3-11、さよならの時間
無理だ。
おれなんかが敵うはずがない。
こんな震える手で、こんなちっぽけな
いや、そもそも戦う必要があるのか? だってイリスはたくさん人を殺した大罪人だ。おれが彼女をかばう理由なんてない。
そう、イリスと一緒にいる理由なんて……
「ラッドくん」
背中からイリスの声が聞こえ、おれは身を震わせた。
イリスはおれの前に出ると、振り返ってじっとおれの顔を見る。鮮血を思わせる真紅の瞳が光を反射する。まるで、おれの迷いを見透かされているかのようだった。
ふっとイリスの表情が和らいだ。悲しみの中で、何かを許したような感情が見て取れた。
「いつか、こんな時が来ると思っていました」
イリスが小さな声で呟いた。
「わたしの過去を知られて、一緒にはいられなくなる時が来た。だからお別れです。もうあなたは、
そしておれは見た。
イリスの深紅の瞳から、一滴の涙が零れ落ちるのを。
「さよなら、ラッドくん。わたしは——あなたが作る料理が大好きでした」
おれが名前を呼ぶ前に、イリスは身を翻した。まるで涙を隠すかのように。
おれは何も答えられなかった。いろんな感情がぐちゃぐちゃに混ざって、自分が何を考えているのかわからない。
イリスはクローディアへ向けて歩きながら、背中の鎌を抜いた。イリスは戦う気だ。クローディアと、そして数十人の騎士たちと。
「クローディア様。ここは我々も……」
「いい、下がれ。私一人で十分だ」
一歩前に踏み出した騎士を、クローディアは手で制して止める。
それだけ自分に自信があるのだろう。だが、イリスは並の強さではない。
「どうやら、おとなしく投降してはくれないようだな。悪魔にすがり、血をすすり、それでもまだ醜く生にしがみつきたいか。潔く、美しい死を選ぼうとは思わないのか」
クローディアが冷淡な声で言った。
「美しい死なんて、どこにもありません。死んだら終わりです。魂が抜けたただの肉塊になるだけ。望んでそんなものになろうという人はいない」
イリスは淡々と答える。
「それに、わたしは血をすすったことなんてありません。どうせ食べるなら、おいしいものを食べます。お前が現れなければ、そんな日が続くはずでした」
「フン。他人を騙し、手に入れた偽りの安寧はよほど居心地が良かったと見える。だが、悪事は必ず暴かれるものだ。もはや貴様に逃げ場はない」
イリスが足を止めた。クローディアと向かい合い、無言の時間が流れる。空気が張り詰めていた。ほんの少しの刺激が弾けてしまいそうなほどに。
緊張に耐えられなくなり、おれは無意識のうちに後ずさる。靴と地面が擦れる音が小さく鳴った。それが合図となった。
「お前が邪魔だ!」
「ほざけ異端が!」
イリスが叫び、クローディアが吠えた。
大鎌と盾がぶつかり合い、甲高い金属音が響く。続いて二人の間で衝撃が生まれ、おれは尻餅をついた。
始まった。
始まってしまった。
初撃を防がれたイリスは、体を回転させて逆方向から鎌を振るう。だが、その動きに対応したクローディアが盾を当てるようにして刃を止めた。
本来、盾で鎌の攻撃を防ぐことは難しい。湾曲した形状から、鎌は盾を回り込んで敵に傷を与えることに長けているからだ。ましてや、イリスの大鎌はリーチが長い。盾持ちを相手にした戦いは得意なはずだ。
だが、クローディアは精密な盾さばきでイリスの大鎌を防いでいく。恐るべき速さで動く鎌の切っ先に正確に合わせたかと思えば、刃の腹を恐れもなく受け止める。
イリスは困惑しているようだった。それもそうだろう。彼女の鎌は一撃必殺。どんな敵の命も刈り取ってきたのだ。それが全て弾かれ、流されている。初めての経験に違いない。
イリスは考え方を変えた。空中に飛び上がり、大上段から鎌を振り下ろす。どうせ防がれるなら、盾の上から強烈な一撃を加えようとしているのだろう。
クローディアは受けることはせず、一歩下がって回避した。イリスの大鎌の刃が根元近くまで地面に刺さる。
隙だらけになったイリスに、クローディアは左手に持つ剣で斬りかかる。イリスは躊躇なく鎌を手放すと、後ろに跳んだ。
「おいで、
呼びかけに応え、地面に刺さっていた大鎌が浮遊しイリスの手元まで戻っていく。
巨大武器を振るった後の隙がイリスにはない。生きた大鎌ファンタズマはイリスの手を離れても自在に動き、何度でも彼女の手の中に戻ってくる。
「なるほど。厄介な武器だな」
クローディアは言葉とは裏腹に、口元で微笑を浮かべる。いくらでも余裕を残しているからだ。
