幕間(???視点)、嘆きの夜が始まりを告げる


      ◇  ◇  ◇ 



 わたしは痛む傷を押さえながら、真っ暗な森の中を歩いていました。

 ラッドくんたちと一緒に行った山まで逃げて、どうにか追ってくる人たちを撒くことができたようです。


「お腹が、すいた……」


 斬りつけられた傷よりも、今はお腹の方が苦しく感じます。どうしようもない空腹感を味わうのは久しぶりです。隣にはずっと、おいしいご飯を作ってくれるラッドくんがいたから。

 わたしはお腹を押さえながら、木にもたれて倒れ込みました。唾を飲んで、ぐるぐる鳴るお腹を叩きます。それでも空腹は終わりません。


 小さな頃を思い出します。

 わたしがまだ小さかった頃は、ずっとお腹がすいていました。

 疫病で畑の野菜が全部腐ってしまい、食べる物がありませんでした。馬を食べて、犬を食べて、鼠を食べて、あとよくわからないお肉も食べました。それでも足らないので、草を噛んで気を紛らわせました。


 ある日、お父さんとお母さんが綺麗な真っ白な服を持ってきてわたしに着せました。そして自分たちが指示した通りに振る舞うようにと言いました。

 わたしは少し離れた村に行き、そこの村の人たちの前で「井戸のそばに宝石が埋まっている。神様からの贈り物だ」と言いました。村の人たちが笑いながら冗談半分にわたしが言った通りにすると、そこには真っ赤な宝石が埋まっていました。


 すぐにわたしは奇跡の巫女だと騒がれました。あっという間にわたしの周りには人が集まり、『黄昏ノ教団』という集団ができました。

 後から知ったことですが、お父さんが偶然崖から落ちた貴族の馬車を見つけて、そこに乗っていた女の子の服や首飾りの宝石を奪ったみたいです。そして昔教会で下働きをしていたお母さんが、わたしを巫女にすることを思いついたようです。

 お父さんとお母さんは、一粒の宝石を種に富の木を育てる方法を知っていたのです。


 わたしは、集まってくれた人たちが幸せになれるように頑張りました。

 お金持ちの人もいたので、その人から分けてもらったお金を貧しい人にあげました。困ったことがある人から相談も受けました。

 その頃にはご飯もたくさん食べられるようになりました。だけどいくら食べても、お腹がいっぱいになることはありませんでした。何を食べても砂を口にしているようでした。


 ある日、教会の異端審問だと言う人たちが来てわたしたちを捕まえました。お父さんやお母さん、身近にいた人たちは「あの娘が首謀者だ」とわたしを差し出して、自分たちを助けてくれるようお願いしていましたが、鎌で首を切られてしまいました。

 そしてわたしは磔にされました。嫌だったのは、優しくした人たちから「騙された」と叫ばれて石を投げられたことです。


 火に炙られて、苦しくてもがいていると悪魔の声が聞こえました。暴食の悪魔ベルゼビュートと契約をした後のことは、よく覚えていません。お腹がすいて、お腹がすいて、気がついたらわたしはたくさんの死体が落ちている中で立っていました。

 恐くなって逃げ出して、しばらくはお店の売り物を盗んで生きていました。怪物を倒したらお金がもらえることを知ってからは、少し余裕ができて色んな食べ物を買って食べることができました。


 だけどやっぱり物足りなくて、買ったものを食べても食べても空腹が収まらなくなってきた頃に、わたしはラッドくんと出会った。

 ラッドくんが作る料理はどれもおいしくて、それでいて温かくて、食べていると幸せな気持ちがわたしの中に流れ込んでくるようでした。


 いつまでもこんな日が続けばいいな、とそう思っていました。


 そう、願っていました。


「ラッドくん、会いたいよ……!」


 わたしは服に顔を埋めて呟きました。

 だけどわかっています。もう二度と彼とは会えないことぐらい。

 わたしの過去を知られてしまった。吐き気がするような、汚物のような過去を。

 彼がわたしを逃がそうと助けてくれたのも、彼が見せてくれた最後の優しさに決まっています。汚れたわたしと一緒に旅をしたことなんて、忘れたい記憶に違いありません。


 死ななければならない理由がわからないなんて言いましたが、そんなのは嘘っぱちです。汚れた醜いわたしなんて、死んだ方がいいことぐらいわかっています。

 わかって、いるのです。


『……小娘、貴様に落ち込んでいる時間などないぞ。すぐに耐えられぬほどの空腹の波が押し寄せて来るだろう。傷はすでに癒えたはずだ。立って獲物を探せ。それが我との契約だったはずだろう』


