六、道化イサイの尊び

 時間は少し遡る。

 

 

「さあさあ、見世物ってのぁタダじゃない! それがしの名人芸に技有りと思ったら、心づけはこちらまで!」

 

 

 彼はそういって、外套マントをはためかせながらくるりと回ってみせ、優雅に小腰を屈めてみせた。

 

 

「愉快な催しを見ておいて、駄賃を踏み倒す野暮は、アムカマンダラの歌舞伎者ダリルじゃない。そうだろう?」

 

 

 彼の言葉に、見物人の熱は一気に上がった。そしてほかならぬおいらもその例に漏れず、目の前に騎士カルキがいるっていうのに我を忘れて声を張り上げた。

 勢いよく拳を翳したせいで、肩に乗っているメナシェがぐらりと体勢を崩した。

 

 

「ちょっと」

 

 

 抗議の視線に、思わず我に返る。

 頭上の仏頂面が、不快感を瞼に乗せた半目でこちらを見下ろしていた。

 

 おいらは精一杯のへつらい顔で謝る。

 

 

「すまねぇ、メナシェ。けど」

 

 

 けど、本当に、ものすごいことだ。

 瞠目すべき事象であり、事実おいらの目はふたたび吸い寄せられるように彼に釘づけになる。

 

 道化イサイは今まさに感動していたのだ。

 騎士団カルキジャーチ相手に斯くの如き芸当をしてのける男が、このご時世にまだいたなんて。

 

 法と権力を振りかざして好き勝手をする騎士団カルキジャーチに、おいらたち歌舞伎者ダリルは苦い顔で逃げ回るしかないってのがここんとこ体たらくで、その最後の居城がアムカマンダラなのである。

 そこにのこのこやってきた騎士カルキどもも間抜けといえばそうだ。

 

 が、あの天鵞絨外套ビロードマントを巡るやり取りから見ていたおいらにいわせれば、彼はわざわざここへ騎士カルキを誘導したのだ。

 

 バティカンの共同体祭ジャーチディワリがすぐにでもアムカマンダラにやって来るかもしれない。

 その話を聞いておいらとメナシェはつれだってハヌディヤー通りを歩いていた。

 ほんの買い物のつもりでアムカマンダラを出てきただけだったのさ。

 

 そのはずが、あの仕立て屋での事件を目の当たりにした時には衝撃を受けた。

 騎士団カルキジャーチに立ち上がった同胞がいる。

 それだけでおいらの血は騒いだね。

 

 だが勇士の手腕はおいらの想像を遥かに越えていた。

 いま目の前で、彼は騎士カルキをいいように手玉に取り、俗物の見世物に淪落りんらくせしめたのだ。

 

 繰り返しいうが、道化イサイは感動していたんだよ。

 とんでもない男だ。

 

 おいらは知らず知らずのうちに口をすべらせていた。

 

 

「見てみな、メナシェ。すげぇよ。あれは、本物だよ」

 

 

 なぜメナシェにそんなことをいったんだろう、と今となっては不思議に思う。

 悦に入ったそういう口ぶりをこの娘の前でした日には、「気色悪い」の一言でばっさりやられるのは目に見えていた。

 よっぽど興奮していたのだ。

 

 けれど、この時のメナシェはなぜかそんなおいらに毒を吐かずにぽつんと小さく聞き返してきたのだ。

 

 

「本物?」

 

「ああ……。本物の歌舞伎者ダリルだ」

 

 

 おいらは男の動きを見逃すまいと必死になりながら、うわ言をしゃべるみたいに答えた。

 

 権力に屈服せず、搾取される者に荷担をして敵をやり玉に上げる。

 ちょっとばかりの粋な計らいもおまけに、見物人の連中の心を掴み夢中にさせる。

 

 間違いようもなく、本物の歌舞伎者ダリルだ。

 

 

「ふーん」

 

 

 呟くメナシェは、大人しかった。

 おいらの肩の上で退屈そうな顔をしながら、例の男が黄林檎をかじる様を見つめていた。

 そうして時より手に持った傘でくるくると遊んだ。

 

 

「でも、歌舞伎者ダリルにしては、ちょっと格好がお上品じゃない?」

 

 

 メナシェがいった。

 

