思ひ出を嗅ぐ

saw

思ひ出を嗅ぐ

「はー……」


 伸びをして椅子の背凭れに凭れ掛かる。

 机に向かってから数時間が経っているが、机の上の原稿用紙には文字はおろか汚れ一つ付いていなかった。


 後藤隆司45歳、独身。

 小説を書き始めて20数年、小説一筋で生きてきた。

 全くの無名でも、そこまで売れっ子でもない。

 ただほんの少しばかり昔からのファンがいるだけである。

 そのファンでさえも今となっては重荷でしかなかった。

 苦虫を噛み潰した様な顔で、床に落ちている手紙を見る。

 握り潰され拉げた手紙はファンレターであった筈だったが、中身は今の自分にとっては最悪なものであった。


『……最近の先生の作品は先生らしく無く、少し残念に思います。次回の作品を……』


 俺の作品に俺らしさを求めるな。

 面と向かって言われたものなら、こう怒鳴り返していただろう。

 狭い嗜好の型に嵌められ、勝手に落胆される気持ちを考えた事があるのだろうか。

 そもそも何だ俺らしさって。

 初めはそう憤慨していたものの、ふと思った。

 あながち自分も同じなのかもしれない、と。


 昔、自分の作品で大きな賞を取った時に自分の中で「こういう風に上手く書かなくては」という想いが芽生えた結果どんどんスランプに陥り、こうして書けなくなってしまった。

 俺もまた、成功させる為に自分自身を型に嵌めようとしたのだ。

 あれ、何で俺は小説家になろうとしたんだっけ。


 その時、何の為に書くのかを見失ったと同時に小説家としての全てを失った。


 頭を搔き、重い腰をあげ外着に着替える。

 家にいたって書けないならば意味が無い。

 そう思い特に目的もないまま外に出た。


 ……出てくるんじゃなかった。

 日差しは強く、最大音量の蝉の鳴き声が鼓膜を揺する。

 汗が襯衣に張り付く感覚が気持ち悪い。

 引き籠りにとって夏の外出は最悪搬送される位に危険である事を忘れていた。

 どこかで避暑しなければ。


 少し俯き気味に店を探して歩いていると、風鈴の鳴る音がして顔を上げる。

 古びた駄菓子屋が殆ど店もないようなひっそりとした道に佇んでいた。


 こんな所に駄菓子屋なんかあったか……?

 そう疑問に思ったが、引き籠っていた間に少し街並みが変わってても

 おかしくはない。

 風鈴の音につられるようにして駄菓子屋に入ると

「いらっしゃあい」

 と、店の奥の方から椅子に座った小柄な婆さんが間延びした声をかけてきた。

 軽く会釈をして商品を見る。

 あんずボー、ポテトフライ、モロッコヨーグル、懐かしい物ばかりだ。

 一つ一つじっくり見ていると、その中に見た事の無い小瓶があった。

 何も書いていない透明な小瓶の中には青色の煙の様な物が入っている。


「婆さん、何だこれ」

「んん、それはね。思い出だよ」

「は」


 聞き間違いか?

 いや、この婆さんもしや呆けているのか。

 にこにこしている婆さんに色んな商品を掲げて見せる。


「これは」

「鈴カステラ、50円」

「これは」

「さくら大根、美味しいよ」

「これは」

「おばけ煙、擦ってみんさい」

「これは」

「思い出」

「いやおかしいだろ」


 さっきも聞いたのにあんた呆けてるのかね、と逆に笑われ混乱する。

 なんだ、思い出って。明らかに一つだけおかしいだろ。

 いやそういう流行があるのか?

