エイネが風呂から上がり廊下に出ると、一匹の猫がまるで待ち構えていたかのように立っていた。

 この猫が案内をするつもりらしく、ひと鳴きしてついてくるよう促している。

 ついて行くと目的地である食堂へと辿り着いた。

 食堂ではソラが席に座って待っていた。婦人の姿は、食事を持ってくるためか見当たらない。

 それが却って、ソラといることを気まずくさせていた。


「どうしたのエイネ? なにかあったの?」


 ソラはエイネの変化にはことさらに敏感だ。

 ちょっとでも暗い顔をしようものなら、顔を覗き込み、心配した表情で見つめてくる。今がまさにそれだ。

 エイネは咄嗟に顔を背ける。それが精一杯の行為だった。


「どうしたの? ねぇってば」


 不審がったソラは、何度も声を掛ける。

 それに対してエイネは体ごと見ないようにしたため、終いには肩を揺らし始めた。


「放っておいてよ!」


 堪えられず、エイネは気がつくと叫んでいた。

 直後、後悔した。

 慌てて振り向くと、涙をポロポロと溢すソラの姿があったのだ。


「ご、ごめんね。私は大丈夫だからさ」

「……どうして?」


 ここで漸くエイネは、ソラが悲しみだけで涙を流しているのではないと気がついた。肩を震わせているソラは、怒ってもいるのだと。


「ねぇ、どうしてそうやって何かを隠すの? ボクが子供だから? ボクじゃ何も出来ないから?」

「違う……違うわソラ。私はただソラに笑っててほしくて」

「エイネが笑ってないのに笑えるわけないじゃん!」


 ソラの言葉が、エイネの心に深く突き刺さる。反論の余地もない。


「ソラ、ごめ――」

「もう知らない! エイネのことなんか知らない!」

「あっ! 待ってソラ!」


 呼び止めるよりも先に、癇癪を起こしたソラは食堂から出て行った。

 丁度その行き違いに、婦人が食堂に入ってくる。婦人の顔はきょとんとしており、状況が呑み込めていない様子だ。


「何かあったの?」

「あ、ええと、その……あはは……」


 笑ってごまかすには少々無理があった。そもそも笑いを作ることさえ出来ないほどに、エイネの心は傷ついていた。

 エイネは仕方なく、事の経緯を婦人に話した。


「な、なるほどねぇ……」


 すると話を聞いた婦人は、あからさまに顔を反らした。


(まったくあの人は……)


 苦笑する婦人の一方、エイネは沈んだ顔で床を見ていた。


「どうしたらいいんですかね……?」


 初め、この問いが何を意味しているのか婦人はわからなかった。

 が、理解すると顔を伏せて逆に問い掛けた。


「エイネちゃんは、どうしたいの?」

「私は……」


 ソラが叫んだことが、エイネの頭から離れない。

 エイネは考える。その言葉の意味を。その言葉の先にある未来を。ソラのために何をするべきなのかを。


「私はソラと一緒にいたいんです。出来ることなら、ずっと一緒にいたい」

「そう、じゃあ――」

「でも……でもわからないんです。それが、ソラのためになるのかが」

「……なるわよ。なるに決まってるじゃない。だってソラくんは、エイネちゃんのことが大好きだから」


 大好き――その言葉が、エイネの胸をより締め付ける。


「お互い一緒にいたいのなら、答えは簡単だと思うのだけど。エイネちゃんは何をそんなに悩んでいるの?」

「わかりません。わからないんです」


 エイネは自分の悩みの正体に気づいていなかった。一体何故こんなにも不安で胸を締め付けられているのかが。

 答えは本来単純であるはずなのに、何故かその答えを拒んでいる。本来心を持たぬという使い魔故の弊害なのか、それとも自分は彼の母親の代わりにすぎないという思いからか。

 どちらにせよ、エイネが答えにたどり着くまでに時間が必要なのは明白だった。


「そう……まあ時間はまだあるのだし、答えはあなたが考えることよエイネちゃん。それよりも」


 見かねた婦人は笑うと、俯くエイネに大きな鍋を渡した。それは少し前に婦人が持ってきたものだ。中には手作りのスープが入っている。


「はい! まずはソラちゃんと仲直りしないと。これ持って行って!」

「え? あ、あの」

「一緒に美味しい物食べたら、いつの間にか仲直りしてるものよ」

「いや、でもこれ」

「あ、お鍋のことなら気にしないで! 明日取りに行くから」


 有無を言わさず、強引に鍋を押し付ける婦人。

 戸惑いながらも鍋を受け取ったエイネは、自然と漏れ出るスープの匂いを嗅いでいた。


(あ……これ、すごく懐かしい匂い……)