 流石、このイサイについてあちこちの不埒者をつぶさに観察してきただけのことはある。

 格好だけは一丁前の最近の歌舞伎者ダリルのことを、メナシェはよく知っている。

 

 けれど、本物ってやつは往々にして案外地味なものである。

 

 

「いや、あの天鵞絨ビロード一枚って所が渋いじゃないか。まるで、黒い風みたいでさぁ」

 

 

 思い浮かんだ比喩がなかなかの出来で、おいらは満足しながら深く頷いた。

 

 

「黒い風?」

 

 

 メナシェがおいらの言葉を繰り返した。

 

 

「それって」

 

「ん?」

 

 

 おいらは聞き返しながら、相変わらず視線は男に張り付けたままだ。

 

 騎士カルキと黒い風の男の果たし合いは、いよいよ決着を迎えようとしていた。

 

 兜を奪い取られ、坊主のような情けない帷子かたびら頭になった騎士は、まるで親の仇を見るかのような目で男を睨む。

 対する男は船のマストのように直立して天鵞絨ビロードを靡かせる。

 剣先を突きつけられても微塵も恐れる様子のない立ち姿は、まるで伝説を書き記した絵巻物に出て来てもおかしくないほど、美しかった。

 

 男が男の姿に見惚れるってことは実際にあるもんだ、なんてことをおいらはぼんやりと思った。

 恍惚として、現実感を見失おうとしていた様子のおいらに、メナシェが頭上からぼそりと溢した。

 

 

「あの人は、あの“黒風のディディ”なの?」

 

 

 おいらはそこでようやくはっとした。

 ゆっくりとメナシェの人形のような顔を見上げ、それから男の方へ視線を戻した。

 

 黒い風のような男。

 黒風。

 ……そうか。

 

 おいらは頭のてっぺんから電撃が走ったようになって、そこに立ち尽くした。

 

 目の前では、男と騎士カルキの一騎打ちが始まっていた。

 

 裏返りそうな気合いを発した騎士カルキがべたべたと重い足音を響かせながら突っ込む。

 男は、騎士の振り上げた剣に向かって、ぽんと黄林檎を投げた。

 騎士カルキはそれもろとも男を引き裂かんと剣を降り下ろす。

 

 しゃくっと黄林檎を両断した剣は、しかし男に届くことはなかった。

 いや、正確には、男が先に刃圏はけんの内側へ入り込んだのだ。

 跳ねるように騎士の間合いの中へ踏み込んだ男は、ぐるっと身体を捻って剣を降り降ろす騎士カルキに沿うようになった。

 

 次の瞬間、騎士カルキの足が男の足に刈り取られるように宙に舞い上がって、騎士カルキは前方への勢いを殺せないまま、ぐるんと身体を翻しながら地面に倒れ込んだ。

 

 男は騎士カルキを投げ飛ばした姿勢からふいに天を仰ぐと、両断された二欠片の黄林檎を両手で受け止めた。

 

 

「何から何まですまねぇな」

 

 

 そうして、男は肩をすくめて黄林檎にかじりついた。

 

 ──間違いない。

 おいらは愕然としながら、一人思った。

 

 風貌、腕前、振るまい、どれをとっても只者ではない。

 それに、その態度はあの吟遊詩人に聞いていたものそのままだ。

 

 この男は、黒風のディディその人なのだ。

 

 銭やらごみやらが飛び交う事態となった通り沿いのその一角から、騎士カルキたちは尻尾を巻いて逃げていき、ディディとおぼしきその人物は黄林檎を持ったまま両手を広げて声援に答えると、いそいそと金銭の回収に回っていた。

 少しばかり情けなく見えるその所作も、おいらには特別に見えた。

 

 しつこい、とメナシェに罵倒されたとしても、おいらはその決まり文句を口にしていただろう。

 「実物というやつは、案外そういうものだ」と。

 

 黒風のディディ。

 その人物が目の前に現れたのだとしたら、こんな好機は二度とない。

 一介の道化が、歌舞伎者ダリルの英雄に口を利ける機会なんてそうないのだ。

 

 事態が落ち着くのを待って接触すべきだ。

 道化イサイの心は、その時から決まっていたのである。


 

 

 

「そういうわけで、おいらは騎士カルキの鳴らした角笛から逃げ出したあんたを、必死に追いかけてきたのさ」

 

 

