第二節 揺れる想いと動き出す運命





 婦人のお呼ばれに応じ、エイネとソラは屋敷にやってきた。外に出た頃にはもう雨が止んでおり、雲の隙間から月が顔を出している。

 二人が再び雨に打たれることなく屋敷にたどり着くと、玄関先で婦人が首を長くして待っていた。


「えと、お邪魔します」

「はーい、いらっしゃい」


 今日ここへ来るのは二度目。一度目は朝、りんごのジュースを分けてもらいに。そして今、お風呂に入るためにである。

 この婦人には以前からお世話になっている。働くことが出来ない身であることから経済的な支援も受けていて、正直この人には頭が上がらない。

 故に、ここまでお世話になってもよいのだろうか。そうエイネは思った。本人に言っても「全然気にしなくてもいいのよー?」と、のほほんとした顔で返されそうだから言わないが、エイネは一言謝りたかった。


「あ、そうそう。ご飯も食べてくわよね?」

「え? いや、あの、さすがにそこまでは」

「でもお風呂に入って戻ってから用意してたら遅くなっちゃうわよ?」


 婦人の言う通りだった。もし入浴後に帰宅し、夕食を作っていたら、普段よりも遅い時間になってしまう。しかし、さすがに夕食までご馳走になるのは申し訳ない。

 エイネは唸るようにして頭を悩ませる。


「それに私、普段は一人で食べてるから、たまには誰かと食べたいのよ」


 婦人は何故か大きい屋敷に独り身で住んでいた。恋人や夫がいるわけでもなく、屋敷内にいるのはペットの猫たちだけ。幾ら猫たちがいるとは言え、彼女が人恋しくなるのも当然と言える。


「ね? いいでしょ?」


 入浴に招待した時と同様、婦人はエイネの顔に自分の顔を近づけた。


「じ、じゃあお言葉に甘えてもいいですか?」

「ええ勿論よ! どーんと任せなさい!」


 終始婦人のペースに呑まれている気がする。そうエイネは苦笑して婦人の後に続いた。

 屋敷の中は少し薄暗かった。灯されている明かりは蝋燭の火だけ。広い屋敷を明るく照らすには些か足りないと言える。それが却って屋敷内の味を出していた。

 夜にここへ来たことの無かったエイネとソラは、周囲を見渡しながら歩いた。朝では味わえない感覚に、ただ感嘆していた。

 ふと、進む先にひと際明るい部屋があった。あの部屋がなんの部屋なのか、二人は知らない。


「さあ、入って入って」


 促されるままに二人はその部屋の中に入った。

 その部屋は脱衣所だった。二人が住んでいる家にあるものとは比べものにならないくらいに広い。三人入ってもまだまだスペースがある。ここにソファーなどを置いて部屋として扱っていてもおかしくないほどだ。


「ささ、脱いで脱いで!」


 そう言いつつ、婦人は着ている服を脱ぎ始めた。透き通った白い肌が露わになる。彼女の裸などこれまで見たことなく、エイネとソラは思わず見惚れて頬を染めた。

 ソラが特に釘付けになっていたのは、女性特有の胸の膨らみだった。エイネにも勿論その膨らみはある。大きくもなく小さくもない、ごくごく普通の大きさだが、一方の婦人はエイネのそれよりも大きかった。まさに大人の大きさと言えよう。

 ソラが婦人の胸に釘付けになり、憧れに似た何かを抱くのも無理はなかった。別に変な意味ではない。ソラは生まれてから一度も人間の、言うなれば母乳を口にしたことなど無いのだから。

 どこにでもいる普通の赤ん坊は、母の出す乳を飲み育つという。そう本の知識で持っているソラだが、今の今まで、牛の乳以外に口にしたことがない。母に触れたことがないという事実が、無意識の内に彼の中で肥大化していった。

