二、騎士ポルパの取り押さえ

 冗談じゃないぞ、くそ!

 

 邪魔な通行人を押し飛ばす。

 ござ売りらしい男は、蹴躓いた拍子に脳天に積み上げていたござの塔を派手に崩落させたが、構う暇はない。

 

 くそ。

 くそ。

 だから僻地になぞ来たくはなかった。

 

 ただでさえ疎ましい細事に関わっていらん神経をすり減らしていたのだ。

 せめてもの慰みに良い外套マントを仕入れた。

 たったそれだけのことだというのに。

 

 地底にも慣れたと思っていたがやはりまともなものではない。

 

 大空洞で生きるものがさも地上の民と変わらぬように暮らしているのはなぜなのか。

 地底にくだるまで腑に落ちることはなかった。

 だが、それを見た時、我輩は事実を心で受け入れるしかなかった。

 

 地上より切実な問題を地底の民が解決したのだ。

 そいつは一体何だと思う?

 

 光だ。

 

 光が無くては地底の生活は成り立たない。

 力を持つものはより強い光を手にし、下につき従う凡百はその恩恵に預かる。

 

 地底に住まうほとんどの者には光源税を払うことが求められる。

 税を全うできなければ地底の空に大光玉が輝くことはないからだ。

 

 ウヴォの地底深くで発掘される鉱石の中でも一際きらびやかなもの。

 それが大光玉だ。

 

 細々と光る鉱石、光玉が発見されたのははるか昔のこと。

 手のひら大のそれでは地底に人が住むことを許すほどの力はなかった。

 

 しかし巨大な光玉が発見されると状況は変わった。

 

 人の背丈ほどもあり、球状のそれは閉鎖的な大空洞に浮き上がって瞬き、四方に鈍い光を振り撒く。

 大光玉の光は熱を届け、植物を育て、風までも生む。

 地底の生きとし生けるものは、大光玉に生かされる。

 

 大光玉は、地底の世界を生かす偽りの太陽なのである。

 地底に住む誰しもがそのことを知っている。

 

 そして我輩にとって重要なことは、この道を行った先にはその大光玉が輝かない、ということだ。

 

 ハヌディヤー通りの行き着くところ。

 そこは、ならず者達の楽園“アムカマンダラ”である。

 

 娯楽の聖地。

 夢の温泉郷。

 眠らない街。

 様々な二つ名で、アムカマンダラは呼ばれる。

 

 ふざけた話だ。

 

 大空洞に人が住み始めた時、アムカマンダラはただの掃き溜めだった。

 

 共同体ジャーチの輪で成り立つ正常な街から弾き出されるような連中。

 罪人や見捨てられた病人、行き場のない放浪者どもに魔族アスラ

 そいつに下劣な皮剥ぎ職人やら竹細工職人なんかが入り交じって、よくある川原者集団ができあがった。

 丁度よく太い水脈も流れ込んだものだから、そういう名前は全くもって的を射ている。

 

 まともな繋がりの内にいる人間がアムカマンダラへ訪れるのは、身内の葬儀に骸を焼き払う時のみ。

 そこに大光玉が据えられることがないのは不思議なことではない。

 

 それが、サチ市の紛争から逃げ込んできた小人ドワッフがぼこぼこと大穴を開けおったおかげで、温水が沸き上がってしまった。

 アムカマンダラは大温泉地帯の称号を手に入れ、途端にこの大都市ウヴォ有数の賑わいを手にしていった。

 

 認めざるを得ない事実だ。

 地底街でありながら異色の勢威をふるう地、アムカマンダラ。

 

 しかしながら彼の地は、未だに悪しき意思の温床であり続けている。

 

 川原者の成れの果て、忌まわしき歌舞伎者ダリル

 彼奴らめが、大挙を成してある種の自治空間を形成し、法の書にない独自の心得で一定の秩序を維持しているのだ。

 