 おいらはべたつく対面台にとんと手を打って、話を締めくくった。

 いつの間にか前屈みになっていた重心を引き戻すと、ぎしっと座った椅子が悲鳴を上げた。

 

 埃っぽい店内はひび割れた光石の頼りない黄土の色に照らされていて、くすんだ木製の卓と椅子はどこか寂しそうに佇んでいた。

 トゲトゲした観葉植物は、裂傷だらけの壁に不気味な影を落としている。

 他に客はまだなかった。

 

 ディディは対面台にもたれるようになりながら、おいらの献上した瓢箪をあおった。

 ごちゃごちゃした酒瓶を並べた棚の前に立った店主は、強面をこちらに向けて話を聞いていた。

 メナシェはつまらなそうにおいらの隣で座っていたけど、店主が水を出してくれていたのでそれをちびちびと啜っていた。

 

 

「それで、イサイさんよ。なんでそのいきさつが先の娘っ子の悪口雑言あっこうぞうごんになるんだ?」

 

 

 一番悪どい顔をしている店主が、一番まともな質問を投げ掛けてきた。

 おいらはその筆を逆毛立てたような眉の下の不思議そうな三拍眼を見返して、なんとなく言葉に詰まった。

 

 

「それは、だなぁ。子供相手の方が、かの風来坊も口数多く武勇伝を語ってくれるかと思って、それで」

 

 

 おいらの視線は泳ぎまくって、そのついでに後ろのメナシェを窺うように見た。

 

 

「それで、娘に取材を頼んだんだが」

 

 

 なによ、という感じでメナシェが睨みを利かせてきた。

 愛らしくもあり、そして子供にしては鮮烈な眼力だ。

 

 薄ら笑いを彼女に返しながら、どうしてこうなったか聞きたいのはこっちの方だといいたかった。

 

 なんとかディディの潜伏先を見つけたおいらは、油断を誘うためにメナシェに偵察を頼んだのだ。

 

 ああ、歌舞伎者ダリル相手に娘を使うなんてひどい父親だっていうんだろう。

 そんなことは分かってる。

 重々承知の上さ。

 

 でも、どうしてもこの好機をものにしたかった。

 メナシェが話しかけにいって、ディディがなんとなく心を許す気分になっている所へ、おいらが例の酒を手土産に口の滑りをさらによくする、っていうのが当初の作戦だった。

 

 ところがどっこい、メナシェは作戦を黙って聞き届けたと思うやいなや、つかつかと酒場に足を踏み入れて、いきなりディディを罵倒したのである。

 

 あの時のおいらの顔は、そこらの石壁みたく蒼白になっていたことだろう。

 おいらがあわてふためいている間にも、メナシェは見事な言葉の操りようでディディを煽りに煽り続け、ついにはぷっつんと糸が切れる音が聞こえてきそうな怒り心頭にまで仕立て上げたのである。

 

 ディディは仏頂面をしつつも、今は酒と店主の出したつまみで一応怒りを収めてくれたようである。

 おいらの決死の謝罪の甲斐もあったってもんだ。

 

 しかし。

 おいらはもう一度ちらとメナシェの横顔を見る。

 

 どうして利口なメナシェが、あんなことをいったんだろう。

 ディディは見るからにやくざな歌舞伎者ダリルだし、そういう奴を怒らせると危険なことは、この聡い娘はよくよく知っているはずなのである。

 

 おいらの困ったような視線に気づいたのか、メナシェはもう一度おいらの顔を見上げ、それから柔らかそうな頬を膨らませて唇を尖らせた。

 

 

「取材、したもん」

 

 

 おいらにとっては天使のような表情につい笑ってしまいそうになりながら、その“取材”のためにかいた冷や汗を思って、浮かべた笑みはややぎこちないものになった。

 

 反対側でディディがこんっと瓢箪を置く。

 

 

「取材だってぇ?」

 

 

 不機嫌そうなディディの声に、メナシェが反応してまたしても険のある視線を飛ばさんとする。

 おいらは慌てて二人を隔てるようになって両手を広げた。

 

 

「ああ、そうさ。道化をやってるおいらが、あんたみたいな伝説の歌舞伎者ダリルを逃すわけにいかないよ」

 

 

 それからその両腕を汲んで深く頷く。

 

 

「本物に話を聞けるなんて、そうそうないことだからなぁ」

 