 そしてソラの視線はエイネに向いた。胸ではなく、顔に。彼女は自分の母親ではない。それを彼は知っていた。教えられたのは言葉を話せるようになった三つの時だったか。

 だがソラはいつしか思うようになっていた。母親はエイネしかいない、と。エイネのことを「お母さん」と呼びたいと。


「ほら、エイネちゃんも脱いで脱いで! というかお姉さんが無理矢理脱がせちゃうわ!」

「ちょ、なんですか。ひゃっ!? ど、どこ触ってるんですか!」


 そんなソラを他所に、婦人はエイネの服を脱がさんと飛びかかった。


「ほらほら、脱いで脱いで!」

「じ、自分で脱げますから! ちょ、やめ……て……!」


 抵抗も空しく、エイネは服を無理矢理脱がされてしまった。恥ずかしさのあまり目を伏せて、体を隠すようにして立っている。

 すると婦人は何を考えてか、エイネの肩を掴み半ば強引に歩ませ、ソラの前で並んだ。


「ねぇねぇソラちゃん? どっちの裸が綺麗?」

「ちょっと何聞いてるんですか!」


 エイネは思わず声を張り上げた。その反応は最もである。


「ソラ、無視していいからね?」


 だが半ば方針状態のソラはぼうっと二人を眺めると質問に答えた。


「……エイネの方が、綺麗」


 不意を食らったエイネの胸がドキリとする。今の彼女の顔は、熟れたトマトのように真っ赤に染まっている。

 ソラもまた自我が戻り、顔を赤くして二人の体から目を反らした。


「あらあら、私の方が綺麗だと思ったのになぁ」


 残念。と婦人は唇に手を当てて恨めしそうにソラを眺めている。

 ここだけの話だが、もしエイネと並んでいたのが実の母親だったとしても、ソラはエイネを選んでいた。例え傷だらけの体をしていても、ソラにとってはエイネこそが、誰よりも美しくてかけがえのない存在なのだから。

 それを知ってか知らぬでか、婦人は内心で「ほんとに、残念ね」と呟いていた。


「ま、気を取り直してお風呂に入りましょう! さあソラくんも脱いで脱いで!」

「わっ!? ベルさん!?」


 ベル婦人がエイネと同様にソラの服を脱がせようとした時だった。


「もういい加減にしてください!」


 反射的に、エイネは叫んでいた。

 婦人が手を止めてエイネの方を見てみると、剣呑な瞳が婦人を突き刺した。


「あの、エイネちゃん?」


 無言の圧力。エイネの瞳は「離れろ」と訴えている。

 こんなに怒った姿を見たことがなく、婦人は思わずソラから手を離した。ソラも同様で、口を開けてエイネの顔を見ている。


「あ、えと、その……」


 ハッと我に返ったエイネは、顔を伏せて口をまごまごさせた。内心「どうしよう、どうしよう」と繰り返している。

 それを見た婦人は僅かに笑みを浮かべる。


「ちょっとやりすぎちゃったわね。ごめんなさい。先に入ってるわ」


 謝罪して、婦人は一人先に浴場へと入っていった。

 残った二人は顔を見合わせる。


「ごめんね、ソラ」

「ううん、気にしてないから」


 少し気まずくなり、エイネは顔を反らした。何故あそこまで怒ってしまったのか、エイネ自身分かっていなかった。ただ何か、我慢できないものがあったのは確かだ。

 気を落としているエイネを見て、ソラは口を開いた。


「ねえエイネ。ボクの服、脱がせて?」

「え、何? どうしたの急に?」

「いいから、お願い」


 ソラの意図が分からないまま、エイネは言う通りにソラの服を脱がせ始めた。胸が騒がしく鳴っているのを自覚しながら、一枚一枚ソラの着ている物を脱がせていく。そして露わになった彼の肌を見て「相変わらずなんて綺麗な」と呟いた。


「ありがと」

「うん、いいけど。急にどうしたの?」

「別に、なんでもないよ。ほら、早く入ろう?」

「あ、うん」


 首を傾げながら、ソラに手を引かれるがままエイネは浴場の中に入った。


「わぁ……」

「広い……」


 浴場に入った途端、二人は同時に感嘆の声を漏らした。まるでお城の中に設けられたもののように広々とした空間が広がっていたからだ。その大きさ、二人の住む家のリビングほど、いやそれ以上である。