 全然分からない。

 小瓶と睨めっこしても何も分からず、婆さんに問いかけた。


「……なあ婆さん、この思い出ってやつはどう使うんだ?」

「中のその煙を鼻から吸うんだよ」


 ……………。

 待て、これは良くない物ではないのか。

 鼻から得体のしれない物を吸うのは確実にアレではないのか。

 駄菓子屋が犯罪を助長する事なんてあっていいのだろうか。

 思わずそっちの方向に考えが行ったのを見透かしたように、

 婆さんが話しかけてきた。


「変なものじゃないよ、香り玉みたいなもんさ」

「ああ……香り玉な……」


 煙だけどな……と思ったが、好奇心を掻き立てられたのは確かだった。

 まあ危ない物を駄菓子屋が置いている訳無いだろう。

 不安と期待と幾つかの駄菓子と共に、“思い出”を婆さんの元に持っていく。


「思い出が300円か……」


 会計時に思わず漏れた声に婆さんが笑う。

「子供の世界で300円はなかなか高価だよ」

「はは、そうだな。どうも」

 そう言って立ち去ろうとした時、婆さんの楽しげな声が聞こえた。


「思い出は体が覚えているものさ」


 振り返っても、婆さんはただ笑って手を振っているだけだった。

 店を後にして炎天下の道を歩く。

 近くの公園で駄菓子を食べようかと思ったが、いかんせんこの気温だ。

 公園ではしゃぐ子供達の声を聞きながら気力を振り絞って帰路を急いだ。


 家につくと同時に汗で張り付いた襯衣を脱ぎ、風呂場で水を浴びた。

 服も麻の物に着替え、先程購入した駄菓子を持ち、書斎に向かう。

 椅子に座ると同時に机に駄菓子を広げると、高揚感に駆られた。

 子供の頃は少ない金額でいかに多く買うか悩んでいたものだが、

 大人になった今はこうして好きなものを好きなだけ買えるようになってしまった物悲しさも少し感じる。

 手に取ったモロッコヨーグルを木べらで掬い、口に含んで独特のジャリジャリした食感を楽しんでいると視界にあの小瓶が映った。

 木べらを咥えたまま小瓶を窓から差し込む光に照らすと、

 青だと思っていた煙が色んな色に変化した。

 予想外の美しさに暫くの間無心で見つめ続け、このまま観賞用にしてしまおうかと思ったがあの婆さんの言葉が気になる。


 鼻から吸う、だったか。

 傍から見たら通報されてもおかしくは無いが、悲しい事に止めてくれる様な妻や子供や友人はいない。

 意を決して小瓶の蓋に手をかける。

 ……思ったより硬いな。

 力一杯に捻っていると一気に蓋がぽんっと空いた。

 集中して息を止めてた為に空いた瞬間鼻から大きく息を吸ってしまった。


 ああ、何だろう。

 懐かしい匂い。

 紙の匂いと、夕暮れの匂いと、あと……

 そう思った瞬間に頭の中に映像が雪崩れ込んでくる。

 いや、映像というべきか、これは。


 幼い頃の俺が本を読んでいる。

 俺はそれを遠目から見ている。

 だが、肉体は違うのに彼の感情が緩やかに流れてくるのを感じる。


 そして彼が一頁捲った瞬間、自分の中に滝の様に感情が溢れてきた。

 感動、驚愕、興奮、幸福感……

 留めなく溢れてくるそれは息が詰まる位で。

 幼い俺は目を輝かせ、その頁を見つめている。


 ああ思い出した、あの感覚。

 映像も音声もない、ただの文字だけで心を揺さぶられた衝撃。

 喉の奥から溢れだしそうになる位のあの感情は言葉に出来ない。

 この作品を書いた作者こそ魔法使いだと思った。

 母が俺を呼ぶ声がする。

 幼い頃の俺は本を片手に階段を駆け下りていって、母に言った。



「俺、俺さ、小説家になりたい!」



 そこで目が覚めた。

 夢を見ていたような感覚で、目の前の空の小瓶を見つめる。

 そうだ、俺はあの時に小説家になりたいと思ったんだ。

 必死に苦手な国語を勉強して、本も沢山読んだ。

 そう努力している内に大切なものを見失っていた。


 机の上にある携帯が鳴り、電話に出る。


「もしもし」

「あっ先生、締め切りについてなんですが……」

「なあ」

「はい?」

「俺な、魔法使えるんだ」

「は」


 電話を切り、万年筆を握る。

 今朝机に向かっていた時の迷いはもうない。

 カーテンの隙間から差し込んだ光が柔く原稿用紙を照らした。

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思ひ出を嗅ぐ saw @washi94

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