 

 おいらの話を聞いているのかいないのか、ディディはそっぽを向いていてちびりと酒に口をつけた。

 

 どうも他人の調子に流されるのを好まない性格のようだ。

 おいらに押し付けられた酒を飲みながらも、誰が話なんぞ聞いてやるかという意地みたいなものが眉の辺りに現れていた。

 

 歌舞伎者ダリルの神様は、どうやら案外子供っぽい。

 

 対して、顔に似合わず話をよく聞いてくれる店主が、口を開いた。

 

 

「しかしイサイ。道化なんて、適当な話をでっち上げて聴衆の気を引くような連中だろうよ。それにディディがなんか関係あるのか?」

 

 

 いってくれるぜ、とちらと思ったが、別段腹は立たなかった。

 

 道化なんてのはだいたい誰からもそんな風に思われていて、その装いと自己虐待的振る舞いで笑いを取るやり口は、しばしば侮蔑の対象となる。

 今さら否定する気はない。

 けれどそれが単なる偏見であって、真理とはほど遠いというのも事実だ。

 

 

「道化ってのはな、心踊る物語の創作者であり、舞台に立つ表現者なんだよ」

 

 

 おいらはいって、にやりとした。ディディが投げやりな視線をこちらへ寄越す。

 

 

「道化がか?」

 

「ああ、道化がだ」

 

 

 おいらはいうと、とんと椅子から立ち上がって板張りの床の中央辺りに立ち、踊り子ばりのつま先立ちでくるりと回転してみせた。

 そして矮小で安っぽいお辞儀を、細心の注意を払って丁寧にしてのける。

 

 それは道化の模範とも言うべき立ち居振舞いだった。

 

 そうして今度は、貴族の好むバレエのような仕草でゆっくりと手を広げる。

 

 

「道化とは何か? それは役者であり、踊り子だ」

 

 

 体の中を空洞のようにして震わせた声は、朗々と小さな酒場に響く。

 

 

「道化とは何か? それは語り部であり、詩人だ」

 

 

 今度は伝統舞踊を舞うように、厳かに足を擦りにながら歩を運ぶ。

 それが説得力のあるものであればあるほど、道化がこなしている様は滑稽だ。

 だから一切の妥協も許さず、おいらは反芻したその動きに従事する。

 

 

「君にだってあるだろう。遠い夜、まだ星を見ていた夜。──いやいや、地底の町にも星はある、子供たちの心の中にだけは」

 

 

 踵を中心に、直立姿勢のままくるくると回る。

 からくり仕掛けの人形のような動きは、語りと合間って懐古的な雰囲気を演出する。

 

 

「祭りの日の夜、町の光に照らされて、道化は舞台に上がっている。面妖な様相と面白おかしい振るまいを見て、幼心おさなごころに君はすぐさま、その虜になる」

 

 

 身体が熱くなっていくのを感じながら、道化を演じる。

 自分自身がそうであることは関係なく、人々の描く道化の印象を描き出すのだ。

 

 きびきびとした動きのなかに俗臭を醸すのを忘れない。

 けれど流れは止めない。

 あくまで芸の一部だ。

 

 頭の中に響く自分の声に、光るように情景が浮かんで、身体はただそれをなぞる。

 細やかな意思を、指先が伝える。

 

 

「ママはきっと君にいう。“道化を見たら、頭が変になりますよ”。それでも君は目を離さない。その滑稽な男を、追いかける。ついにはママの手を離してしまう」

 

 

 今や体も喉も、勝手に震えていた。

 

 自分の体に寒気が走るほど、もうおいらは別のなにかになっていた。

 どこからか遠い見えざるものが告げることを、ただひたに追いかける。

 

 

「そこにあるのは、熱だった。取り囲む人々の、道化自身の生んだ熱。君は未知なる邪悪な精気に、初めて触れた」

 

 

 最後に、糸が切れたようにぐらりと身体を泳がせて、倒れ込むようにもといた椅子に雪崩れ込む。

 そうかと思えば、座ったときには足組んだ姿勢で、密かに腰元に隠していた小さなリュートを、じゃららん、と鳴らした。

 

 

「そしてもう、逃げられない。道化からは、逃げられない」

 

 

 音程の滅茶苦茶な、歪んだ弦の響きが情緒たっぷりに詩的表現を彩った。

 

