幼年期の恋の終り

サトウ・レン

幼年期の恋の終り

 青年の姿を初めて見たのは少女がまだ軍靴の響きに怯えていたころのことだった。疎開先で宿舎代わりとして使わせてもらっていたお寺を訪れた青年の、粗野さを持たない優しいまなざしに、こんな状況でそんな想いを抱いてはいけない、と自分を戒めながら、胸の高鳴りが収まる気配はなかった。


 また会える、また会える……。


 野辺に咲く花を見ながらそう願う物静かな少女は、その想いのみを拠り所にしてあの時代を生きた。疎開先で青年と会ったのは、そのたった一度きり。しかしあのくらがりの中に射した一条の光はいつまで経っても、少女の心から離れずにいた。


 少女の時代も一瞬だったかのように流れて行き、いつしか彼女は周囲から老女として見られる年齢になっていた。


 どうやって会いに行けばいいのか……、手がかりも分からないまま、ただ漠然と時間だけが過ぎていくその日々の中で、彼女は若き日の彼の面影を残すひとを見つけた。間違いないこのひとだ。


 だいぶ老けてしまっているけれど、自信がある。まぁ老けたのはお互い様か……と彼女は自嘲気味な気分にとらわれる。


 これは断じて恋心などではない。そんな今更、感傷的な気分に浸るような年齢でもない。あの時代の生きる糧となった彼への感謝を伝えたいだけなのだ。


 彼女は気付けば、彼の肩を叩いていた。


「あの……」という呼びかけに振り返った彼の穏やかな微笑みが、あの日の青年の表情と重なる。


 あぁ……。


 感謝、これは言い訳だ。彼女はあの日とは寸分も違わぬ胸の高鳴りに困惑していた。



     ※



 就職してからなので、もう三年くらい経つだろうか。ぼくの暮らしている老朽化の進んだアパートは意外にも住み心地が良い。ネズミやゴキブリも定期的に出るし、お世辞にも綺麗な外観はしていない。さらには幽霊も出ると聞くが、残念ながらぼくはまだ出会ったことがない。ちょっと会ってみたい気はするかも……。友人や恋人を呼んだ際には、あまりもう来たくない、と言われてしまうこともあったので、客観的に見ればやはり住み心地の良い場所とは言えないのだろう。「よくこんなところに住めるね」と失礼な友人たちには口々に言われたけれど、嫌な想いをしていたのは最初の数か月くらいで、それ以降はずっと快適だった。


 家賃が安いことを理由に選んだ場所だったけれど、何よりも嬉しいことがふたつある。まずは両隣の住居者がいないことだった。騒音に悩まされることもなく、隣の部屋との諍いに気を付ける必要もなかった。


 そしてもうひとつが、


「あら、伊藤君、お出かけ? めずらしい、こんなに早い時間に」


「あぁ大家さん。……ちょっとコンビニまで」


 アパートの大家さんがとても優しいことだった。他の住居者には以前「距離感がやけに近くないか……」と悩み事を打ち明けられるように言われたことがあるけれど、田舎町で生まれ、異常に距離感の近い世界――なのだ、とここ最近、知った――で育ったぼくからすればどこにでもいるひとの範疇を出ないどころか、親しみのある大好きな性格だった。


「あっ、本当に!」大家さんが目を爛々とさせて、「じゃあ、醤油も一本買ってきて」とぼくの手を握るように千円札を渡してくれた。


 大家さんはもう80近いおばあさんだったけれど、年齢よりもずっと若い外見をしている。アパートの一階に住んでいて、よく声を掛けてくれた。人懐っこい笑顔が印象的で、怒っているところが想像できない。


 以前住んでいたマンションでは管理人と喧嘩して、険悪な関係になってしまったので、今ぐらいの関係でいられることが本当に嬉しかった。


「分かりました。じゃあ、買ってきたら大家さんの部屋に持っていきますね」


 ぼくが大家さんの姿を実際に目にしたのは、これが最後だった。



     ※



 大家さんの部屋には何度か訪ねたことがあったけれど、こう……なんというか懐かしい気分にさせるような趣きの部屋、と言ったらいいのだろうか。使われているものが年代物ばかりで、置かれているどれもこれもが色褪せている感じがする。スマホどころか携帯さえ持っておらず、もう壊れて動かなくなっているポケベルが箪笥の上に置かれているくらいだった。以前ぼくがそれを物珍しそうに見ていると、


『あっ、それね。実はほとんど使わないまま壊れちゃって、もうずっとそこに置きっぱなしなの』


 と笑っていた覚えがある。テレビは液晶のテレビが置かれているのにも関わらず、部屋の片隅にはコードを繋いでいないブラウン管のテレビも打ち捨てられるように置かれていた。ブラウン管に関しては見たことがあるので何とも思わなかったのだけれど、部屋に出したままにしていることを不思議に思っていると、


