煉獄の道化師、その最期

 二人だけになり、俺は尋に引っ張られながら走る。俺も全力で走っているのだが、やはり尋の歩幅の方が早い。俺は色んなことが起こり過ぎていまだに茫然自失としている。それでも、松本や辻先輩が身体を張って俺たちを逃がしてくれたのを受けて、なんとか動けていた。


 御津宮を探し出し、説得する。自分が消えるのを受け入れてはいけないと、諭す。そのために俺たちは走っている。校舎の外を抜け、もうすぐ学校の門が見える。

 なぜ俺がそんなことをしなければいけないのか。

 情けない話だが、肝心の記憶が戻っていない俺には、いまいちピンと来ていない。全てが遠い話のように感じるのだ。


 俺は尋と共に走る。

 昔から一緒にいた俺たち、

 今も一緒に走っている。

 だが、昔と今とでは決定的に違う。正確に言うなら、つい三十分ほど前とそれ以降で明確に違っている。同じような景色を見て、同じような事を考える『共有』の関係が偽りだったと、分かってしまっている。

 だから、切羽詰まった目的がなければ今すぐにでも聞きたかった。

 俺の大切な、大切だと思っていた幼なじみの胸の内を。


 俺たちは、校門に到達する。時間的には昼休みも終盤で、生徒の行き来は少ない。

 尋はここで急停止し、俺はその背中にぶつかった。心なしか、震えているようだった。

「ねぇ、ユウキちゃん」

 尋は俺に背を向けたまま、静かに言う。

「ここから先は、一人で行って」

「な、どうしてだよ。ここまで一緒に来たんだから、お前も一緒に」

 そこまで口にして、失言を口にしてしまった感覚を得る。尋はこちらを向き、強い力で俺の肩を掴んだ。


「相変わらず、鈍感。相手の立場に立って考えないギャルゲー脳だね」

 尋は俺に、強烈なダメ出しをする。


「このゲームの主人公は一体誰なの」

 ……俺だ。尋の話を信じるなら、俺らしい。

「エンディング間際、肝心の告白シーンで他のヒロインを連れて行くなんて展開、あり得ると思う? 許されないでしょ。双方にとって」

 そりゃそうだ。だけど、


「だけど仕方ねぇだろ。ゲームとか、人格のアップデートとか、そんなこと言われたって急に現実感は沸かないんだよ。御津宮のことも、お前のことも、肝心なとこの記憶は空白なんだ。どこか遠くに離れてるんだ。その上、ずっとまともに現実を見てこなかった俺に、あんまり高望みするなよ!!」

 ああ、最低だな。クズだな、俺。でももう止まらなかった。

 松本や辻先輩の必死な姿を見て、俺もなにかしなくちゃって思ったんじゃないのか。この期に及んで現実逃避かよ。でも、現実感がなくて力が出ないのは本当なんだ。

「俺が思い出の女の子に執着したのも、もとはと言えば記憶の空白を埋めるため、お前とちゃんと記憶を共有するため、隠し事をせずに話したかったからなんだ。なのにお前は全てを知ってて、隠してて、支配しててっ! もう俺は、なにを信じればいいか分からない。なにに縋って生きればいいのか分からないんだよ!!」


 人が聞いたら、なにを大げさな、と思うかもしれない。でも、これが俺の偽らざる心境だった。なんの誇張もなく、俺は生きる指針というものを失いかけていた。

 それにしても、情けない。自分で言っていて情けなくなる。始まりは尋のためだったとしても、俺は途中、舞花に熱を上げていた。情けなさに、いつの間にか俺は涙を流していた。

 なんでこんなに痛い展開にならなきゃならないんだ。ずっと、そういうのを避けてきたのに。


 尋は、しばらくの無言の後、

「そう、だったの。皮肉だね」

 と、呟いた。

「ねぇ、聞いて」

 尋は俺の肩から手を離し、ゆっくりと語り出した。

「ユウキちゃんがその部分の記憶を失くしているのは、ユウキちゃんが思い出したくなかったからなの。それ自体はユウキちゃんがやっていること。私はしていたことは、ユウキちゃんが自分の真実から目を逸らすように誘導することと、閉じた記憶のふたに鍵をかけること」

「か……ぎ?」

「より思い出しにくくするための、催眠、暗示みたいなものだよ。ユウキちゃんが思い出したいと思ってる今なら、鍵を外せば、多分記憶は戻る。………そっか、ユウキちゃんはわたしのために記憶を思い出そうとしてくれてたんだね。ごめんね、ありがとう。こんなことなら鍵、開けておけばよかったよ。夜な夜な鍵を締め直したりせずに、たっぷり寝ておけばよかったよ。あはは」