 そして浴槽もまた、大きかった。人一人が入るにしては広すぎるほどのものだ。大人が七人ほど入ってもまだスペースが出来そうである。

 辺りを見渡していると、二人の視界に、一人湯に浸かるベル婦人の姿があった。


「あら、いらっしゃい」


 彼女は微笑むと手招きする。

 それに応じて二人は浴槽の中のお湯を桶で掬って身に浴びると、恐る恐る湯船の中に足を入れた。最初の内は熱く感じたお湯も、時間が経つごとに慣れていく。

 じゃぶじゃぶと音を立てながら二人は浴槽の中を歩き、二人は婦人の横に並んだ。


「はぁ……気持ちいい……」


 肩まで浸かると、エイネは目を細めてほぅと息を吐いた。ソラもその左横に並んで、気持ちよさそうに頬を緩ませている。雨に打たれて少し冷えた体が、一気に温まるのを感じていた。


「さっきはごめんなさいね。少しはしゃぎすぎたわ」

「あ、いえ、もう気にしてませんから。私の方こそ、怒鳴ってすいませんでした」

「気にしなくていいのよ。ソラちゃんもごめんなさいね?」

「ボクも、気にしてないです」


 二人の答えに安心したように笑うと、婦人は天井を見上げた。

 悲しげな表情。その横顔を眺めていて、エイネはふと疑問に思った。何故この人は独りで大きな屋敷に住んでいるのだろうかと。

 何度か考えたことはあった。だが、猫たちと一緒なら寂しくないと思っているのだろうと、大して気にも留めなかった。

 屋敷内の廊下を歩いて、この浴場に入って、分かった。ここは独りで住むにはあまりにも大きすぎる。


「あの、ベルさん。ベルさんはどうしてこの屋敷に独りで住んでいるんですか?」


 気がつけばエイネは、疑問をそのまま口にしていた。

 問いに対する答えは、すぐに返ってこなかった。婦人は天井を見上げたまま、口を開こうともしない。

 流れる沈黙に、エイネは困惑していた。今考えると、聞いてはいけないことだったのかもしれない。ここは何か別の話題を探さなくては、と。


「……どうしてなのかしらねぇ」


 エイネが新たな話題を探し当てるより先に、婦人はぽつりと呟いた。


「ベルさん……?」


 彼女の表情は今、より一層沈んでいた。普段元気な顔しか見せないだけに、その表情は意味深なものに取れる。

 エイネはそんな婦人の姿を見て、やはり聞いてはいけないことだったと理解した。空気が気まずく、今すぐにでもこの場から逃げ去りたい。エイネはその気まずさに耐えられず、思わず顔を少し湯に沈めた。


「逆に聞きたいのだけれど、エイネちゃんはどうしてソラくんの面倒を見てるの?」


 突然話題を振られて驚いたエイネは、慌てて顔を上げる。


「あの人に、ヴェルティナに言われたから?」

「いえ、違います」


 即答だった。これにはさすがの婦人も驚いたのか、エイネの顔を凝視している。


「確かに今の状況のきっかけはヴェルティナかもしれません。でもソラを守りたいと思ったのは、まだ生まれたばかりだったあの子の手に触れてからです。小さな手で力一杯私の手を握り返してくれた時、ああ、この子を守ってあげなくちゃって。それは今でも変わりません。あの子は私が命を掛けてでも守りたい、大切な子ですから」


 エイネの表情はとても穏やかなものだった。その反面、言葉には強い意志がある。

 一方でソラは、天井を見上げて仰向けになったまま、湯に浮かんでいた。

 母親の名前を聞いたことで、彼は思い出していた。今でもはっきりと覚えている、自分が生まれた時のことを。記憶の光景に映っているのは、嬉しそうに赤子の手と頬に触れるエイネと、その赤子を抱きかかえて微笑む母ヴェルティナの姿。今でも感じる。あの時の母親の表情には、悲しみが潜んでいたと。

 それから数日して、母親は赤子のソラを置いて出て行った。


(ボクは望まれない子供だったのかな……?)


