第5話 特別なお知らせ

「特別なお知らせがあります」

 きれいなスーツ姿の男が、突然やってきたのは、サメがあらわれてから何日後だったろう? とにかく、日にちの感覚がなくなるくらい経ってからのことだった。その頃、みんなの着ている服はぼろぼろで臭くて、誰もがホームレスのような状態になっていたので、きれいなスーツ姿を見るのは久しぶりだった。まだ、こういう人もいるんだ、とあたしは少し驚いた。

「緊急措置として、実験的に、サメの攻撃が確認されていない地区への移住を行います。ただし、完全に安全を確認したわけではありません。サメの攻撃がないというのは、あくまで現時点での話です。今後どうなるかは断言できません。また、移住先はグリーンランドもしくはアラスカです。サメの脅威がないとしても、東京のような便利な生活はできません。そのため、希望の方は、その危険をじゅうぶん認識の上、申し出てください。なお、移住先では食料の配給はありません。食料などの生活に必要なものは、ご自身で調達していただくことになります」

 グリーンランドとアラスカ、しかも食料の配給がない……。厳しい条件だった。でも、あたしはためらわずに移住を選んだ。このまま地下鉄のホームで過ごすのには耐えられなかったし、元の生活に戻れるとも思えなかったからだ。

「時間がありません。この地区からの移送は今から一時間後に行います。希望者は私のところまで来てください。」

 あたしはすぐに立って、スーツ姿の男の近くへいった。死ぬかもしれないけど、もう、こんなところにはいたくない。

 ホームにいたみんなが、ざわついた。みんな、迷っているようだった。結局、あたしのいたホームで、希望者はあたしだけだった。

「凍え死ぬぞ」

 あたしとスーツの男がホームを出て行くときに誰かが叫んだ。

 地上に出ると、装甲車のような車が待っていた。乗り込むと、車内にはすでに数名の人がいた。この人たちも移住希望者なのだろう。あたしが乗ると、みんな無言で会釈してきた。

 その中には、きれいな服を着て、大きなバッグを抱えている女の人もいた。それを見たあたしは、汚れて臭い自分が恥ずかしくなった。長いこと鏡を見ていないことも気になる。自分の頬に手をあててみると、ざらざらでぶつぶつができていた。自分がどんな顔をしているのか想像したくなかった。

「あの、どうぞ」

 きれいな服を着た女の人が手を伸ばして、あたしに白いハンカチをわたしてくれた。あたしは涙を流していた。

「ありがとうございます」

 なぜだか、あたしはその人を憎たらしく思ったけど、我慢してお礼をいった。ひとりだけ、なんでそんなきれいでいられるんだ。えらそうにあたしにハンカチをわたしてうれしいのか。自分の中の黒いものが、ふつふつと胸のうちにたぎってきた。

「さしあげます。かえさないでいいですよ」

 あたしが黙ってハンカチをにらんでいると、その女の人はつけくわえた。ひどくくやしかった。みじめだった。頬をつたった涙は、顎から膝にしたたり落ちた。車の中は、いやな雰囲気になった。あたしのせいだ。あたしがぴりぴりしているせいで、みんな妙に緊張している。でも、あたしにもどうしようもない。

 あたしは、ハンカチで軽く自分の頬をぬぐった。白いハンカチが、赤黒くなる。数回ふいただけでハンカチは、雑巾のように汚くなった。なんで、あの人はきれいなままで、あたしは薄汚くなっているんだ。怒りがこみ上げてきた。あたしは大声をあげたくなったけど、必死にこらえた。きっとここで大声を出したら、それで終わらない。あたしはあの女の人に暴力を振るうだろう。あの人が悪いわけじゃない。それはわかっているけど、あたしだって悪いわけじゃない。どうしようもない。どうしようもないことなんだ。

