ワゴン車で山間を抜け、田畑を横切ると、往ヶ島の集落が見え始めた。公共施設らしき建物を中心にして、人家が寄り添うように集まっている。行き交う人影のほかに、じゃれ合う猫の姿もあった。

「どこに向かっているのですか?」

 私は少し身を乗り出して、運転している田村に尋ねた。

「旧診療所です」

 視線を前に向けたまま、田村は言葉を発した。

「そこに慶子が?」

「はい」

「……本当に、何かの間違いではないのですか?」

 今更そんな質問をしても仕方ないことはわかっていた。自分の意志で今ここにいる。田村の話を信じると決めたのだ。しかし。

「あなたのことを聞き、電話をしました。慶子さんから坂本さんの番号も教えてもらいました」

「慶子は死んだ。今更、心を掻き乱さないでくれ……」

 信じたい想いが湧き上がるが、理性がそれを否定する。

「坂本さんの気持ちはよくわかります。……再び、この世に現れ出てきたんです。……慶子さんは株人かぶびととなって」

「かぶびと?」

 私は眉を寄せ、聞き返した。

「そうです。ここではそう呼びます」

「わかるように言ってほしい」

 語尾を荒らげるのを抑えられなかった。

「……今ここでは、うまくは説明出来ません。とにかく会ってみてください。そうしないと何も始まりません」

 荒唐無稽な話にしか聞こえない。しかし、口から出まかせとは思えない自分が心の中にいる。私は黙り込み、風景に目をやった。

 役場。福祉館。体育館。公共施設が並んでいる。ワゴン車は止まる気配を見せず、そこを通り過ぎていく。

 集落を離れ、しばらく行くと、ぽつんと建っている二階建ての建物が視界に入ってきた。放棄された病院のような佇まいだ。外壁が風雨で傷んでいた。田村はその横にワゴン車をつけた。

「行きましょう」

 ワゴン車を降りると、田村に続いて、建物の正面玄関へ向かった。ガラス扉は内カーテンで隠されているため、その中をうかがい知ることは出来ない。底知れない不安が募ってきた。

「今、開けます」

 屈み込んだ田村の手元で、鍵が開く音がした。

「どうぞ、入ってください」

 私は躊躇いながら、玄関へ進んだ。靴を脱ぎ、スリッパに履き替えながら、辺りに視線を巡らせた。

「以前つかわれていた診療所です」

 田村の説明を聞き流し、受付を見つめた。やはり内カーテンで遮られている。右には待ち合いベンチ、日に焼けた医療ポスターが壁に張ってあった。年号が古い。

 待ち合いを通り抜け、田村は階段で地下へ向かった。壁を這う配線や配管に歴史を感じる。時間が巻き戻されたかのようだ。

「慶子は病気なんですか?」

 私の質問に、田村は首を横に振った。

 馬鹿な質問だ。死人が病気、笑うに笑えない。あの声を聞いて以来、現実と願望がない交ぜになって渦巻いている。

 階段を降り切り、右へ行った。蛍光灯がかなり間引かれているので薄暗い。突き当りまで進み、田村はこちらを振り返った。

「坂本さん、きっと驚くと思います。しかし、取り乱さないでください」

 そう言うや、戸をノックした。

 何に驚くのか、聞き返すか迷っているうちに、戸が開き、中から老婆が現れた。水色の医療キャップをかぶり、同色の手術用のエプロンを身に着けていた。

 老婆は私の存在を無視するようにして、田村に喋りかけた。

「おお、来たか」

「どんな具合ですか?」

「ちょうど今、落ち着いたところだ」

「お隅さん、こちら……」

「旦那さんか?」

 お隅さんと呼ばれた老婆は、初めて私に気がついたように、しげしげとこちらを眺めた。

 気圧された私は、なんとか会釈だけを返した。

「感染症が怖いから。五分だけだ」

 お隅さんは動線を譲るように、奥に引っ込んだ。

「どうぞ」

 田村に導かれ、部屋に入った。

 布が張られた衝立が視界を遮っていた。おそらく入院病棟の四人部屋くらい広さがあるようだ。ボイラーの太いパイプや計器が壁からそのまま突き出しているところ見ると、ただの入院施設とは思えなかった。