 尋は笑う。いつもの、尋だ。

 それは演技なのかもしれないけれど、俺の大好きな幼なじみがそこにいた。


「ユウキちゃん。今から私が言う言葉をよく聞いて。鍵の解除コードとして設定した言葉を」

「え? っ、尋」

 尋は俺の身体を抱きしめるように引き寄せ、耳に唇を寄せる。

 そして、口づけるように言葉を紡いだ。


 それは記憶にあるようなないような言葉。

 なんと言っていたのかは思い出せない。

 なぜならば、

 その直後、俺の脳が記憶の洪水に飲まれたからである。



 ******



 俺は小学六年生の頃、時々メモライズというギャルゲーにのめり込んでいた。

 自分が主人公となり、二次元の世界に干渉できるような感覚に、夢中になった。

 でも、尋はそんな俺があまり気に食わないみたいだった。

 尋にもプレイしてもらったけど、俺みたいに気に入ることはなかった。

 

 尋は、俺の幼なじみで、いつも一緒にいる、一番仲のいい存在だ。

 同じように物を考え、同じようなことを話せる。同じ世界を共有できる、唯一の存在。

 今までも、これからも、変わらずにそうだと思っていた。

 だから、なんで尋が時メモを気に入らないのか、そのときの俺にはよく分からなかった。


 ある日の夕暮れ、公園でブランコに座っている一人の女の子と出会った。

 最近尋はそっけなくて、俺は一人だった。

 声をかけると、女の子は小難しいことを言って俺を遠ざけようとした。

 けれど、表情はよく分からなかったけど、俺は彼女のことを寂しそうだと感じた。

 だから、ここと似たシチュエーションで星川渚を笑顔にした言葉を、俺は口にしていた。当時の俺にとって、それは女の子を笑顔にできる言葉という意味合いだったのだ。


 俺は、深く意味も理解せずに、言葉を紡いでいった。

 彼女は、しばらく驚いて言葉を失くしていたけど、最後にはやっぱり喜んでくれていた。

 そして「また会いに来ていい?」と言っていた。

 彼女の名前は、紗枝といった。


 それからしばらくして、俺はまた一人の女の子と会った。

 きちんと整えた髪、可愛らしい洋服に身を包んだ彼女は、しおらしい様子で挨拶をしてきた。そんな女の子には今まで会ったことがなかったので、

「君は、誰?」

 俺はそんな馬鹿な発言をしてしまった。

 あの時、もっと注意力が足りていればと、いまだに思う。

「誰って、わたしだよ、尋だよ、ユウキちゃん。なんで分からないのっ?」

 信じられない、尋といえば寝癖がひどくて、あまり女の子っぽい格好をしなくて。

 おそらく彼女は、ギャルゲーにうつつを抜かすおれに軽く嫉妬して、おめかししていたんだと思う。


「わたしの、『顔』が分からないの? ユウキちゃん」


 顔。顔。顔。

 顔だって?

 俺はその時、全てを共有できると思っていた幼なじみの、顔という根本的な部分すら分かっていなかったことに気付いた。そしてこれから先、死ぬまで同じ世界を視ることはないと知るのだった。


 相貌失認、もしくは失顔症と呼ばれるものが俺の症状だ。

 実は、人の顔の判別というのには高度な情報処理を要する。俺はこの処理が上手くできず、人間の顔の差異を上手く判別できないのだった。目、鼻、口などのパーツひとつひとつが見えないわけではないが、全体としてひとつの「こういう顔である」というのが分からないのだ。代わりに記号的な、例えば二次元的な絵の判別は可能だったりする。俺が元々二次元を好んでいた理由はそこにもあったのだと思う。


 治療法のないこの症状であるが、症例自体はピンからキリまでを含めば、人口の二%ほども存在するという。だが、そもそも人を判断するのに使う情報は顔だけではない。雰囲気、服装、動作や話し方。だからこの症状を持っていても、軽度ゆえに気づかに過ごせている人もいる。また、重度でも、なんとか顔以外の情報で判断してやっていく人もいる。自分の症状を公表して、周りに理解してもらうよう努める人もいる。皆、頑張ってている。だからお前もいつまでもショックを受けているんじゃない。と、両親はそう言った。


 けれど、俺は嫌だった。

 俺が尋の顔を認識できないという事実を、許容できなかった。

 二人の世界にそんな大きな隔たりがあることを、どうしても認められなかった。

 壊れていく俺。両親すら見放しかけた俺。

 そんな俺に尋は、自分も泣きながらに、こう言った。


「ユウキちゃん、泣かないで? 一緒に作ろ? ユウキちゃんが苦しまなくても済む世界を」


 そして俺は、尋が提案した世界に逃避した。顔が分からないという事実を誤魔化すために、尋以外との付き合いなくし、二次元の世界に没頭していったのだ。

 もちろん、俺だけが全てを忘れた上で。



 ******



 目の前で崩れ落ちる悠樹を、両腕でしっかりと支える。

 悠樹より背も高く腕も長い私は、大した負担もなく彼を腕に抱えることができる。

 私の両親は別に大きくない。家系的にも大きな人はいないようだ。

 遺伝学を無視して、私の背がこれだけ伸びたのはなぜなのか。私は、悠樹が私のことを見つけやすいようにそうなったのだと思っている。いざというとき、彼を守れるためにそうなったのだと思っている。