 時が流れてもわざわざアムカマンダラに大光玉を持ち込むような世話焼きが立ち現れないのは、だから当たり前の話である。

 

 歌舞伎者ダリルどもめ。

 たかだかやくざ者がずいぶんと増長したものだ。

 

 地底の最果てでしか息をすることができない奴らは、もはや魔族アスラに近い存在だ。

 地底人、とでも呼んでやれ。

 

 恥も分別もない愚か者が、よもや騎士団百人長カルキジャーチ・バッタの我輩に盗みを働くほど蒙昧とは恐れ入った。

 

 しかし、これはよい機会かもしれぬ。

 我輩は事を捉えなおす。

 

 歌舞伎者ダリルなどと胸を張る連中の時代遅れの武威など、騎士団カルキジャーチの権威の下ではがらくた同然だ。

 そのことをこの身をもって知らしめるべき時に違いない。

 

 騎士カルキたるもの悪に痛烈であれ。

 ウヴォの騎士カルキに共通する号令である。

 

 騎士カルキとしての尊厳を新たに賊徒を探す我が目をさらに光らせんとすれば、後ろを走るとぼけ者の間延び声が霞をかけた。

 

 

「おい、あの姉ちゃんを見てみろよ。たわわなもんがこぼれ落ちそうだぜ」

 

「すげえ」

 

 

 堪忍袋の緒がぷっつり切れるというのはどうやらこういうことだ。

 

 頓馬どもに著しく欠如した緊張を引き締めるにはどうするべきか?

 答えはそう多くない。

 なればやんぬるかな、我輩は振り撒き様、目にも止まらぬ速さで鉄の拳骨を振るった。

 

 鐘を打った様な音が二発、ハヌディヤー通りの狭苦しい天井に響く。

 

 衝撃に震えるのっぽと太っちょを冷たく見下ろすと、怯えた顔でこちらを見上げた若輩どもはようやくことの重さを察したようだ。

 

 

「盗人が見つからねば、次の給金は抜きだ」

 

 

 吐き捨てて、我輩は向き直った。

 

 ぼんくらと脳足りんに割く時間はこれ以上ない。

 “彼奴”を探さねば。

 

 ハヌディヤー通りは、だんだんと闇に向かって溶け込んでいく。

 

 道端の歌舞伎者ダリルの数が、格段に増える。

 同時に、見かける魔族アスラの顔も多くなる。

 

 と、灰色の岩壁が連なるハネディヤー通りを、白いものが遮っているのが見えた。

 

 見上げるほど天高くから吊るされ、凶悪な顔を下にひっつけた垂れ幕のようなもの。

 魔神熊の毛皮だ。

 

 巨人の背丈ほどもある白熊の毛皮。

 吊り下げられもぬけの殻となった無表情な熊の頭は、今にも動き出して我輩を飲み込みそうだ。

 

 乱雑に吊るされるこれは、アムカマンダラの門なのだ。

 

 真っ当な市門など持つべくもない歌舞伎者ダリルどもの地には、この無気力に頭を垂れる魔神熊を入り口として構える。

 恐れるものなど、ない。

 暴力の化身たる魔神熊を下僕とするかのごとき有り様は、その高らかな宣言だ。

 

 できれば、アムカマンダラに入る前に盗人に追いつきたかった。

 

 うらめしい逃げ足の速さに舌打ちをし、我輩は魔神熊の下を潜る。

 ごわごわした壁のような皮を押し退け、その先に広がる別世界の、おどろおどろしい眺めに目を細めた。

 

 背の高い住居棟インスラはなりを潜め、その分開けた上空には靄が広がっている。

 日が落ちたような暗がりの中、その靄は人々の上で七色の発光を伴って漂っていた。

 

 アムカマンダラでは“灯台”と呼ばれる塔が、身に纏った色とりどりの小さな光玉で光をばら蒔いている。

 そして、その光にまとわりつくかのようにそこここから立ち上る温泉の蒸気。

 霞の奥に聳え立つ巨塔がばらまく光の乱舞を受けて、蒸気は極彩色の雲を形成する。

 