『あぁそれももう壊れて動かないんだけど、どうも捨てられない性分なのよね』


 と、これも笑いながら言っていた覚えがある。部屋に入った時と帰る時でブラウン管テレビの置いてある位置が変わっているような気がしたけれど、勘違いだろう。ぼくと大家さんが何ひとつ触っていないのに動くはずがない。


 とりあえずそんな部屋だ。


 コンビニでの買い物を済ませてアパートに戻ると、ぼくは真っ先に大家さんの部屋へ向かった。玄関のドアをノックしても大家さんからの反応はなかった。よくイヤフォンを付けながらラジカセで音楽を聴いていて、ノックの音に気付かないこともしばしばあったので、窓越しに部屋の電気が付いているのを確認して、ぼくはドアノブを回した。


 がちゃり、と何事もなくドアは開いた。


「大家さーん」とすこし大きめの声を出しながら、玄関で靴を脱ぐ。誰かがいる気配はなかったので、もう一度、「大家さーん」と声を掛けてみる。

 

 ふぅ、とひとつ息を吐いて、ぼくは手に提げたコンビニの袋を軽く揺らした。かさかさとちいさく擦れるような音がする。


 声が返ってくることはなかった。


 ただの不在。それだけのはずなのに、嫌な想像が頭をよぎる。こびりついた不安を剥がすように居間へと向かう。誰もいなかった。居間は畳敷きになっていて、その端にはたたまれた布団。常時真ん中に置かれているテーブルは壁に立て掛けられている。


 いつもの場所で感じられる、いつもは抱くはずもない違和感。


 その正体に気付くのに時間は掛からなかった。


 綺麗だ……いつもよりも綺麗に部屋が整頓されている。普段はもうすこし雑然としていたはずだ。


 ちょっと用事ができて出掛けているという雰囲気ではない。


 ブラウン管のテレビが置かれているほうに目を向けると、突然、テレビの下に敷かれていたビデオデッキからテープが吐き出されていく。誰かが触ったわけでもなく、ひとりでに。コードは以前までと同じように繋がれていない。


 驚き、そして慄きながらも、誘われるようにテレビのほうへ向かう。


 ぼくが近付くとそれに抗うようにテープはのみ込まれていく。無機物ではなくそれは生物のようで、映り出された画面を覆う砂嵐はぼくへの威嚇にしか見えなかった。


 そして……、


 叫び声が聞こえた。



     ※



 初恋の相手との数十年振りの再会に、彼女の心は千々に乱れた。こんなはずではなかった。声を掛ける前には想像すらできなかった自分自身の心情の揺れに、彼女は戸惑ってしまった。


 彼女の前にいるのは銀縁眼鏡を掛けた白髪の老人であり、特別容姿が優れているわけではない。あの日の記憶がなければ、目を惹かれることもなく通り過ぎるだけだったはずの相手だ。


 想像の中の再会はいつもすこしだけ苦味の残る結末だった。時間を経た彼の姿に落ち込み、色褪せた記憶を浄化する。生きるための、よすがにしていたあの日々の彼に感謝の想いだけを残して、過去と決別するような未来ばかりを想像していた。


 なんでこんな年齢になってまで独身を貫いたのだろう、と過去に唾を吐くように。


 分かりやすい幸せとは無縁だった彼女にとって、不幸を気取っているほうがずっと気楽だったのだ。


 ふいに幸福が近付いてくるような感覚があると、彼女はいつもおかしくなる。


 もっと早く再会したかった、と幻滅することもなく、あの頃よりも激しく噴き上がる感情の抑え方も分からずに。


「あなたは……?」


 彼は、彼女のことを何ひとつ覚えていないようだった。当然だ。会話したことなど、一言、二言、あるかないかくらいだった。彼にとっての自分など物語のエキストラに等しいのだ。その事実をはっきりと言葉で告げられたような気がして、彼女は思わず歯ぎしりしていた。


「昔の知り合いですけど、覚えていませんか?」


「本当ですか……すみません、何せこの年齢になってしまうと、どうしても記憶力が」と彼は苦笑いを浮かべた。


「そうですか、残念です」と彼女がほほ笑む。「私も、もうこんな年齢になってしまいましたけど、あなたのこと一度も忘れたことないですよ」


 と、皮肉を口にする。


「いや、申し訳ない」


「冗談ですよ。当時の私はまだ子どもでしたから……」彼女は、彼の指元に目を向けながら、「失礼ですが、ご結婚は?」と聞いた。


「数年前に、家内とは死に別れまして……」


 彼女の不躾な質問にも気分を害した様子はなかった。性格は穏やかな好青年だった頃と何も変わっていないのだろう。羨ましい限りだ。


「そうですか……」


「あ、いえ気にしないでください。もう生活も落ち着いてはいるので」


「では、今はお一人で?」


「えぇ」と頷いた彼の手を握る。最初は驚いていた彼だったが、悪意を持っていないと思ったのか、「ありがとうございます」と言った。


「一人というのも、大変でしょう」


「えぇ、色々と家内に任せっぱなしでしたから」


「もし良かったらうちのアパートに来ませんか?」えっ、という反応をする彼に続ける。「あ、私、アパートの大家してるんですけどね。もちろん、住め、というわけではなく……たまに遊びに来ませんか? 私の部屋に」