 うつむいた頭と火照った体で、ここがどこなのか、誰に向かって語ったのか、わからなくなる。

 そんな別世界の片隅で、ぱちぱち、と拍手が聞こえた。

 メナシェが思わずしたもので、目を輝かせた彼女はその瞬間に我に返って、合わせた手を体の後ろに引っ込めてしまった。

 

 視界を動かせば、ディディと店主がこちらを見ていた。

 ああ、そうだ、ディディに教えなきゃいけないと思ったんだ。

 道化のことを。

 夢の中のごとき感覚のなかで、他人事のようにそう思った。

 

 言葉を飲んでおいらを見る二人の男に、おいらは力の入りきらない笑みを浮かべた。

 

 

「いったろ? 道化は表現者なんだ」

 

 

 そう。

 道化はその奇天烈な物腰で、道行く人の足を止めなければならない。

 けれども奇をてらってばかりだけじゃ、置いた帽子に銭は入ってこない。

 

 だから、道化は心踊る話を求める。

 引き出しとなりうる芸を仕入れる。

 

 街を渡り歩く旅芸人たちが、妙に人相の悪いのとつるみがちな理由は道化にある。

 町のつまはじき者代表として、道化が彼らに接触するからだ。

 そうして彼らと物語の交換を始める。

 

 

「人の足を止める物を語るには、知識を越えるものが必要だ。それは価値観だ。価値観は深い造詣なんだ」

 

 

 おいらは少しずつ現実感を取り戻しつつある頭を働かせて、いった。

 

 

「それがなくちゃ人をときめかせる物語は語れない。人の足を引き留め、心を引き込むことはできやしない」

 

 

 だから、より本物の伝説を、道化は好む。

 生々しく、人の心を惹くものを。

 

 演者は演者であり、どう足掻いても本物にはなれない。

 ただ本物の表現者であろうとすることはできる。

 

 地底はなにもかもが曖昧だ。

 おいらたちを照らし出す大光玉はどんなに有り難がってみても本物の太陽ではない。

 アムカマンダラに虹色の雨が降る、だなんて伝説がある。

 “アムカマンダラの虹雨にじさめ”なんていわれているが、雨を見ることなく一生涯を終えてゆけば虹色の雨など偽りだと言い張ることすらできない。

 

 本当のことがわからない。

 だから知りたい。

 嘘のままで終わりたくのないのだ。

 せめて本物の演者でありたい。

 

 歌舞伎者ダリルの英雄を目の前にして道化イサイが黙っちゃいられないってのは、そういう理由だ。

 

 体はまだ自分の物じゃないみたいにふわふわしていた。

 舞台の後はいつもこうなる。

 指先に痺れるような感覚があって、それがおいらを現実へ戻していたく。

 

 そうだ、おいらは聞かなきゃいけない。

 この男の回顧譚を。

 

 

「あんたの物語を聞かせてくれないかい、ディディ」

 

 

 おいらはディディの灰色の目を、真っ向から見つめていった。

 

 

 「今までの冒険とか、成し遂げたことをさ」

 

 

 ディディはその言葉を聞き届けてから、ふと視線を逸らした。

 虚空を見つめるようになった目で、ディディはぼそりといった。

 

 

「成し遂げたこと?」

 

「ああ。そうさ」

 

 

 おいらはいつの間にか畳み掛けるように早口になっていった。

 

 

「幻の地底参階層ティンツーンを冒険したってのは本当かい? バティカンの所に忍び込んだってのは?」

 

 

 歌舞伎者ダリル黒風のディディの伝説を上げればきりがない。

 聞きたいことはいくらでもある。

 こうなりゃ少しの時間も惜しい。

 ちょっとでも多くの話を聞き出さなきゃいかん。

 

 おいらの頭は今や十分正気に戻っていた。

 

 

「おいらは聞いたんだ。吟遊詩人の姉ちゃんから、黒風のディディと、その相方アニタの活劇をさ」

 

 

 ところが、椅子を軋ませて前のめりになるおいらを、ディディはちらりとも見ない。

 しばらく口をつぐんだ末に不精ったらしく漏らした声は、おいらを突き放すようですらあった。

 

 

「ねえよ、そんなもん」

 

 

 おいらは、硬直する。

 

 おい。

 おいおいおい。

 ここまで来て、そりゃあないだろう。

 まさかひとつの小噺ですら吐くつもりはないってか? 