 アムカマンダラの雲。

 この斑な色めきを灯す靄は、そう呼ばれている。

 

 歌舞伎者ダリル共は、何処ぞから粗悪品の光玉を集めてきて、薄呆けた黄や俗な薄桃の明かりで灯台を飾り立てた。

 光に見捨てられた闇の世界は、まるで聖なる乙女を堕天させるかのように光玉を安っぽい町明かりへと老け込ませ、穢れた光を放つようになった。

 

 常夜の地底にあって異様な光を放ち続ける娯楽街のできあがりだ。

 

 アムカマンダラの様相はいつだってまともな感覚の持ち主を混乱に誘う。

 

 踏み固められた道のあちこちから石塊が飛び出し、そこに寄り添うように小屋が立ち並ぶ。

 アムカマンダラは屋根なしの地とも呼ばれ、その名の通り家々には屋根が葺かれていない。

 雨の降らない地底ならではの横着だ。

 おかげで中の大騒ぎはこちらまで丸聞こえ、酔っぱらいの大笑いから下手くそな楽士の演奏、家畜の鳴き声、女の嬌声まで混じってがちゃがちゃと耳を責め立てて、魚の焼ける芳ばしい香りと排泄物の臭いの入り雑じった煙は視界を遮る。

 

 道行く者どもは灯台の灯りを受けて闇の住人と化している。

 獣のたてがみを頭に被った歌舞伎者ダリルと、白い体毛を体中に生やした猿人ハヌマンは、そんな薄闇の世界では区別のつけようがない。

 

 奇々怪々が入り交じって誰も彼もが泥酔しきったような光景は、さらながら百鬼夜行だ。

 

 

「ちょっと一杯やるだけだってば。おれのこの外套マントと君の夜会服ドレス、最高に合うと思わない?」

 

 

 叫喚の最中に入り交じって耳に飛び込んできた言葉に、我輩は思わず足を止めた。

 

 ぶつかりそうになった従卒らが倒れ込む。

 それには見向きもせずに、我輩は今しがた声のあった方向を探る。

 

 小屋ともいえない布を貼っただけのちょっとした場所がちょうど光玉を掲げていて、中から人が溢れ返っているのを見るにそこはどうやら飲み屋のようだ。

 明かりの下には話し込む男女が一組。

 

 

「どおしよっかなあ」

 

「いい甘味処も知ってるぜぇ。それとももっと休めるところがいい?」

 

 

 女はどこで拾ったのやら不釣り合いに豪奢な夜会服ドレスを着ていて、男の方は艶やかな天鵞絨外套ビロードマントを纏っていた。

 どちらも張り切り過ぎた歌舞伎者ダリル風情といった様子だが、似たような継ぎ接ぎ集団の人通りの中にあって我輩の目はぴったりとその二人組に据えられた。

 

 男が動くたびにゆらめき、光をちらちらと反射する美しい天鵞絨ビロード

 それは見間違いようもなく、我輩がつい先程まで手にしていた漆黒の外套マントだった。

 

 男は口に団子を頬張りながら、女へにじりよる様にしていた。

 

 

「一口食う?」

 

「いらなぁい」

 

 

 はっはっはっ、と何が可笑しいのか高笑いの男の顔は、頭巾フードを深く被り込んでいてよく見えない。

 

 片手に団子串を三本もひっ掴んでふらつかせていて、もう片手には瓢箪を抱えている。

 外套マントから飛び出た足にひっつけた突っ掛けチャッパルをころころと地面に擦って遊ばせていた。

 

 頭にかっと血がさすのを感じる。

 

 我輩は上っ調子な挙動の男の背中へ歩み寄った。

 男女は我輩に気づく様子もない。

 

 

「食べるか飲むか喋るか、どれかにしたら?」

 

