5-7、あの日の真実

 

 ——記憶が再生される。


 イリスは森の中を歩いていた。

 背中には大鎌ファンタズマを担ぎ、手には無造作に怪物の首を握っている。おれはその首に見覚えがあった。凶暴そうな狼の首——変異狼ワーウルフの首だ。怪物退治の帰り道だろうか。


 イリスは今にも倒れそうな足取りで、血が滴る変異狼ワーウルフの首を引きずっている。激しい空腹感はいつもの通りだが、この時はなぜか深い疲労感にも襲われていた。

 ただ疲れているのではない、前に進むだけの気力が全く湧かないのだ。水源が枯れてしまい、干上がる前の泉のようだ。


 変異狼ワーウルフの首を落とすと、イリスはその場にしゃがみこんで木の幹にもたれかかった。張り詰めた糸がプツンと切れたみたいだった。


『モウ イイカナ』


 イリスは自分の膝に顔を埋めたまま呟く。


『モウ ツカレタ イキテテモ イミナイ ワタシハ イラナイ』


 これまではお腹が空くと何かに取り憑かれたように食べ物を探し求めていたが、この時はどれだけ空腹になっても動こうとする気力が湧かなかった。

 生きようとする意思がイリスの中から消え去ったのだ。

 どれだけ歩いても

 どれだけ頑張っても

 彼女は安寧の場所に辿り着くことはできなかった。

 裏切られ、退けられ、弾かれ、それでもさ迷い歩いてきたが、ついに心の全てが消耗され尽くしたのだ。


 おれはなんとか声をかけようとするが、おれの意識は完全に隔離されている。ただ彼女の過去を窓の外から見ているだけしかできないのだ。

 イリス、ダメだ、生きてくれ。

 声を届ける方法はないのか。彼女の記憶の中に潜り込むことはできないのか。


 イリスの意識が闇の中に落ちようとした時、近くに動くものの気配を感じてとっさに体が動いた。立ち上がると同時に大鎌を抜き、ドラゴンの爪のように鋭利な刃をそいつに当てる。


 瞬間、おれは驚愕の余り意識だけの状態で声を上げた。

 そこにいたのは、紛れもない姿だったからだ。


 ドブネズミの毛みたいな薄茶色の髪に、濁った黒の瞳。あどけなさが抜け切れていない顔は、見ていると笑えてくるほどに恐怖で青ざめている。

 今見ている記憶は、あの時のものだったのだ。変異狼ワーウルフが巣食う森で、おれとイリスが出会った時の記憶。あまり時間は経っていないのに、懐かしさすら感じる出会いの時。

 あの時のおれは、こんな情けない顔をしていたのか。

 あの時のイリスは、これほど追い詰められていたのか。


 イリスの目と、おれの目が合う。赤の瞳と黒の瞳が溶け合うように混ざっていく。世界が螺旋に渦巻いていく中で、おれは自分の体の感覚が戻っていくのを感じ取っていた。

 意識だけだった体に手や足の触感が戻ってくる。赤と黒の渦はゆっくりと動きを止め、赤色だけが残った。


 いつの間にか、おれはイリスの真紅の瞳を覗き返していた。

 首筋にヒヤリとした刃の冷たさを感じる。おれは記憶の中の自分の体に戻っていた。


「イリス」


 おれが彼女の名前を呼ぶと、イリスは驚いたように体を震わせた。

 首に突きつけられた刃の側面を掴んでどかすと、おれは立ち上がる。脇に転がっていた自分の荷物袋を拾うと紙包みを取り出した。

 おれは丁寧に包みを開けると、中からパイが出てきた。


「これ、覚えてるかな。イリスに初めて食べてもらった、おれの手作りのパイだ」


 パイ生地の中には、ベーコンと卵と玉ねぎが詰まっている。この三種類の具材は不思議な程に好相性で、手を繋いで踊ると豊穣をもたらすとされる水と土と風の妖精のようだと勝手に思っている。

 おれがパイを差し出すとイリスは大鎌を置き、恐る恐る両手を伸ばした。パイを受け取ると、じっと見つめた後に小さく口を開いて齧り付く。

 一口目を飲み込むと、今度は大きくかぶりつく。食べるごとに勢いを増して、彼女に生気が戻ってきているようだった。


「……忘れるわけがありません」


 そう呟くイリスの真紅の瞳から、大粒の涙が零れ落ちる。


「ラッドくんが作ってくれる料理は、全部、全部おいしくて、食べると心もお腹もぽかぽか温かくなりました。ラッドくんの料理を食べている時が、一番幸せな時間でした」


 イリスが顔を上げておれを見た。彼女の目は涙で滲んでいて、今にも溶けて消えそうな儚さを秘めていた。


「だから、わたしは恐かった。わたしの汚れた過去を知ったあなたが、いなくなるのが、恐かったんです」


 おれはイリスを見つめながら首を横に振る。


「おれはここにいるよ。お前が過去にどんな目に遭って、どんなことをしてしまったのか……全部知ったけど、変わらずここにいるよ。お前が嫌だって言っても、来るなって言っても、近くにいるよ」


「! そんなこと、言うはずがありませんっ」


「じゃあ、おれはイリスと同じ気持ちだよ」


 おれは顔いっぱいに笑って、繰り返す。


「同じ気持ち」


 イリスは何かを言おうとして口を開け、しかし恥ずかしそうに顔を背けた。


「……ですか」


 俯くイリスが小さな声で呟いた。聞き取れなかったので尋ねようとすると、彼女は顔を上げて意を決したような表情で言った。


「いいんですか……! あなたの隣が、わたしの居場所だと思っても、いいんですか……!」


 涙に濡れながら、それでいて確かな意思が感じられる表情だ。おれが初めて見るイリスの顔だった。

 きっとこの子は精一杯の勇気を込めて言ってくれたのだろう。


 利用され、切り捨てられ、傷つけられ、孤立して、たった一人で嘆きの道を歩き続けてきた少女が、思い切って違う方向へ一歩を踏み出そうとしたのだろう。

 その願いに、答えないわけにはいかない。

 ううん、その願いは、おれの願いでもあるから——


「おれはずっとそのつもりでいたよ。確かにお前は大変な過去を歩んできたけど、これから歩く道、お前の未来は誰にもかわいそうだって言わせない。お前が味わってきた悲しみと同じくらい……ううん、それ以上におれはイリスを祝福するよ。生まれて、生きて、おれと巡り合ってくれてありがとうってね!」


 笑顔でそう答えると、イリスが涙を拭っておれの胸に飛び込んできた。おれは両手を広げて受け止めようとする。

 記憶の中の景色が消える。血の色の糸に拘束されていたイリスの体が解放されたのはほぼ同時だった。彼女は、悲しみの記憶から解き放たれたのだ。


 おれはしっかりと、力強く、彼女の小さな体を受け止める。均衡バランスを崩して背中から倒れてしまったが、おれはイリスを手放さなかった。


「ただいま、ラッドくん」


 イリスがおれの胸の中に顔を埋めながら呟く。


「……おかえり、イリス」


 おれは彼女の灰色の髪に頬を寄せて答えた。

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