 

 焦りだしたおいらの視線を察してか、だめ押しとばかりにディディは更に気の抜けたことをいった。

 

 

「昔のことは振り返らない性格なんだ」

 

 

 絶句する。

 

 ここまで、頑固者であろうとする理由はなんだ? 

 わざわざ自分の貫禄はひけらかさないってのは歌舞伎者ダリルの信条に近いものはあるけれど、こっちは一芸を披露してさえいるのだ。

 だからこれは、もはや物々交換の場に至っているのだ。

 

 この強引にも思える理屈は、しかし歌舞伎者ダリルであれば百も承知の社会通念ってやつで、ここまで来て口を割らないってのは少々不粋ってことにすらなるのである。

 

 らしくないんじゃあないか。

 知り合って間もないのにおいらはついそんな風に思う。

 

 

「そう、無下にするこたぁないだろう?」

 

 

 焦燥の滲む声が、思わず口をついて出た。

 酒まで飲んでおいてその無愛想はないだろう、という不平が、努めて明るくした声にも感じ取れるほどだった。

 

 けれどディディは、あらぬ方を向いたままだ。

 店主が禿げ上がった頭をぽりぽりと掻いた。

 ディディの偏屈っぷりに口を出そうか迷って結局口をつぐんだような、そんな顔だった。

 メナシェが文句を言いたそうに身じろぎした。

 

 ここで引き下がるわけにゃいかない。

 そのじりっとした沈黙の中を、おいらはぐっと堪えてディディの返事を待った。

 

 こういう時は、先に口を開いた方の負けだ。

 声を発した方が、譲歩をすることになる。

 そしておいらには、これっぽちも引き下がる気はない。

 

 辛抱強いおいらの沈黙に、ディディは視線は明後日に止めたままで、口を開いた。

 

 

「終わった奴の話なら好きにすればいい」

 

 

 酒のせいか、ディディの声は掠れていた。

 

 

 「だけど、今のおれはまだ生きてる」

 

 

 ディディはそれだけいって、酒をあおった。

 

 おいらは、ディディのいった意味が分からず眉間にシワを寄せる。

 少なくとも期待した譲歩の言葉ではない。

 

 どういう意味だ? 

 ディディはまだ生きているけど、終わった奴の話はしてもいい?

 

 生きている間は、ディディの話をすることはできないってことだろうか。

 なぜ? 

 

 わけも分からずただ必死にディディを見つめるおいらの目を、ディディはその時になってようやく見た。

 

 おいらを写した灰色の目は、どこか異様だった。

 おいらはその様に思わずたじろいで、それを正直に言い表してしまうみたく座った椅子がぎしっと鳴いた。

 

 ディディはそんなことには少しも構わずおいらを見つめ続けた。

 灰色の壁が、こちらに向かって迫ってくるようだと思った。

 

 ディディはゆっくりと言葉を語った。

 

 

「おれが生きてるってことは、まだ物語も終わっちゃいないってことだ。その話が愉快な英雄譚ばかりであれば、誰もが幸せになれるのかもしれない。けど、それが心悲うらがなしい譚詞曲バラッドだとしたら?」

 

 

 おいらは石になったみたいに動けなかった。

 どこか底冷えするような声色で語るディディから目を反らしたいと思いながら、そうすることができなかった。

 

 おいらは最早、灰色の世界の囚人だった。

 その蒼然とした鉛色の瞳の中に、吸い込まれてしまっているのだ。

 拠り所とするものを全て奪われて、色のない最果ての地で罪を問われている。

 そんな気分になった。

 

 

「完結していないってことは、話を聞いた時点であんたは共演者であり、登場人物の一人になるってことだ」

 

 

 ディディの瞳には、無色の闇が宿っている。

 灰色のそれには、この大都市の石造りの町並みに染み付き消え去らない、色のない暗闇があるのだ。

 おいらはそんな風に思いながらも、灰色の世界でディディのどこか錆びついたような声を聞く他なかった。

 

 

「終わっていない物語の登場人物となる。それは、或いは」

 

 

 ディディが言葉を切った。

 

