕事なのだろう。

 

 でも、誰だって毎日を生きるだけで喘いでいて、ようやっと手に入れた光を悪いものだから捨てろだなんていわれても、そうする勇気のある人がどれだけいるんだろう。

 この藤黄の花を失えば、あたしはただの乞食だ。

 

 道化の娘の、乞食メナシェ。

 なんとまあありふれた名前だろう。

 あたしはディディを見上げた。

 

 例えばディディ、あんただったら。

 そういう一切を捨ててでも、新しい光を探求して飛び立っていくんだろうか。

 この地底の片隅を抜け出して、分厚い岩壁の上に広がる広く自由な大空に向かって。

 

 

「黒風のディディって名前は、本当だったんだね」

 

「あん?」

 

「あんたは、本当に黒風のディディだったんだ」

 

 

 初めてディディに出会ったときは偽物だと思った。

 

 短気だし酒臭いし、口が悪いただのチンピラだろうって。

 どうして親父はこんな男に肩入れするんだろうって思った。

 

 でも、あの覚束なく揺れるファリードの中、ディディは一息でこういった。

 “あの娘はあの娘で、一人の歌舞伎者ダリルなのさ。自分の賽は、自分で投げる。そうだろ?”

 

 何度も繰り返し聞いた台詞だ。

 半分はあたしがせがんで、半分は親父が勝手に語った。

 

 黒風のディディの伝説のひとつ。

 ディディが、その相棒アニタと一緒にプネー市を牛耳る大商人バティカンを一杯食わせた逸話だ。

 

 たった二人の歌舞伎者ダリルにバティカンは幾度もだし抜かれる。

 その手際たるや神業のごとし。

 ディディとアニタは阿吽の呼吸でバティカンの手下を小突き回し、バティカンが意地汚く溜め込んだ財宝をかっさらう。

 バティカンは必死に奴らを追い回し、挙げ句やっとの思いでアニタを捕らえた。

 相棒を人質に取られ追い詰められたはずのディディは、しかしバティカンの前で不敵に笑う。

 

“そいつはそいつで、一人の歌舞伎者ダリルなのさ。自分の賽は、自分で投げる。そうだろ?”

 

 驚くバティカンに、アニタも笑って語りかける。

 

“ 私がディディの相方? いい迷惑ね。誰がそんな甲斐性なしの相方ですって? あたしはアニタ。プネー市の貴婦人。相手なんていない、一人でやって来た。信じようが信じまいがそちらの勝手だけどね。それでも私を人質にしたいの? やぶさかじゃないわ。けれど、タダでっていうのは商人の取引として成り立たないわね”

 

 アニタの縄は解かれ、口を開けて呆然とする他ないバティカンの前に落ちる。

 アニタは、自らバティカンの罠を脱する手立てを打っていたのだ。

 

“あたしはとっくに自分を賭けている。今度はあなたが何を賭けるか見せてもらいましょうか”

 

 歌舞伎者ダリルディディの冒険譚の一幕。

 

 何度も何度も聞いた話だった。

 だから、一言一句違わず唱えることが、あたしにはできた。

 

 ではなぜこの男も台詞をいえたのか?

 ディディに語り部の口演や詩人の歌をまともに耳を傾ける感性があったのだろうか?

 まさか。

 

 他ならぬディディ自身の物語だからこそ、ディディも覚えていたのだ。

 

 ディディはあの時、ひとつの嘘も許すつもりのないソソを相手にその言葉を唱えることであたしを舞台に引き摺りあげ、危機を切り抜けた。

 けれど、あたしにとってはそんなことはどうだっていい。

 

 

「本当だったんだ。バティカンの館に、アニタと行ったんだね」

 

 

 あたしは気持ちの高ぶるのを感じながら、ディディにそう尋ねた。

 

 遠い遠い世界の、英雄物語。

 それはいつだって、こんな世界の吹きだまりで縮こまるあたしを、天高く舞い上がる気分にさせた。

 

 あたしはいつか、アニタみたいに黒風のディディの相方を勤めたいと思っていた。

 それが叶って、ディディがあたしを大女優だといったんだ。

 そういうことは、ろくすっぽ動かないこの足のことや、得体の知れない仕事のこと、帰ってこない親父のことを忘れさせる。

 

 ディディは、食いつくように見つめるあたしの瞳を暫く見返していたいたが、やがてふと視線を剃らした。

 

 

「どうだかな」

 

 