「う……っ」

 悠樹が呻き、ゆっくりとその目が開かれる。


 ああ、戻っている。目を見て、すぐに分かった。悠樹の目には、先ほどまでとは明らかに違う、複雑な感情が宿っていた。長年彼を見続けた私には、それが分かる。

「ひ、ろ」

 私の腕を離れた悠樹が、言葉を発する。

「大丈夫? ユウキちゃん」

「……俺ってやつは、お前に全部押し付けて、一人だけ安穏と。本当に、どうやって謝ればいいのか、分からない」

「あはは、いいよ、いいのそんなの。分かってくれたなら……それだけで、いいの」

 悠樹は、瞳に涙をにじませていた。思わず、それを貰いそうになる。でも、まだ泣いてはいけなかった。

「それよりユウキちゃん、急がないと」

「ああ」

 紗枝は公園で彼を待っている。私は彼を送り出さなければならない。

 悠樹は校門の外に向けて駆けていく、その途中でいったん止まり、

「尋」

「うん? どうしたの?」

「時間がないのは分かってるけど、これだけは言わなくちゃいけないと思うんだ。あのとき、気づけなくて、ごめんな」

「あはは、いいってことー」


 悠樹は鍵のかかった状態で思い出の少女――――紗枝を断片的に思い出した。それに対して、あのときの間違えられた私のことは一切思い出さなかった。それは、私との記憶の方がより深くに仕舞われていたからだ。そうに違いない。そういう、ことでいい。

「ユウキちゃん、あの子を助けてあげてね」


 悠樹の姿が消えるのを見届けた後、私はひどい脱力感に襲われた。


 ああ、行っちゃった。

 本当に行っちゃったよ。

 ずっと私の後ろをついてきた彼が、私を追い抜いて行ってしまった。

 彼は自分を卑下していたけど、無意識の中で後悔を繰り返して、少しずつだけど成長していた。昔とは違い、真実に至っても、壊れない強さを得ていた。

 多分、私は酷い顔をしている。顔の筋肉はなにものにもなろうとはせず、結果として心の虚無を表しているはずだ。

「あはは、は……」

 そこから私は無理に笑顔を作り、乾いた笑いを溢れさせる。

 悠樹は、ユウキちゃんは感謝してくれたけど、全然そんなことはない。


 私はエゴの塊。だって、ユウキちゃんが抱えた「人の顔が分からない」って悩みを分からないようにして、向き合わせないようにして、彼を独占するように支配する、なんて、どう考えても普通じゃない。人を、鳥籠の鳥のように狭い世界に閉じ込めておくなんてこと、良いことのわけがない。

 そんなことは、すぐにでも分かった。でも、止められなかった。

 だって、私が彼のためにする苦労を、彼はちっとも分からない。

 思い出さないことが彼の望みだから。

 彼は酷いことを平気で言うの。

「尋、お前はしょうがねえ奴だなあ」って、笑いながら言うんだよ。

 彼はそんなとき、私がどんな表情をしてたか知りもしない。判らない。

 でも、全てを打ち明けたら、また彼が壊れてしまうかもしれない。

 

 負の螺旋は、時間をかけて私の心を削り取っていった。

 私は彼を、なにも悟らせずに支配しているという事実を徹底することにより、心の均衡をなんとか保っていた。でも、そんなこと、正しいはずがない。

 何処かで終わりにしなければならなかった。

 

 結局、御津宮紗枝が持ってきたのは、機会。鳥籠を脆くし、鳥籠を破壊しやすくするためのチャンス。私は、それに乗ったのだ。でも、馬鹿だな私。前に紗枝が言ったように、真実を明らかにした上で、彼を一層離れられなくすることも、できたかもしれないのに。


 鳥は飛び立つ。鳥籠の外へ。

 本当は世界が広いことを思い出して、本当は自分がどこまでも飛んでいけることを思い出して、遠くに飛び去っていく。

 そんな光景を幻視する私の瞳から、涙が一粒零れ落ちた。

 あとは二粒、三粒、そして幾重にも――――雨のように涙が落ちてくる。


「うぅ……ぐすっ、ううう、うわああああん。……ひっく、……あうぅ……うええん」


 私は泣いた。声を上げて泣いた。

 ユウキちゃんに間違われた時から約五年の時を経て、ずっと馬鹿みたいに笑い続けてきた私は、今ようやく泣くことができたのだった。


 ユウキちゃん。どうせなら、ずっと遠くまで行ってよ。

 それでも、もしも私の所に戻って来てくれることがあるのなら、

 そのときは、

 もう同じ景色を見てなくてもいいから、

 もう同じことを考えなくてもいいから、


 嘘を吐かずに、本音で話そう――――。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る