 無色の闇がその色を増した。

 無に帰してしまいたいような衝動の只中に放り込まれ、自分って存在が曖昧になる。

 その奥には、想像を絶する悲しみがあった。

 

 

「命を狙われるってことなのかもしれない」

 

 

 にび色の刃が、喉元に突きつけられる。

 そんな感じがして思わず声を漏らしそうになり、そうしてようやくおいらは自分が息をしていないことに気づいた。

 

 その時になって、長いこと灰色の瞳を能面のように晒していたディディが、瞬きをした。

 瞬間、体中を拘束していた半濁のなにかが、おいらを解放した。

 

 かはっ、と咳き込むように体が痙攣して空気を求める。

 体が大きく脈動した。

 

 ようやく自由になった体を仰け反らせて、おいらはディディの眼から離れた。

 

 

「親父!」

 

 

 メナシェが悲鳴にも似た声を上げて、おいらを支えた。

 娘の小さな手の感触を背中に感じると、おいらは荒く息を吐きながらそれにもたれるようになった。

 

 ディディの瞳はまだおいらを映していた。

 けれどその灰色に、もう拘束力は伴っていなかった。

 ディディの薄い唇がゆっくりと片頬に笑みをつくった。

 

 

「道化だって、命は惜しいだろ?」

 

 

 そういってしまうと、ディディはまたそっぽを向いて、瓢箪を煽った。

 

 体はまだしゃくり上げるように空気を欲していて、おいらはそれを上手く整えることも出来ず肩が上がり下がりするに任せた。

 

 

「やっぱりこんな奴、最低のイカサマ野郎よ」

 

 

 おいらの背中を擦っていたメナシェが、その手にぐっと力を込めて言った。

 

 

「残虐な、冷血漢なんだ!」

 

 

 メナシェの甲高い声が響いても、もうディディはこっちを見やらなかった。

 

 まずい、メナシェを安心させてやらなくては。

 おいらはそう思った。

 

 冷や汗が噴き出すのを全身で感じながらも、それでもまた話が拗れるのを恐れていたのだ。

 

 

「大丈夫だよ、メナシェ。おいらはこの通り……」

 

「こわっぱの言う通りだぜ。おれは最低最悪のやくざ者だ」

 

 

 ディディはおいらの言葉を遮って言うと、瓢箪を対面台の上にとんと起き、もう片方の手にいつの間にか持っていたものを持ち上げた。

 

 

「あんたは勝手に歌舞伎者ダリルの神様だとか抜かしたが、所詮は見かけ倒しの、紛い物だよ」

 

 

 ディディはそうして、おいらのリュートを鳴らした。

 

 腰の下にくくりつけていたはずのそれがどうしてディディの手元にあるのか、さっぱり分からなかった。

 一体どんな手品を使ったんだ。

 まるで盗人のごとき手際だ。

 

 

「只の盗賊なのさ、おれは」

 

 

 ディディはおいらのいいたいことを先回りするようにいった。

 

 

「土産をやるから、大人しく帰んなよ。良い外套マントだ。売り払えばしばらく興行なんざしなくても暮らせる」

 

 

 ディディはそういって、おいらの膝の上に天鵞絨外套ビロードマントをほうった。

 独特の蕩けるようにきめ細かい触り心地が、するりと片膝を滑り落ちる。

 

 おいらは、息を整えながら店の光玉の侘しい黄色を鈍く反射する布に目を落とした。

 

 興行をしなくても済む? 

 その布がぐいっと握りしめられる。

 そんな言葉をありがたががると本気で思っているのか。

 

 ディディは、さっきの脅しに似た文句でおいらの熱意をへし折ったつもりでいるんだろう。

 おれはお前の知らない世界にいる、関われば死ぬ。

 だからなにも聞くな。

 ……そういうことなのかもしれない。

 

 おいらの中で、どろっと熱いものが頭をもたげる気がした。

 

 おいらの人生はおいらのやりたいようにやる。

 歌舞伎者ダリルという生き方をしている時から決まっている。

 そいつを、わけ知り顔で諭されるなんてことを、どうしてされなきゃならない?

