七月十八日
「本当にいいんだな」
念を押す俺に、彼女はしつこいよと口を尖らせた。
「なんでそんなに聞くの」
俺はぐっと押し黙って言葉を考える。通院当日の朝、彼女はとっくに朝食を食べ終わっていて、俺はもうこれ以上喉を通らないトーストを恨めしく見つめていた。
「なんでそんなに平気なんだ」
「うーん」
彼女は呑気な声を出す。
「もう、決めたから」
「俺は、恵実に自分をだいじにしてほしい」
「してるよ」
「重大な決心だろ。子宮全摘出なんて」
「彩人には関係ないじゃない」
はじめて、彼女の声が乱れた。食器を持って立ち上がった彼女の背中は、小さく震えていた。
「ただの同居人から子宮がなくなろうと、関係ないじゃない」
子供欲しくないんでしょ、ちょうどいいじゃない、と詰るようなその言い方に、違和感を覚えた。
「恵実は――子供、欲しいの」
「彩人がいらないなら、いらない」
俺はトーストを放り出して立ち上がった。彼女は動かなかった。重ねた食器を持ったまま、一歩も動かなかった。
「恵実がその選択をして、心も体も本当に元気になれるって言うんだったら、それはそれでいい。でも」
彼女の前に回り込む。食器を取り上げてダイニングテーブルに置いた。
「その選択をするのが、さっさと終わらせるためだったり、俺に迷惑を掛けないためなんだったら」
そのまま彼女の濡れた頬を拭って、それから彼女の頭をぐいと自分の胸に引き寄せた。
応援できない。
「恵実の子供なら、俺は確実に愛せるんだろうな」
子供は苦手だった。五月蝿いだけだと思っていた。理屈も常識も通じない。自由も金も奪われる。
「恵実のために、自由と金を犠牲にする生活が、こんなに幸せだとは思っていなかった」
好きな人の幸せを一生懸命考えることが、こんなに幸せだなんて。
俺は彼女の髪をゆっくり撫でて、それからうなじ、肩、背中へと自分の手を滑らせていった。彼女は自室のベッドに運ばれた夜と違って、かちかちに固まっていてなかなか俺に身を預けてはくれなかった。彼女の手は、食器を持っていた高さのまま俺と彼女の体の間に挟まれていた。俺は少し体を浮かせると、その手を取って自分の背に回した。
彼女はぽつりと呟いた。
「本当は、子供欲しいよ。でも、彩人がいらないって言ってたから。子供いずれ産みたいって言ったら、恋人候補から外れると思って」
彼女が俺と同様に子供を作る気がない人間だと認識したのは、大学時代のはずだった。
そういうことは早く言ってほしいな、なんて言ったら自分のことを棚に上げてと怒られるのは目に見えていたのでやめた。
俺は華奢な彼女の背を目一杯抱き締めて、彼女の耳元で、ふたりきりの部屋だけれど、彼女にだけ聞こえるように、好きだよと囁いた。
遠慮がちに俺の背中に手を添えていた彼女は、じきに俺のシャツを引っ張るようにぎゅっと掴んだ。押し殺していた嗚咽が、少しずつ漏れ聞こえてきた。病院の予約には遅刻だな、と思いながら俺は彼女の背を撫でていた。
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