 装甲車は何度か停車し、そのたびに新しい人間をのせていった。最後に装甲車が止まったところで、あたしたちはおろされた。そこは飛行場だった。

 飛行場では、ヘリコプターが周辺のサメを掃討していた。離陸する飛行機に、サメが体当たりしたら大変なことになるからだろう。

 驚いたことに、用意された飛行機はジャンボジェットだった。こんなにたくさん移住するんだ。そして機内は想像よりも混んでいた。みんな一様に不安そうな顔をしている。

 あたしの隣の席に座っていたのは、憔悴しきった白い顔の女性だった。分厚い黒いコートで身体をくるむようにつつんでいる。こいつもきれいだ。あたしは、なんだかひどい間違いを犯したような気がした。でも、もう戻ることはできない。

 あたしが座ると、彼女は軽く会釈したけど、あたしの匂いがきついらしく、顔をそむけた。飛行機の窓は、すべて金属製のものでふさがれていた。安全のためなのだろうか? でも、外が見えないのは怖い。

「本機はグリーンランドへ向かいます」

 アナウンスが流れるとともに、機体が揺れて、動き始めたことがわかった。

「どうなるんでしょう? わたしたち」

 隣の女性がぼそっとつぶやいた。ひとりごとのようだったので、あえて答えなかった。

「すぐにシートベルトをつけてください」

 緊迫した声のアナウンスが流れた。あたしはあわててシートベルトをつけた。隣の女性は、激しく手が震えていて、うまくベルトがつけられないようだった。ガチャガチャと留め金を何度もぶつけている。

 機体の揺れが激しくなった。女性は、さらに、あせってきたらしく。必死の形相で、留め金を止めようとする。でも、止まらない。

「貸してください」

 ガチャガチャいう音が耳障りだったので、あたしは女性の留め金に手を伸ばした。女性は、ぱっと手を離した。あたしがやると留め金はすぐにはまった。

「あ、あ、ありがとうございます」

 女性の顔は、汗びっしょりになっていた。その顔が怖い。

「いいえ」

 あたしはそう言うと女性の顔から目をそらした。

 機体は、さらに揺れはじめた。ドンと機体になにかがぶつかるような音がした。でも、窓がふさがれているので、外がどうなっているのか、いや、離陸したのかどうかすらわからない。

「僕たち、きっと死んじゃうんだ」

 男の子の泣き声がした。「しっ、黙りなさい」と母親らしい声が続いた。男の子の泣き声が呼び水になったみたいで、あちこちですすり泣きが聞こえてきた。あたしは大木くんの泣き声を思い出して、暗い気持ちになった。

「はははは」

 隣の女の人が、まるで呼吸困難に陥ったような、ヘンな呼吸音を断続的にたてた。魚がはねるみたいに、時折びくんびくんと身体を震わせている。

「ご、ご、ごめんなさい。わたし、だめなんです。怖いんです。父も母もみんな、みんな、わたしの、わたしの、ははははは」

 女の人は目を見開いて、がたがたと震え始めた。笑っているわけではないんだろうけど、「は」のような言葉が口から出て止まらないみたいだった。

 彼女だけではなかった。あちこちで、泣いたり、震えたりする人が出てきていた。

「不安そうな方やパニックに陥っている方が近くにいたら、手を握るなどして、落ち着くよう協力してあげてください」

 アナウンスが流れた。あたしは無言で彼女の手を握った。どうすればいいんだ? と思う一方で、なんで、こんな人が隣なんだ、と思う。

「ううううう」

 彼女はあたしの手を両手で握り締めると、自分の頬に押しつけて嗚咽をもらした。あたしの手は彼女のあたたかい涙で、びしょぬれになった。手のよごれが彼女の頬についた。白い頬があたしの手で黒く汚れるのを見たあたしは、みんな汚れて死ぬのだ、となんとなく思った。

 ガタンと大きく機体がゆれた。機内の照明が一瞬、消えてすぐについた。彼女はひときわ激しく震えだした。彼女は、あたしの汚れや匂いを気にせず、身体をおしつけてくる。あたしは残った手で彼女の肩や頭をなでた。

「大丈夫、きっと大丈夫」

 心にもないことをあたしが言うと、彼女は泣きはらした目であたしを見上げて、小さくうなずいた。

「大丈夫」

 あたしは自分に言いきかせるように、もう一度つぶやいた。


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空の贈り物 一田和樹 @K_Ichida

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