 

 その感情は、怒りだった。

 だからおいらの発した声も情けなく震えた。

 

 

「男には、どうしても譲れないものがある。そういうものだよな」

 

 

 そういってしまってから、背中に触る小さな手がぱっと離れた。

 思わずはっとさせられた。

 

 ──メナシェ。

 

 しかし、同時に歪んだ笑みが頬の端に皺を刻む。

 いまさら親父面なんてものを、よくもまあしようとするもんだ。

 そう、いまさらだ。

 全てはいまさらのこと。

 

 おいらはぐっと布を握る手にさらに力を込めて、言葉を吐いた。

 

 

「命より大事なもんを見つけたがる。そいつを見つけてどうするかなんて、考えつきもしないままな。不思議な生き物さ。そしておいらはそれを見つけた」

 

 

 おいらはいってしまってから、後ろの小柄な少女がどれだけ傷つくのかを想像して、胸の割ける思いがした。

 でもそんなものを思いやる権利すら、おいらにはないと思った。

 

 痛みに堪えるようにぎゅっと目を閉じたまま、絞り出すように言葉を続ける。

 

 

「いつか誰もが引き込まれる本物の舞台をすることが、命より大事なことだ」

 

 

 力強く言い切りながら、おいらは渾身の思いで顔をあげた。

 

 

 「だから──」

 

 

 が、そこでおいらは言葉を無くした。

 どんなに目を見開いてみても、目の前の有り様は現実のことだった。

 

 ディディは姿を消していた。

 

 

「ディディなら、出ていったぞ」

 

 

 気の毒そうに、店主がいった。

 驚きのあまり、喉がひっと妙な音を漏らした。

 

 

「冗談だろ?」

 

「本当だよ。親父が自分に酔ってる間に、さっさと出てったもん」

 

 

 背後でメナシェが言葉を選びながらいった。

 

 どんな時でも効果的な言い回しを選ぶ逸材っぷりは、おいらの娘にゃ勿体ないほどだ。

 けれど、こんなときは親父の心に少しばかり刺さり過ぎる言葉でもある。

 

 おいらは情けなく眉尻を下げてメナシェを見た。

 

 

「教えてくれよぉ」

 

「そんな義理、ないわ」

 

 

 そういって横を向くメナシェは斜に構えた貴婦人のようで、よく見せていた演劇の道化を突っぱねる女役そのものだった。

 役になりきって興奮している時に彼女がよくそうなる鼻のぷっくり加減を見るに、旅芸人の演劇を見せ過ぎたらしいことが分かった。

 

 そういう、まるで父親のような思考を巡らせていた愚かなおいらは、だから確かめるような言葉を口走った。

 

 

「親子に義理もなにもないだろ?」

 

 

 いってしまってから、思わずおいらは口をつぐんだ。


 元々余計なことばかりいって女の機嫌を損ねるのはおいらの大得意だが、今回ばかりは本当に、どうして後悔ってやつは先に立ってくれないのかなんて恨み言のひとつもいいたくなった。

 

 娘を隣において命よりも大事なものがあると、そんなことをいってのけた男が、舌の根も渇かぬ内にいけしゃあしゃあと父親面だ。

 なんとも物悲しくも可笑しい、道化そのものだ。

 

 メナシェは黙ってしまっていた。

 この美しい娘に幾度こんな顔をさせれば、気が済むのだろう。

 いっそ、「お前に父親面される覚えはない」なんていいきれた少し前のメナシェのままであれば良かったのだろうか。

 

 けれどいつだって人は過去へ戻れたりしない。

 メナシェをこうしたのはおいらだ。

 

 

「追いかけるぞ、メナシェ」

 

 

 だからせめておいらは笑う。

 道化らしく、おどける。

 

 なりきれていない父親でも、見せられる背中をメナシェに見せる。

 せめてそういう風にしていたい。

 

 屈んで差しのべた腕へ、メナシェが足を伸ばす。

 目の前にあるおいらのことを、どう理解したらいいか迷っているようで、本当は全てを分かってしまっているのかもしれないような、俯いたメナシェはそんな顔をしていた。

 

 おいらは気づいてないふりをして小さな体をおぶさると、地底街の通りへ、駆け出した。

 逃げ出してしまった、本物の歌舞伎者ダリルの物語を追い求めて。

 

 なにが始まりだったかっていえば、この時がそうだったのかもしれない。

 いや、そもそもディディに出会ったあの時から歯車はかっちり食いあっていたのかも。

 

 ともかく道化イサイの終わりの始まりは、こんな風だった。

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