 ディディは苦笑いみたいなものをした。

 そんな顔は珍しかった。

 

 

 「尾ひれがつきまくって、そいつはもう別物みたいなもんさ」

 

「けど、あの台詞は本物だった」

 

 

 あたしはついディディの言葉を遮るようにいってしまった。

 あたしはずっと聞きたかったことがあって、胸が高鳴ってどうしようもなかったあたしは、それを抑えることはできなかったのだ。

 

 

「ねえ、アニタは? どこにいるの?」

 

 

 アニタは、あたしの憧れの人物だ。

 

 女だてらにその腕ひとつで世間を渡り歩く自由な女。

 地底からは見えない夜空に瞬く、星みたいな存在だ。

 

 だからそれを尋ねるのはごくごく自然なことだったと思う。

 

 けれど、ディディはその時、そのほんの一瞬、身を切る秋風みたいに悲しそうな目をした。

 ふいと顔を背けてしまってからはもう見えなかったけど、なにかを諦めたような小さな息をつくのが聞こえた。

 

 

「あいつは、消えちまったよ」

 

 

 喉の低いところを震わせた声で、ディディはいった。そうしてごそごそと懐から葉巻を取り出す背中は、いつもみたいに自信に溢れた男のそれではなかった。

 

 

「このウヴォの、消炭色の闇の中に、あいつは行っちまったんだ」

 

 

 火金鋏ひがねばさみが、ばちっと火花を散らした。

 その刹那、瞼を重そうにすこし下げた、ディディの横顔が見えた。

 

 もう、帰ってこない人を思う顔だ。

 あたしはそう思った。

 

 なんとなく視線を藤黄に投げて、あたしはそう遠くない記憶を思い起こした。

 この家からファリードへ向かう親父を何度も送り出した記憶だ。

 

 親父は、舞台をする時はあたしがついていくことを許さなかった。

 あたしが見ることができたのは家で練習に励む親父の姿だけだった。

 

 親父の舞台の最後は、だいたい殺到する騎士カルキからの逃亡劇になってしまったから、あたしがついていては逃げ切れなくなる。

 あたしだって分かっていた。

 けれどファリードなら、少なくともソソの懐を荒らすほど馬鹿な騎士団カルキジャーチはいないはずだ。

 

 そのはずなのに、親父は寂しそうに笑っていつも首を横に振った。

 

 なぜ?

 あたしにはわからなかった。

 そのたびに、あたしはあらんかぎりの毒を吐いて、親父にぶつけてやったのだ。

 

 でも今なら、それがどうしてか分かる気がする。

 

 親父はファリードで舞台をしていただけではなかった。

 ソソの“光るもの”に悪さをした。

 あのソソを相手取ってぺてんにかけようとしていたのだ。

 

 不器用な道化イサイには、到底似合わないことだ。

 どうしてそんなことをしたのか、あたしには分からない。

 まるで知らないイサイを見せつけられたような気がする。

 

 

天鵞絨ビロードを被った親父、見た?」

 

 

 小さくいうと、ディディは目線だけをこっちへ寄越した。

 

 

「びっくりするほど似合ってなかった」

 

 

 ディディは思い出すような顔になって、それから吹き出した。

 

 

「そういや、そうだったな」

 

 

 ディディが可笑しそうだったので、あたしもつい笑顔になる。

 けれどそいつはすぐに頬に張り付くだけのものになった。

 

 似合わないことをして、危ないことをする親父は嫌いだ。

 そう思った。

 

 なあ、と足下でにゃんこが鳴いた。

 焦点の定まらない目でその子を見下ろしてると、また頭をくしゃくしゃとやられた。

 今度は、ディディにされるままになった。

 

 

「その傘」

 

 

 ディディの低い声が心地よかった。

 

 

「親父に貰ったのか」

 

 

 あたしはこくりと頷いた。

 

 薬草を燃やしたような臭いが、ふと鼻をつく。

 いつの間にか洗っても洗っても拭えなくなった、自分の手から匂う藤黄の香りだ。

 どうしてそんなものを有り難がって吸いたがるのか、あたしにはさっぱり理解できなかった。

 でも、アムカマンダラの大人は誰もがそれを吸いたがる。

 バイプで、煙管で、葉で巻いたそのもので、それを吸いたがった。

 

 

「その傘は、大事にしろ」

 

 

 ディディの口調は、珍しくまともそのものだった。

 ディディは静かに、その言葉を繰り返した。

 

 

「大事にしろよ」


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