 耳のそばで蠅の羽音が聞こえました。

 顔を上げるまでもなく、そこに誰が——いいえ、何がいるのか理解できました。


暴食の悪魔ベルゼビュート


 わたしはそいつの名前を呼びました。

 そう、わたしが契約をした悪魔です。そいつが付かず離れない距離にいることはなんとなく察知していました。でも、話しかけてきたのは初めてです。


「これで満足ですか? わたしが苦しんで、満足ですか?」


 わたしは半ば八つ当たりのように言いました。


『違うな。我の満足は貴様がを目指して進んでいく過程にこそある。そうやって無様に嘆いていても、我の腹の足しにもならぬ』


 闇に紛れて見えませんが、暴食の悪魔ベルゼビュートは羽音を立ててわたしの周囲を飛び回っているようでした。


『それに、我がこうして姿を現してやったのは警告のためだ。この島には悪魔と同等か、いや、それ以上の魔力が渦巻いている。そのように弱っていては、貴様など餌になってしまうぞ』


 一体暴食の悪魔ベルゼビュートは何を言っているのでしょうか。

 悪魔以上の力。そう聞いて真っ先に思い出すのは、あの女です。わたしの過去を暴き、わたしを倒した盾の女。あいつの氷のような目を思い出して、わたしは身体中が震えました。


「あなたはだあれ? わたしはブレア」


 その時です。聞いたことのない女の子の声が森の中に響きました。

 わたしが顔を上げると、目の前には長い青の髪の女の子が立っていました。何か恐ろしい気配を纏っているようでしたが、不思議と恐怖は感じませんでした。


『おい、小娘! 答えるな。そいつは——』


「わたしはイリス」


 焦った様子の暴食の悪魔ベルゼビュートの言葉を無視して、わたしは女の子に返答しました。


「そう。イリスちゃんというのね」


 女の子は無邪気に笑います。


「ねぇ、あなたは悲しい? どうしようもなく悲しいの?」


 女の子がわたしの顔を覗き込んで尋ねてきました。

 自分の頬を触って、どうやらわたしが泣いていたことに気がつきました。涙で濡れた後があります。


「そう……ですね。多分、悲しいのだと思います。大切に思っていた人と別れなくてはいけなくなり、とても、とても、悲しいのだと思います」


 そうだ。この感情を悲しいと言わずしてなんと言うのでしょうか。自覚をした途端、また目から涙が溢れてきました。


 悲しい。


 悲しい。


 悲しい。


 ラッドくんに嫌われてしまうのが悲しい。


 ラッドくんのご飯が食べられなくなるのが悲しい。


 ラッドくんと会えなくなるのが悲しい。


「あなたも大切な人と離れ離れになってしまったのね。わたしもそうなの。あの人の心はここにない。だからあなたと一緒」


 女の子がわたしに手を差し出して、にっこりと笑いました。


「さぁ——イッショニオドリマショウ?」


 その目と口の中は空洞になっていて、深い闇が渦巻いていました。見ていると、吸い込まれてしまいそうな深い闇が。

 その闇に飲み込まれて楽になってしまいたいと思う一方で、わたしの頭に残った最後の冷静な部分が理解しました。


 ラッドくんと一緒に見た人形劇です。双子の姉妹が一人の少年に恋をして、勘違いから自ら命を絶ってしまった悲劇の話。一人は豊穣の神サフィアとなり、一人は悲嘆の魔女ブレアとなった。サフィアは毎年一人を選び、五月女王メイクインとして祝福を授ける。そしてブレアは一人に目をつけ悲嘆魔女ブレアウィッチとして呪いを与える。

 五月女王メイクインにはラッドくんが選ばれました。そして悲嘆魔女ブレアウィッチには——


『小娘、正気に戻れ! そんなものに身を委ねれば、この島どころではない。世界が——』


五月蝿うるさい」


 わたしは宙を飛ぶやかましい蠅ベルゼビュートに手を伸ばし、握り潰す。これでもう、わたしを邪魔するものはいない。

 もう片方の手で女の子の——ブレアの手を取る。

 あれほど苦しかった空腹が嘘のように消え、代わりに胸からこぼれ落ちるばかりの嘆きが湧き上がってきた。


「アハッ」


 わたしは立ち上がると、両手を広げて木々の隙間から見える夜空を見上げる。両目からはとめどなく涙が溢れ、わたしの体を濡らしていった。

 わたしは泣いた。笑いながら泣いた。


 悲しい!


 悲しい!


 悲しい!


 これほど悲しいのならば、もう何もいらない。全て、全てをこの手で滅ぼそう。


「アハッ、アハハハハハハハハ!!!!」


 高らかな笑い声が闇の中に響く。

 そう、わたしは悲嘆魔女ブレアウィッチ。悲しみの涙で世界を洗い流す魔女。


 

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