 自分は未来で孤独になるのではないか。母親が自分を見捨てたように、今は優しく育ててくれているエイネも自分を見捨て、最後には誰一人として自分のことを見てくれなくなるのではないか。

 かつての光景は、幼い子供が持つには不相応な不安と恐怖と、そして孤独を募らせた。

 ソラは立ち上がると無言でエイネに近づいた。彼女の前に身を縮めて座る。


「どうしたの?」


 その様子が心配になって、エイネはソラの顔を覗き見た。見て、胸を抉られる様な感覚を得た。ソラの目には涙が溜まっていたのだ。

 表情で察したエイネは、ソラの小さな体を優しく抱き寄せた。


「大丈夫よ。私はあなたを置いてどこかに行ったりしないから」


 耳元で囁き、あやすように頭を撫でる。

 エイネの優しい言葉は、不安と恐怖で傷ついたソラの心を癒やして包み込んだ。


「だから笑って? 私、あなたが笑っている顔が一番大好きなんだから」

「……うん」


 鼻を啜って、涙を拭い、ソラは笑った。

 安心したエイネも微笑んだ。


「さてと、じゃあソラ。髪の毛洗ってあげようか?」

「……うん。お願い」

「よーし、じゃあ洗い場まで競争だ! よーい、どん!」

「あ!? もうエイネったらずるい!」


 わいわいと騒ぎながら遠ざかる背中を、婦人は悲しみに満ちた表情で眺めていた。二人の笑顔からは、幸せが伝わってくる。間近で見る方が、より一層に。

 羨ましかった。あの中に入りたいと思った。だが彼女は、入れなかった。入れるはずもなかった。


「私にその資格はないんだもの」


 そう自虐した言葉を呟いたときだった。


「何がですか?」


 突然声を掛けられて、婦人は身を跳ねらせた。

 声のした方向を見ると、先ほどまで洗い場にいたはずのエイネが座っていた。


「え、エイネ? いつの間に……?」

「今さっき隣に」


 どうやら物思いに耽りすぎたようだ。そのことを自覚し、婦人は迂闊さに嘆いて咳払いをした。


「ソラちゃんは?」

「先に上がりました。なんでも猫たちと遊びたいそうで」

「なるほど、そっか」

「ところでベルさん、先ほど私たちのことじっと見つめてましたけど、どうかしましたか?」

「ああ、ううん別に? 二人とも幸せそうだなぁって思ってただけよ」


 嘘は言っていなかった。

 婦人の言葉にエイネは頬を緩ませる。


「そうですね。幸せです、とっても」


 誰が見ても、エイネの幸福を感じることが出来た。

 だが彼女の幸福な時間に、いつかは終わりが来ることを婦人は知っていた。誰も止めることの出来ない、抗うことの出来ない運命を。

 そしてその運命が、近づいてきていることも。


「エイネちゃん、あなた……消えかかっているわね?」


 婦人の言葉に、エイネは息を呑んだ。思わず婦人の顔を、丸々とした目で凝視する。


「どうして? どうしてそのことを」

「そうね……ヴェルティナから聞いていたのよ。あなたがもうすぐ消えるかもしれないってことを」

「……え?」


 ヴェルティナから聞いた。その発言は、エイネをさらに動揺させた。


「ヴェルティナは言っていたわ。あなたは保って、あと五日だって」


 エイネの顔が青ざめていく。それでもなんとか自分を保ち、婦人の顔を見て笑った。当然、そこに本当の笑顔はない。


「じ、冗談ですよね?」

「冗談を言っている顔に見えるかしら?」


 婦人の声が、いつになく低い。それだけで、エイネは嘘ではないと察してしまっていた。


「そんな……そんなの……」


 いつかは消える。それはエイネも覚悟していたことだ。しかし、彼女の中ではまだ先の話だったのだ。

 五日。それはエイネが絶望するのに十分な時間であった。


「嘘、嘘ですよそんなの。だってまだ私は――」

「さっき熱結晶に魔力を注いだとき、一瞬消えそうになったのよね?」