 思わず目を細めるエイネ。婦人の手料理は初めてのはずだが、このスープの匂いは初めてのものではないように思えた。


「さ、早くソラちゃんのとこに行ってあげて? きっとお腹空かせて待ってるから」

「あの……ありがとうございます」


 エイネは軽く頭を下げた。


「いいのよ」

「あの、明日は夜一緒にご飯食べましょう。今度は私がご馳走しますので」

「あら、それは楽しみだわ。じゃあそのためにも、ちゃんと仲直りしてね?」

「はい。それじゃあ」


 もう一度頭を下げると、エイネは足早に部屋を出て行った。


「だって、あなたたちに喧嘩は似合わないもの」


 エイネの背中を見送った婦人は深いため息とともに呟いた。


「全くあなたがいらないこと言うから二人に亀裂が入るところだったじゃないの。しかも、いらないこと言っちゃったぁ、なんて半泣きになりながらスープ作るだけ作ってさっさと出て行くなんて」


 一人愚痴を漏らすとベル婦人も部屋を出ていく。その際彼女は一言口にした。「今度会ったらお説教よ、ヴェルティナ」と。





 エイネが屋敷を出る頃には、雨はすっかり止んでいた。雲の隙間から覗く月が地面を照らしている。

 エイネは帰りながら、ソラにどう声を掛けようか考えていた。こんな風に喧嘩をしたのは初めてだ。どう接すればいいのだろうか、と。


「そんなの、私が謝ればいいに決まってる……よね」


 程なくして家に着いた。が、明かりは点いておらず暗闇に包まれている。

 かろうじて射しかかる月明かりを頼りに、居間のテーブルに鍋を置いた。そして燭台に火を付け、それを手に二階へ上がっていく。


「まさか部屋にもいない、なんてことはないよね?」


 不安になりながらも、エイネはソラの部屋の前に立ち、扉をノックした。


「ソラ? いる? 入るわよ?」


 扉を開いて部屋の中を照らし、エイネは安堵の息を吐いた。部屋の隅で毛布に包まって蹲るソラの姿があったからだ。


「ソラ、ごめんね」


 エイネは近づき、ソラの前で屈んだ。

 しかしソラは蹲ったまま顔を上げようとしない。ただ、時折鼻をすする音が聞こえることから、泣いているのがわかる。


「ねぇソラ? ねぇってば。おーい」


 エイネが何度呼びかけても、ソラは反応を示そうとしない。


(どうしたものかなぁ……)


 ここまで頑なな態度を取るソラは初めてだった。

 エイネはどう接していいのかわからず、無言になる。

 静寂が部屋を包み込んでいく。暗雲が立ち込む中、エイネは次第にこの空気に耐えられなくなっていた。


「しょうがない」


 そして堪えきれずに彼女が取った行動は――。


「そんなに不貞腐れている子には……こうだ!」


 これでもかと脇腹をくすぐる事だった。


「ふぇ? な、なに? ちょ、ちょっと!」


 これには堪らず顔を上げるソラ。


「やめ……っ! ははっ、く、くすぐったいよ!」

「うりうり、もっと笑え笑え-!」

「あは、あははは! や、やめて……! やめてぇっ!」


 エイネの手から逃れようとするソラ。だが出来るはずもなく、されるがままに足をバタつかせて笑い声を上げた。


「ひひっ……く、苦し……っ! お、お願いだからもうやめ、やめてってば……っ!」


 掠れた声を聞き、ようやくエイネは手を止めた。

 ソラがぜぇ、はぁと息をしている一方で、エイネは満面の笑顔でその様子を見ている。


「むぅ……ボクは怒ってるんだよ?」


 頬を膨らませて、そっぽを向くソラ。顔は少し赤くなっている。


「うん、ごめんねソラ」


 エイネはそっと頭を撫でた。

 ソラは少し俯いた。表情は暗く、申し訳なさそうに口を結んでいる。


「ボクも……ごめんなさい……」

「別にソラは謝らなくていいのに。悪いのは私なんだから」

「ううん。だってわかってるんだもん。エイネは、ボクに心配をさせたくないんだって。なのにボク、あんなこと言ったから……エイネのこと、傷つけちゃったから……だから……っ」