 彼は困ったような表情を浮かべている。「うーん」


「別に変な意味はないんですよ。独り身同士、良ければ助け合いませんか。……覚えてはおられないかもしれませんが、私たち、昔のよしみですし……」


 すこし強引すぎたかもしれないが、仕方ない。この機会だけは逃すわけにはいかない。


「は、はあ……。では、今度一度」


「連絡先、交換しましょう。絶対ですよ!」


 数十年越しの恋はあまりにも根強かった。



     ※



 ぎぃええええええええええええええええ。ぎぃええええええええええええええええ。ぎぃええええええええええええええええ。ぎぃええええええええええええええええ。ぎぃええええええええええええええええ。


 鼓膜を突き破るのではないかと思うほど鋭い悲鳴が、何度も途切れながら、ぼくの聴覚を刺激した。


 ぼくはブラウン管テレビのほうへと目を向ける。延々と画面に流れる砂嵐(スノーノイズ)とその絡みつくような不快な雑音がぼくを狂わせる。


 ビデオデッキの挿入口では、ふたたびテープが入ったり出たりを繰り返している。しっかりとテープが入りきることはなく、出入りは中途半端だが、奥のほうへと入るたびに聞こえる叫び声はまるで人間が発しているようだ――映像から悲鳴が流れているわけではなく……。


 ぎぃええええええええええええええええ。ぎぃええええええええええええええええ。ぎぃええええええええええええええええ。ぎぃええええええええええええええええ。ぎぃええええええええええええええええ。


 人……?


 テープに人が閉じ込められているなんて、にわかには信じがたい。でもぼくには、ビデオテープが苦しみながら、もがき、逃げ惑っているようなそれが人間のようにしか思えなかった。


 そして……、


 すごい勢いで動いていたテープの動きは徐々にゆるやかになっていき、その動きに比例するようにテープから発せられていた声も小さくなっていった。声が止むと、テープはデッキの中に完全に呑み込まれてしまったかのように、外へと出てくることはなくなった。


 すると砂嵐にまみれた映像は綺麗にふたりの人間を映し出した。


 それは見慣れた老女と見たこともない老紳士だった。


 手足を縛られ服装を乱しながらも、芋虫のように必死の形相で逃げ惑うその老紳士の姿は悲惨だった。「やめろ。やめてくれ!」


 その映像から流れてくる老紳士の声は掠れていて、ひどく聞き取りにくい。叫び声の主はおそらくこの老紳士だったのだろう。


 それに比べて老女――ついさっき会ったばかりの大家さんは涼しい顔をして、その老紳士を追い掛けている。陳腐だが、狂気に満ちた、としか言えない表情を浮かべている。その表情を見ていると、こちらまでおかしくなってきそうな、そんな……。


「来るな!」


「なんで逃げるの……」


 かなしそうにつぶやく声はぼくの知っている大家さんの声よりもすこし幼く感じる。「逃げないで……」


 大家さんが甘ったるい声とともに老紳士に向けるまなざしは恐ろしいほど澄んでいた。あぁ恋をしているんだな、と思った。ぼくはふたりから目が離せなくなっていた。


「お願いだから」


「嫌だ――」


 大家さんがその紳士の言葉をさえぎるように、キスをする。舌を入れる深い口づけだった。いつまでも続くのではないかと錯覚するようなその行為は意外にもすぐに途絶えた。


 赤い血とともに。


 大家さんの舌を血が出るほどに噛んだ老紳士は這うように、ぼくのほうへと向かってくる。


 画面を飛び越えようとでもしているのか……? 徐々に老紳士は画面内を自分の姿で埋めていき……、


 また画面は、砂嵐の状態に変わった。


 そしてまた挿入口からテープが出てくる。外へと出るには激痛を伴うのかもしれない。またさっきのような悲鳴が聞こえる。


 ぎぃええええええええええええええええ。ぎぃええええええええええええええええ。ぎぃええええええええええええええええ。ぎぃええええええええええええええええ。ぎぃええええええええええええええええ。


 ぼくはビデオデッキに近付きながら、映像で見た大家さんの表情を思い出す。ずっと想い続けてきたひとを見るかのようなその表情は、ぼくにとって思いの外、美しく感じられた。


 大好きなひとのそんな姿が、とても嬉しかった。


 だからぼくは……、


 半分ほど出てきているテープに手を当て、奥へと押し込んだ。


「あなたの最後の恋を応援したかったんです」


 独り言だ。その声はおそらくふたりには届かないだろう。


 ただ画面越しに目が合ったような気がした彼女が、にこりと微笑んだのは確かだ。

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