「――ッ!?」


 どうしてそんなことまで。言いたくても、もはやエイネは声を発することも出来なかった。


「だって、あなたがソラちゃんに泣きつくなんてよっぽどのことだもの。すぐに察しがつくわ」


 否定など出来なかった。そもそも事実なのだ、否定のしようがない。

 湯面を見つめたまま、エイネは唇を噛み締める。その表情を見て、婦人は彼女の肩に手を置いた。


「エイネちゃん……あなたが助かる方法がたったひとつだけ存在するわ」

「え……?」


 釣られて、エイネは婦人の顔を見た。この時エイネは、無表情な婦人の瞳に、冷酷さが宿っているようにも思えた。


「ソラちゃんと契約するのよ」


 婦人の発言に、エイネは思わず立ち上がった。


「そんな、そんなこと出来るわけないじゃないですか!」


 自分でも驚くくらいに、エイネは声を張り上げていた。ただ彼女の怒りは留まることを知らない。


「あの子はまだ幼いんです! そんな子に使い魔との契約なんてさせられるわけがない!」


 半ば癇癪気味に怒鳴り散らす。興奮しきった彼女の顔は、真っ赤に染まっていた。

 エイネが怒るのも無理はなかった。使い魔との契約、その維持には膨大な魔力が必要なのだ。多くの修行を積んだ者でさえも、維持に苦労し、病床に着くこともある。最悪死に至る者さえいるほどだ。魔力の少ない子どもが耐えられるはずもない。

 況してやエイネは人型の使い魔だ。使い魔には犬や猫と言った獣や、植物も使い魔として使役することが出来る。その中で最も魔力が必要とされているのが人型と言われていた。

 その上彼女は――。


「でも事実よ。それ以外に方法はないもの」

「だからってどうしてソラなんですか!」

「だって今あなたの家族はソラちゃんしかいないでしょ?」

「それは! それは……」


 エイネは返す言葉が見つからなかった。見つかるはずもなかった。同時に「婦人と契約すれば」という甘えた言葉を一瞬投げそうになった自分を呪った。


「でも、あの子はまだ……」

「魔力に関しては全然問題ないわ」

「……どういう意味ですか?」

「あなたが今日行ったお花畑ね、ソラちゃんが独りで作ったところなの。それも、魔法を使ってね」

「え……?」


 思わず耳を疑った。理解することを拒んでいた。

 別に花畑を作ることぐらい、やろうと思えば誰でも出来ることだ。花の種を植えて、そこに毎日欠かさずに適量の水をやる。それで花は咲くのだから。

 しかし、魔法を使ってとなるとわけが違う。魔力を注ぎ、花の成長を促す。場合によっては一日で花を咲かせることも可能だ。

 もしあれだけの規模の花畑を魔法でもって生み出そうとするならば、それ相応の魔力が必要となる。なにせ生命を吹き込むということなのだから。

 そしてそのために必要となる魔力は、子どもが持ち得るはずのない量だ。

 エイネは信じたくはなかった。信じられるわけがなかった。ソラはまだ幼いなのだからと。


「あの子の魔力は他の誰とも比べものにならない程の量があるわ。あなたと契約して維持することなんて容易いはずよ」


 確かに、婦人の言うことが真実なのであれば、使い魔との契約も簡単なことだ。

 エイネは何も言い返せなくなっていた。何を考えればいいのかさえ分からなくなっていた。内心に「まだ生きていたい」という願望があるからに他ならないことも気づいている。


「あのお花畑は一体誰のために作ったのか、よく考えることよ。エイネちゃん」


 婦人はそれだけ言うと立ち上がり、振り向きもせずに浴場から去っていった。

 一人取り残されたエイネは佇んだまま、葛藤の渦に呑まれていく。生死の選択を急に迫られた少女は、その苦しみに唇を噛み締めた。

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