「もう、泣かないの。ソラは何も悪くないの。悪いのは全部私なんだから」


 次から次と溢れるソラの涙を、エイネは指で拭った。


「でも……」

「ほら、一緒に美味しいご飯食べよ? それでもう全部終わり! ね?」

「う、うん……」

「ほらそんな顔しないで? 私はソラの笑ってる姿が大好きだって言ったでしょ? だから笑ってよ」


 そう言ってエイネは手を出す。


「うん……ありがとう」


 少し笑うと、ソラは差し出された手を握った。

 そのまま二人は手を繋いで食卓に向かった。

 冷めてしまっていたスープを温め、皿に盛り付け、テーブルの上に並べる。


「美味しそう……」


 スープを見て、ソラは言った。

 食事の前の祈りを捧げた後、エイネは微笑む。


「じゃあ食べよっか?」

「うん!」


 匙を取るとソラはスープを頬張るように次々口に入れた。


「どう?」

「うん、すごく美味しいよ! エイネもほら!」


 促されて、エイネもスープを一口飲む。


「あ……」

「ね? 美味しいでしょ?」

「うん、美味しい……」


 微笑んで答えると、エイネはスープを見つめた。


(懐かしい味……)


 遠い日のことを思いだしながら、エイネはもう一口飲む。


(そっか……あの人、今日来てたんだ。だからベルさん、あんなこと……)


「少しくらい、顔見せればいいのに」

「ん?」

「ううん、なんでもないの。さ、沢山食べてソラ」

「うん、沢山おかわりする!」


 余程お腹が空いていたのか、はたまた美味しいスープ故なのか。新たに皿に盛っては、瞬く間に平らげていく。

 そんなソラの様子を眺めながら、エイネもスープを口にする。ゆっくりと、スープの味を噛みしめて。


(ありがとう……わたしの大好きなもう一人のお母さん……)


 食事を終えて、エイネは自分の部屋で横になっていた。いつもならすぐに眠っているのだが、あの懐かしい味のスープのおかげでしばらく眠れそうにない。

 天井を呆然と見つめていると、部屋の扉が開く音がした。

 扉の方を見ると、眠そうな目を擦りながらソラが立っていた。


「どうしたの?」


 体を起こし、ソラの顔を伺う。


「エイネ……一緒に寝よ?」


 エイネは暫し間を置く。


「いいわよ。ほらおいで」


 ソラを自分のベッドの中に招いた。


「もしかして、一人で寝るの怖くなった?」


 エイネはなんとなく少しからかってみる。


「違うもん……今日は一緒に寝たいの」


 躊躇いもなく、ソラはエイネの隣で横になった。

 こうして二人で寝るのも久しぶりかもしれない。そんなことを思いながらエイネは、ソラの顔を見る。


(ほんとこの子、かわいい顔してるわよね……)


 ソラの顔は、まるで少女と見紛うほどに愛らしいものだ。見ず知らずの人に聞けば、半数以上が性別を「女の子」と答えることだろう。


(将来大きくなったら、あの人みたいなとびきりの美人さんになったりして)


 冗談混じりに将来のソラを想像すると、真っ先に浮かんだのは母親ヴェルティナに瓜二つの姿だった。

 と、そのとき、「ねえねえ」とソラが囁くように微かな声で言った。


「エイネは長い間、お母さんと暮らしてたんだよね?」


 エイネの胸が驚きで弾んだ。


「まあ、ソラよりは長い……かな。急にどうしたの?」

「うん。お母さんってさ、どんな人だったのかなって」


 母親に関することをソラは今まで聞いてこなかった。故に、エイネは少し悩んだ。どう答えたらいいものかと。

 ソラの母親のヴェルティナはとにかく不思議な人間であった。何年経っても衰えることのないその美貌は、人間ではないのではないかとさえ思えてしまう。なにより、ほかの人間とは違う何かを感じるのだ。