「おれみたいな起用な男はさぁ、食い気も色気もいっぺんにどうにかしたいんだよねぇ」

 

 

 男のふざけた言葉に、夜会服ドレスの女は眉根を吊り上げた。

 我輩は歩みを止めず、腰の曲剣の柄を握り締める。

 男はぺらぺらといらん事まで饒舌にしゃべくった。

 

 

「腹はある程度潤ってきたんで、いよいよ君に声をかけてるってわけよ」

 

「最低」

 

 

 女の声と同時に、ぱん、と乾いた音が響く。

 平手打ちを正面から食った男が顔を背ける形でこちらを向いた。

 

 おそらく鬼の形相であったであろう我輩と、ほんの一瞬目が合う。

 目を見開いた奴は、我輩が剣の柄を引き抜いた瞬間、跳びすさった。

 

 女の夜会服ドレスの裾を切り裂いた我輩の剣は、しかし彼奴の身体を捉え損ねる。

 

 男は道を転げるようになって我輩から離れ、そして腰を抜かして地べたに座り込んだ。

 束の間呆けたようになって、しかし女が甲高い悲鳴をあげると、我に返って頭巾フードをぐいと被り込んだ。

 

 

「ま、真っ二つになるとこだ」

 

 

 上擦った声を上げならがら、男はよろめくように立ち上がった。

 

 

 「危ねえ、危ねえ。おかげで助かったよ、モニカ」

 

 

 声をかける彼奴にも構わず、女は金切り声を上げて刻まれた服の裾を掴み上げ、弁償しろだとか殺してやるだとか喚いた。

 天鵞絨外套ビロードマント姿の奴は、それに怯えた顔をして、しかしなおも団子を口に頬張った。

 

 ぽっこりと懐が膨らんで見えるのは、おそらくあそこに我輩の財布を放り込んでいるためだろう。

 

 

「弁償しろったってよぉ。おれは知らねぇよぉ」

 

 

 そうして奴は、我輩に向かって団子串の切っ先をちらちらと振りながら震えた声を出す。

 

 

 「おっさんの、せいだぜ。急に斬りかかってきやがってよ」

 

「黙れ、盗人! 騎士カルキ相手の窃盗行為、公務の妨害など諸々の罪で、この場で斬り捨ててくれる!」

 

「おいおい。ちょっと待ってくれよ!」

 

 

 怒気を吐き出すような我輩の声に、盗人は困惑した様子で抗議の声を上げた。

 

 が、今更そんなものに耳を貸すつもりはない。

 我輩は目は彼奴に据えたままに、後ろでぼさっと突っ立つ従卒二人を怒鳴りつけた。

 

 

「抜刀!」

 

 

 慌てたうすのろどもが剣を引き抜いた。

 アムカマンダラの宵闇の世界で、往来の有象無象がどよめく。

 

 曲剣の反射する光は、乱痴気騒ぎのやくざ者どもをほんの一呼吸ほど静まらせた。

 

 

「待て待て、ちょいと待ちなって」

 

 

 張り詰めた空気の大通りに、彼奴めがふらふらと前へ進み出た。

 

 

「その光るつるぎはご立派だが、それでずばっとやっちまった日にゃあ、ご執心の外套マントまで無惨な姿になっちまうだろう」

 

 

 男は外套マントのすそをちらりとつまみ上げ、大きな手振りを交えながら一歩、また一歩とこちらへ歩み寄る。

 

 愚かな。

 剣先を突きつけられていながら、あまりにも無防備である。

 今すぐにでも斬り捨ててくれようか。

 

 ところが奴の妖しい気配に、我輩は二の足を踏んだ。

 抜き身の刃を目の前にして、そのふるまいは不気味なほど気安いのだ。

 まずはおれがこの外套マントを脱ぐから云々。

 口八丁で、こちらを丸め込もうとでもいうのか。

 

 ええい、何を迷う必要がある。

 我輩は一喝のもとに奴の言葉を遮った。

 

 