嫌な予感が全身を駆け抜けた。
イリスが再び突っ込み、大鎌を振るう。盾を突破できるまで何度でも繰り返す気だ。クローディアがイリスの攻撃を盾で受けた瞬間、獣の咆哮のような音が響き衝撃波が生まれた。
攻撃を受ければ受けるほど、その身に衝撃を溜め込む盾『バングリア』の能力だ。
イリスの鎌は衝撃に弾かれ、大きく後ろに飛んでいく。
「ファンタズマ!」
大鎌の名を呼び手元に戻そうとするが、間に合わない。無防備な状態のイリスにクローディアの剣が叩き込まれた。
「く……あ……!」
イリスが声にならない悲鳴をあげた。体から鮮血が吹き出し、膝をつく。大鎌を杖代わりになんとか体を支えているが、相当深い傷を受けたようだ。
おれはイリスの名前を叫びかけ、喉の奥で押しとどめた。
だめだ。今彼女の身を案じてしまえば、おれも標的とみなされてしまう。そうなれば、おれなんて鼠を踏み潰すように殺されてしまう。
「勝負あったな」
クローディアが剣の切っ先を、倒れかけたイリスに突きつけ宣告した。
「膂力があり、場慣れもしている。だが、技術の研磨と戦闘の勘がまるでない。これで私と貴様の戦力差がわかっただろう。おとなしく投降するんだ。貴様の命は、衆目を浴びて見せしめとして死んでいってこそ価値がある」
「い……や、だ」
イリスは大鎌を頼りにしながら、震える体で立ち上がる。
「なぜだ。なぜ貴様はそれほど自分の命に執着する。諦めれば楽になることもあるだろう」
「だって……だって、わたしは……」
イリスが顔を上げ、クローディアの顔を真っ直ぐ見ながら言う。
「だってわたしは、どうしてわたしが死ななきゃいけないのか、わからない……!」
その言葉は、クローディアの感情を昂らせたようだった。
「なぜ死ななければならないのかわからないだとっ!? ふざけるな! 貴様は神を冒涜する邪教を率いた上、多くの人間をその手で殺めた歴史に残る大罪人だ! むしろ貴様はなぜ生きている!? なぜ価値のない命を無駄に残そうとしている!? 誰も貴様の生など望んでいない。ただ罪を悔いて死ね。それが世界の意思だ!」
クローディアは何かに取り憑かれたような勢いでまくし立てる。
「投降する気がないのならば、今この場で殺してやろう。体は火で燃やし尽くし、首は聖都で晒してやる」
一歩ずつ近づきながら、剣を振り上げるクローディア。その剣がまさにイリスに向けて振り下ろされようとした瞬間、おれの体は勝手に動き出していた。
踏みとどまれ、何もするなと頭の中で声がしたが、なぜかおれの体は止まらなかった。
剣を頭上に掲げるクローディアの左手にしがみ付き、動きを封じる。
「貴様、ラッド! 邪魔をするな!」
クローディアが苛立ちの声を上げた。
普通に動いては、おれなんかがクローディアに触れられるわけがない。だが、おれには人の意識の隙間がわかる。誰も自分に注目していない瞬間や、他人の目が一つの場所に集中している時間だ。その間だけ、おれは自由に動くことができる。
自由に動けて、なぜこんな行動を取ったのか自分でもわからない。
わからないが、体が動いてしまったのだ。
「イリス、逃げろ!」
おれはクローディアの左手にしがみ付きながら叫んだ。
「早く逃げるんだ! お前ならいけるはずだろ! お前は誰よりも自由に動け——」
言葉の途中で、おれは衝撃波を真正面から受けて地面に叩きつけられた。体がバラバラになったみたいだった。息をすることもできず、視界が黒く閉じられる。
頭をしたたかに打ったせいか、意識が急速に遠のいていくのを感じた。消えかけの意識の中で、「絶対に逃がすな!」「全員で追え!」と混乱する声が聞こえてくる。
イリスはうまく逃げてくれただろうか?
ぼんやりとした頭で考える。
なぁ、イリス。
クローディアは誰もお前の生なんて望んでいないって言ってたけどさ、おれは違うんだ。
なんでだろうな。お前が邪教を率いてたとか、たくさん人を殺したとか聞いてもさ、お前が言った「なんで死ななければいけないのかわからない」って言葉がすごく胸に響いたんだ。
だからきっと、おれはお前に生きていてほしいんだと思う。
だけど、なんて言葉をかけたらいいかわからないんだ。なんだか遠い存在になっちまったお前に、おれは何を伝えたらいいかさっぱりわからないんだ。
なぁ、イリス。
おいしいご飯を作って一緒に食べたら、また一緒に笑えるの、か……な……
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