 そのことをどう伝えたものかと考えて、ソラの顔を見て、エイネは少し笑った。


「そうねぇ……変わった人だったわよ」

「変わった人?」

「そう、いつもなにかと話をしていたわ。動物だったり、植物だったり、時には吹いている風にも話しかけていたかしら」

「確かにそれは……変わってるね……」


 ソラの表情が僅かばかり曇った。自分もまた同様なことをしていると理解しているのだ。

 それでもエイネは言葉を続けて笑った。


「そしてなにより、とても優しかったわ。私が出会ったどんな人よりも」


 エイネは優しくソラの頭を撫でる。その心地よさに、ソラは目を細めた。


「あまりソラが満足のいく答えじゃなかったかな? ごめんね」

「ううん、ありがとう。そっか、お母さんは優しかったんだ」


 撫でられながら、ソラは母親の面影を思い浮かべた。姿形だけの、顔のない面影を。しかしその面影はすぐに一人の少女に塗り替えられた。今目の前にいる、自分にとって最愛の人である少女に。


「でもボクにとってエイネも大切なお母さん、だからね?」


 ソラの言葉に、エイネは胸を撃たれたような痛みが走った。

 自分はソラに母親であるかのように接してきた。だが自分は彼の母親ではない。母親にはなれない、なってはいけないのだと常々思ってきたからだ。


(そっか、この子は私のことをずっとそんな風に)


 言葉が出なかった。嬉しいはずなのに、なぜか言い様のない不安と己に対する嫌悪が生まれた。揺れていた。もうすぐ消えゆく命、すでに一度は潰えたこの命をこれからも未来に繋げていくべきなのだろうかと。

 答えはすぐに出なかった。


「そっか……うん、そっか」

「エイネ?」

「ううん、なんでもない。さ、もう遅いわ、寝ましょ?」


 部屋の明かりを消して、エイネもソラの隣に横になった。

 静寂が二人包み込む。あるのは僅かばかり窓から射す月明かりのみ。

 ふと、ソラがゴソゴソと動き、エイネの方を向いた。


「ねえ、エイネ。あれ、久しぶりに聴きたい」


 ソラの言うあれとは、赤ん坊のころからよく聴かされていた歌のことである。エイネはこれを子守歌代わりによく聴かせていたのだ。


「ふふふ、今夜は甘えん坊さんね」


 エイネは笑った。


「むぅ、嫌ならいいけど」


 と、ソラが言い終わるよりも先に、エイネは歌を口ずさみ始めた。


――眠る顔を眺めて


――人知れず温もりを感じた


――ずっと一人歩いてきたつもりだった


――でも気がついたの


――瞼を閉じて思い出してごらん


――きっと気がつくはずだから


――ねえ ほら 星を見て


――あなたは一人じゃない


――あの瞬く星がきっと見守っているから



 この歌がどこで生まれたものかはエイネも知らない。一体どこで聴いてなぜ知っているのかも思い出せない。

 それでも、彼女もまたこの歌が好きだった。綺麗な旋律と誰かを鼓舞する歌詞ながらも、どこか切ないこの歌は、まるで何かを憂えているようにも、何かを求めているようにも感じさせる。

 不思議と安らぎを与えてくれるこの歌とエイネの透き通るような歌声を聴きながら、ソラはいつしか眠りに落ちていた。

 ソラが眠ったことに気がついたエイネは、そっと彼の髪を撫でる。


「おやすみ、私の大好きなソラ」


 エイネは額に口づけすると、自分もまた眠りにつくのであった。







 暗がりの部屋の中に一人の男がいた。

 蝋燭の火が周囲を淡く照らし、部屋の中を照らし出す。壁には塗料を塗りたくったようのに赤く染まっている。床も同様で、まだ生乾き状態だ。付着しているのは血液。血みどろの部屋、とでも言えば良いだろうか。

 この血みどろの部屋で男は何かに向かって作業をしている。


「くそっ……!」


 男が突然叫び、テーブルを叩く。


「足りない……まだ足りない……あれを動かすには……あれを完全なる存在にするにはまだ足りない!」


 男の目は狂気に満ちていた。顔には返り血が付着しており、作業をするテーブルの上には四肢を捥がれた子供の遺体が横たわっている。

 男は真紅に染まった小さな心臓――ではなく、魔力を貯蓄するための器官を手にしていた。切り離されても魔力がある限り動く器官であるため、まるで心臓が脈打つようにそれは蠢いている。


「だが、もう仕入れるための資金も無ければ伝手もない」


 呟くと何かを思いついたのか、男は不気味な笑みを浮かべる。


「だったらこの街にいるガキどもを餌にすればいい。そのために温存していたんだろうが」


 我ながら良い考えだと言わんばかりに、男はくつくつと笑い出す。次第に声量が変わり、大きな笑い声へと変貌する。

 男の笑い声は扉を超えて、暗がりの廊下にまで響き渡っていた。




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