「こそどろ風情が羽織ったものなど、もはや無用だ」

 

「ええ? そうかい? いい外套マントだけどな」

 

「黙れ!」

 

 

 我輩は曲剣をいっそう強く握り締めた。

 

 せいぜい苦し紛れに時間稼ぎをしようというのだろう。

 違いない。

 そのような子供騙しが、よもや騎士団百人長カルキジャーチバッタに通用すると思うてか。

 

 目尻を険しく吊り上げた我輩の様子を、彼奴はしばし立ちすくんだ様子で見ていた。

 しかしどうにも、その表情は深く被った頭巾フードで伺えない。

 

 周囲にはすでに人だかりが出来始めている。

 連中は喧嘩騒ぎの見物と決め込んでいるようだ。

 愚かな歌舞伎者ダリルらしい気楽さだと、その野次馬根性に辟易する。

 

 

「やるってんなら、しょうがねぇなぁ」

 

 

 掠れたような声に視線を戻すと、彼奴は外套マントの裾で口を拭っていた。

 団子串をそこらに投げ捨てて、そして口元を不敵に歪めた。

 

 笑っている。

 

 こやつ、かような段になってこの上笑っていられるのか?

 獲物も持たぬまま、剣を構えた騎士カルキを相手に、その余裕は一体どこから来る?

 

 武器を隠し持っている可能性はある。

 もしくは仲間がこの野次馬に紛れ込んでいるか。

 百人長バッタとしての経験則が警鐘を鳴らし、あらゆる危険性が頭に浮かべて、猪の牙のように構える攻めの剣を上段から後手に合わせる見張りの構えへと移した。

 

 その時だった。

 

 ひっくと、盗人がしゃくり上げて肩を揺らした。

 ぐらりと上体を泳がせた盗人は、瓢箪を眺めると、驚いたように目を見開いた。

 

 

「なんだ、これ。施療用の酒じゃねえか」

 

 

 呂律の怪しい口で、彼奴はいった。

 そしてその場で一歩、また一歩と右へ左へ足をもつれさせる。

 

 我輩は思わず息を止めた。

 

 この男、この男は、酔っている。

 小馬鹿にしたような態度にも、自信ありげな立ち振舞いも、ただ酒酔いから来る気の大きさに過ぎないのだ。

 

 気づけば呆けたように空いてしまっていた口を、我輩は奥歯に力を入れるように閉じた。

 

 この愚物を、とっとと斬って終いにしよう。

 我輩は改めてそう反芻する。

 これ以上、少しの時間も惜しい。

 

 ふらふらとよろける彼奴を見定め、柄を一度握り直す。

 我輩はすっと息を吸うと、力強く地面を蹴った。

 

 数歩ばかりの盗人との距離を、軽やかな足捌きで一気に詰める。

 彼奴がはっとしたように顔をあげた時には、我輩はすでに剣を降り下ろしていた。

 

 びゅっ、と剣が風を引き裂く。

 

 が、一刀の元に斬り捨てたのは、濁った空気だけだった。

 

 

「危ねえっ」

 

 

 後ろで、彼奴が悲鳴を上げていた。

 

 掻い潜ったのか、我輩の剣を。

 いや、這いつくばるような姿勢を見るに、運良く何かに蹴躓いたようである。

 

 悪運の強い奴だ。

 だがそんなまぐれは何度も続かぬ。

 よろける奴の方を振り向き様、我輩は次の一刀を打ち込んだ。

 

 男は悲鳴を上げてさらによろけた。

 小生の一薙ぎは、体勢を崩して反り返った奴の身体を掠めるに終わる。

 

 うぬ、ちょこまかと。

 

 

「ああっ、酒が!」

 

 

 右足を大きく踏み出した渾身の突きは、奴の手に持った瓢箪をかつんと突き刺した。

 がしかし、奴自身の身体へは紙一重で届かない。

 

 盗人は、天鵞絨ビロードをはためかせながら揺り籠のように千鳥足だ。

 

 おかしい。

 なぜ、当たらない?