 私は田村に目配せをしてから、恐る恐る衝立を越えた。

 ベッドが二つ並んでいるが、それらに間隔はなく、ぴたりとつけられていた。手術用の布(おそらく)が広くベッドを覆っているので、細かな状況を把握出来ない。医療計器が規則正しい電子音を立てていた。吊り下げられた複数の点滴の管が、布の下へ消えている。

 見る角度を変えていくと、老人が寝かされているのはわかった。皴に包まれた瞼はぐっと閉じられている。浅黒い顔に透明の酸素マスクがあてがわれ、突き出た二の腕には点滴の針が刺さっていた。

「松尾さんです。僕は親父おやじと呼びますが。ここで暮らしていけるのは親父のおかげです」

「慶子は?」

「慶子さんは向こう側です」

 田村の視線を追い、ベッドの淵に沿って、歩を進めた。

 そこには確かに、女が寝ていた。

 キャミソールの肩紐が肘の辺りまで落ちていた。髪の毛に粘液状のものが付着している。近づけば近づくほど、その女は慶子にしか見えなかった。

 私は唇を噛み、しばし目を閉じた。もう一度見直すと、もう否定することが出来なくなっていた。

「慶子っ」

 ずっと押し殺した声が、漏れた。

 なぜ、なぜ死んだ慶子がここに寝ているのか? 解けない疑問が頭を占める。考えても、答えは出てくるはずはない。田村に視線を送ろうとしたとき、何の前触れもなく、松尾と呼ばれた老人が身体を揺すった。それに合わせて慶子の身体がつられて動いた。ゴリゴリと骨が擦れるような音がした。

「株分けの最中なのです」

 田村が私の隣に並んで、静かに言った。

「その布をめくって」

 田村が指差した。

 私は固唾を飲んだ。

「自分の目で確かめてください」

 田村に操られるように、布の端を掴み、手前に捲っていった。慶子の白い背中があらわになる。それにつれて松尾の胴体がむき出しになった。妙だった。二人の上半身の角度がおかしい。角度を延長していけば、布の下で二人の下半身が交差してしまう……。見極める恐怖と戦いながら、核心を覆っている布を剥ぎ切った。

 私は目を疑った。

 慶子の身体は松尾の背中から生えていた。

 奇妙な脱皮を見るようだった。松尾の浅黒い皮膚の裂け目から、陶器のように白い慶子の身体をみりみりと送り出している。下半身はほとんど共有しているが、体液に濡れた右膝だけが奇妙に突き出していた。もちろん、それは慶子の足に違いない。

「慶子さんは一度命を落とされた」

 田村は私の背中に手を当てた。

「しかし、今、株人として親株の親父の身体から、この世に現れ出ようとしています。あなたを納得させるような説明は出来ないけれど、これは紛れもない事実……」

 田村が言い終わらないうちに、慶子の意識が戻ったようだった。

「誰? 誰かいるの?」

 慶子は頭をもたげ、辺りを見回した。その瞳は白く濁っていて、視線は頼りなげに宙を彷徨っていた。

「まだ目が見えないのです」

 ぼそりと田村が言う。

「……本当に、慶子なのか?」

「雅史……? 来てくれたの?」

 慶子は私の声を探し、身をねじろうとしたが、うまくはいかなかった。バランスを崩し、頭を横にして息を乱した。

「雅史……」

 震える手を伸ばしてきたが、途中で力尽きた。

「慶子、慶子……?」

 呼びかけたが、反応はなかった。

「無理は駄目だ」

 お隅さんが足早にやって来て、慶子と私の間に割って入ってきた。めくった布を元に戻し、慶子の腕をとって、脈拍を確認した。

「もう時間だ」

 お隅さんはきっぱりと言い放った。

「出直しましょう。今、刺激を加えるのはよくないようです」

 放心しきった私を田村は諭した。

「ここで何をしている……」

 それは誰に向かって吐いた言葉なのか、自分でもわからない。

「坂本さん」

 腕を田村に掴まれた。

「やめてくれ」

 私はその手を振りほどいた。

「順番に説明します。今のあなたなら、僕の話をちゃんと聞いてくれる……」

「慶子はどうなる?」

「普通の人のようになりますよ。僕と同じように」

 私は田村の横顔を凝視した。

「黙っていましたが、僕も株人なのです」

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