 

 乱れた足どりでさまよう盗人は、腹の出た従卒の方へとよろめいていった。

 

 無防備な盗人の背中。

 今週の給金。

 我輩の剣幕。

 色々なものが従卒の脳裏を過ったのだろう。

 

 太った従卒はいきんだ顔をして、目の前の無防備な男へ剣を振り上げた。

 大きな気合いを発したはいいが、それは踏んだ場数の少なさを声高に叫んだようなもので、太っちょは力みまくってもはや目まで閉じてしまっていた。

 

 盗人の身体がまたあらぬ方向へぐらりと揺れる。

 が、若い従卒がそれを見ることはない。

 

 あらん限りの力の込めた太い腕が、何もない空間へと思いっきり剣を降り下ろされた。

 

 がつっ、という音と共に地面に刺さった剣に突っ掛かって、丸い身体が地面にひっくり返る。

 派手な音に、ようやく盗人は従卒を認識したと言うように振り向いた。

 

 

「おや平気か」

 

 

 なにをしているのか。

 

 盗人は、信じ難いことに転げた従卒の方へ身を屈めた。

 太っちょが思わず差し伸べられた手を掴もうとする様子は、もはや喜劇のそれだ。

 

 間の抜けたものを見ながら、我輩は浅く息を吸った。

 

 それほどまでにこの男は泥酔している?

 だとすれば、曲芸のような身のこなしは、全て偶然の産物ということになる。

 そうでないとしたら?

 わざと、隙を見せているとでもいうのか。

 

 いずれにしろ、その屈み込んだ姿勢で斬りかかられれば逃げ様がない。

 今だ。

 

 我輩は、もう一度息を短く整えて迷いを追いやると、先程よりも鋭く踏み込んだ。

 今度こそ、斬る。

 

 背中を丸める盗人へ、我輩の曲剣がうなりを上げる。

 右手から斜めに一閃。

 刃が風を割いて走る。

 

 捉えた。

 確信があった。

 手応えだけがなかった。

 

 一瞬、何が起こったか分からなかった。

 

 奴は目の前から姿を消していて、我輩の剣はまたしても空を切った。

 望んだ手応えも成果も得られなかった。


  そう頭が理解してすぐ、あたりを見まわす。

 

 振り向くと、黒い天鵞絨がさきほどまで我輩がいた場所ではためいていた。

 それが奴の後ろ姿だと、我輩は三度みたび瞬きをしてからようやく思い至った。

 

 なぜ?

 どうやって?

 唖然となることもうひと瞬き。

 が、盗人の手に角の装飾の付いた兜が抱えられているのを見て、我輩は我に返る。

 

 我輩の兜が、無い。

 

 あら、まあ、などといって、盗人は阿呆のように兜を見ていた。

 意図せず拾ってしまったとでもいうような具合に目をしばたかせている。

 

 驚きたいのはこちらの方だ。

 我輩は最早わけも分からずに立ち尽くすしかなかった。

 他にどうしろというのだ?

 我輩は狸に化かされたように自分の頭を触って、それから奴を見てというのを繰り返した。

 

 

「すまねぇ、手癖が悪いもんで」

 

 

 ついと兜がこちらに差し出された。

 我輩は思わずそれに剣を向けた。

 

 無意識のうちに後ずさり、なけなしの理性が敵を遠退かせようとしたのだ。

 驚きに打たれて頭は真っ白だった。

 

 我輩の様子を見て盗人は手元の兜に視線を戻すと、ぶつぶつと呟いた。

 

 

「なに、いらない? しかしな、貰っても困る。騎士カルキの帽子なんかさ。頭に角を生やす趣味はないしな。どうしたもんだか。いや、待てよ。帽子か。帽子とくればおひねり。相場が決まってらぁな。よし、そうと決まれば話は早い」

 

 

 やがて彼奴は外套マントを翻すと、大袈裟な手振りで野次馬に大声を張り上げた。

 

 

「さあさあ、見世物ってのぁタダじゃない! それがしの名人芸に技有りと思えば、心づけはこちらまで! 愉快な催しを見ておいて駄賃を踏み倒す野暮は、アムカマンダラの歌舞伎者ダリルじゃないだろう?」

 

 

 競売人さながらの大袈裟な抑揚で言い切ると、彼奴はなおも芝居掛かった優雅な仕草で兜を地べたに置いた。

 極めつけとばかりに、誘うように手を広げる。

 

 途端に、通りは沸き立った。

 

 どう、と耳を奪った地響きのようなものは、見物人共の歓声だった。

 唸り声を上げる歌舞伎者ダリル、吼え猛る魔族アスラ、興奮して野次る酔っ払い。

 銭を兜へ投げる者、指笛を鳴らす者、足を踏み鳴らす者。

 

 御輿行列が降って沸いたような、お祭り騒ぎである。

 

 ひっくり返った方も、棒立ちの方も、従卒は二人してすっかり縮み上がっていた。

 目つきの悪いやくざ者やら大柄な象首ガネシャやらが周囲を取り囲んで騒ぎ立てれば誰しもそうなる。

 我輩とて例外ではない。

 

 狙いはこれか。

 

 睨み上げた天鵞絨外套ビロードマントは相変わらず頭巾フードを深く被っていて顔色が読めない。

 ふらふらと小生の被り物に投げ込まれた黄林檎へ歩み寄り、食い物を投げるのはご勘弁、などと口走る。

 しかし群衆はもはや奴の小言などに貸す耳もない。

 

 

「食べ頃にゃいま一歩だな」

 

 

 黄林檎をかじって男は顔をしかめる。

 

 我輩はゆっくり剣先をその横顔へ向けた。

 ここで引き下がる訳には行かぬ。

 かような不埒者に敗れてなるものか。

 忌まわしき歌舞伎者ダリルめ。

 

 もはや意地のようなものだ。

 そういうことが辛うじて我輩を踏みとどまらせている。

 

 頭の中は、恐怖を緩和させるために身体がそうするのか、霧がかかったようにぼんやりとしていた。

 視界の隅で三つ目バガラムキが数人でどんどんと足を揃えて踏み鳴らした。

 耳障りなその音は、やがてがんがんと反響する耳鳴りと化してゆく。

 

 盗人に据えた剣が、震えていた。

 

 どうすればいい? 

 そうだ。

 足運びは右足から、そして呼吸は深く……。

 痺れたようにぼやけた意識を、歯を食いしばって繋ぎ止める。

 なんとか、息を吸う。

 

 我輩は吠え猛った。

 得体の知れない恐怖を払いのけるように。

 

 顔にむわっと上がってきた熱をそのままに、投げ出すようにして突進させた身体に任せて、我輩は剣を振り上げる。

 

 彼奴がこちらに向き直ったのが見えた。

 

 ふと、我輩の頭上に向かって彼奴が黄林檎を放った。

 降り下ろされた剣先に、それがぶつかった手応えが伝わる。

 それにも構わず、我輩は盗人に向かって剣を降り下ろした。

 

 刹那、奴がこちらに迫った。

 ……分かったのはそれだけだった。

 

 身体が、意図しない方向へ導かれていく感覚があった。

 見えざる手が、我輩の手足の周囲を支配していて、我輩はそれにどうしても逆らえない。

 一度の瞬きのごとき時間で、そういう気分になったことだけ覚えている。

 

 気づけば固い地面に転がっていて、見えるのは波打つアムカマンダラの雲だけとなっていた。

 

 

「何から何まで、すまねぇな」

 

 

 盗人の声がした。

 我輩は定まらぬ視線を向けた。

 

 砂埃の向こうで、濡鴉のように艶やかな天鵞絨ビロードが見えた。

 盗人は手にもっているものにかぶりついた。

 盗人の手には、ちょうど手頃に切られた黄林檎があった。

 

 大歓声が、上がった。

 

 愕然とする我輩をごろつき共が見下ろしていた。

 宙を物が飛び交う。

 見物人共の騒ぎ立てる音で聴覚は奪われ土煙が視界を奪っていった。

 

 もはや前後不覚に陥っていた。

 

 地獄の果ての、悪魔の群れに放り込まれた気分だ。

 頭から血の気が引いていくのを感じた。

 同時に意識を遠退くのを覚え、そうしていると記憶の奥底の言葉が脳裏に甦えった。

 

 あれはまだ、我輩が能天気な従卒身分でいられた頃。

 売女に鼻の下を伸ばしている横で、当時の先達が忌々しげに呟いたのだ。

 

 

「やつらめ、まるで踊り子のように自在に歌い踊ってみせる。器用な連中だ、“歌舞伎者ダリル”ってのは」

 

 

 そうだ。

 

 歌舞伎者ダリルはその格好の珍妙さだけが実態ではない。

 かつて連中は道ばたで突飛に音楽や興行を催した。

 面白おかしい茶番を演じ、楽器を演奏して歌を歌い、見世物を披露した。

 

 僧会の聖典を茶化すがごときそれらの行いは少なからず排除されようとしたが、それでも決して公人に迎合しようとしない派手なふるまいは人々の注目をさらった。

 風のように現れ、通りに乱恥気騒ぎの旋風を巻き起こして、また風のように姿を眩ます。

 花嵐のような歌舞伎者ダリルがかつてこのウヴォには存在した。

 

 そうしてこの盗人は、絶滅したはずの歌舞伎者ダリルの生き残りなのだ。

 

 我輩はその槍玉に上げられた。

 見世物の道具にされ、玩具のようにあしらわれ、こうして好奇の目に晒されている──。

 

 胸の内の器官がぽき、と挫かれた気がした。

 限界だった。

 

 我輩は走った。

 

 覚束ない足取りで人垣を押し退け、囲いを飛び出した。

 景色が水分でぼやけていてそれなのに息をするのも苦しいくらい喉が渇いて張りつくようだった。

 

 後ろで、従卒共が我輩の名を呼んでいた。

 我輩は振り返らなかった。

 とにかく来た道を駆けた。

 一刻も早く、アムカマンダラから出るべきだった。

 

 しばらく走るうちに集団の歓声が遠くに感じるようになったがそれでも足を止めなかった。

 

 くそ。

 くそ、くそ、くそ。

 許せん。

 絶対に許さん。

 

 恐怖が収まるよりも早く身を焦がすような憎悪が頭を支配していく。

 

 あの男、必ず捕まえて首を落としてやる。

 必ずだ。

 市中引廻しか、磔にしてもいい。

 なんもしてもこの屈辱を晴らしてくれる。

 

 歌舞伎者ダリルだと? 

 そんな存在を許すわけがあるか。

 許されるわけがあるか。

 我輩を、誰だと思っている。

 

 あの外套マント頭巾フードのせいで、身なりや顔つきが分からなかったのは悔やまれた。

 しかし、我輩は見た。

 

 灰色の瞳。

 最初の一瞬、目を合わせたあの時覗かせた瞳。

 

 我輩は真一文字に結んでいた口をこじ開けると無理矢理笑わせた。

 大丈夫だ、奴を追い詰めることはできる。

 

 道はハヌディヤー通りに差し掛かっていた。

 通りは騎士団カルキジャーチの詰所に近いシバ市の門まで真っ直ぐ伸びている。

 ここであれば聞こえるはずだ。

 

 小生は剣の鞘の反対側にかけられたものに手をあてた。

 

 覚悟しろ、歌舞伎者ダリル共め。

 誰を相手にしたのか、思い知らせてくれる。

 

 かくして我輩は、その角笛を高らかに吹き鳴らした。

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