夏空と雨

ヱノキ

夏空と雨

 雲一つない澄み渡る快晴の下。伝説の勇者たちは眼前にそびえる魔物の軍勢につるぎを向けている。その顔つきはみな一様に清々しい。

 やがて少年は、声高らかに宣戦布告を叫んだ。その迫力に、野鳥の群れが飛び立つ。そして……。


 僕はそっと、携帯の電源を落とした。指紋で薄汚れた画面に、教室の蛍光灯が映り込んだ。

 

「その漫画、面白い?」


「途中まではね」


「ふーん、そう」


 その先に続く「まあ、興味ないけどね」ってニュアンス。口にはしなくとも、日に焼けた顔にくっきりと書いてあった。


「海野は、オススメの漫画とかある?」


「ごめん。私、漫画とかあまり読まないから」


 謝った割には、全然申し訳なさそうにしない。むしろ、ある種の誇りすら漂う。ドラッグストアの効きすぎている冷房のような涼しさに鳥肌が立った。


「じゃあ、本は?」


「本も読まないかな」


「……ドラマ、映画」


「それもない」


「もしかして、がり勉だったり……?」


「全然。この前の模試の結果でも見る?」


 海野は自嘲気味に笑った。これが初めて見る笑顔だった。

 返事に困った僕は授業に意識を戻すフリをする。あくまでフリだけ。海野に愛想笑いを向ける気はさらさら起きなかった。


 国語教師の弱々しい板書が鳴り響いた。

 どこかで囁かれるひそひそ声と、プールの塩素の匂いと、吹き抜ける乾いた熱風と、気だるい夏の陽射しが教室を満たしていた。

 プラスチックの安いシャーペン片手にCampusのルーズリーフを開いて、ひりついた頬に手のひらをあてがう。包み込まれるような眠気を遠慮がちに断りながら、板書写しにいそしんだ。


 やがて、待ってましたとばかりにセミが鳴きだし、わずかな集中力を根こそぎ削っていった。


 一人黙々と板書を続ける中年男の禿げた頭頂部に、寂しさが漂っていた。水色の縦縞のワイシャツには脇汗が染みている。

 ド田舎の公立高校で、大学受験を控えた高校生を相手に、毎年似たような授業をする、そんな寂しさだった。

 ベージュのスラックスをカラフルに彩るチョークの粉だけが、確かな鮮度を持って色づいていた。


 それから教室の壁掛け時計を見やる。くすんだ時計盤の針は、ようやく授業の半分を終えたことを示していた。

 いや、あれは五分早い。実際はまだ、半分以上残っている。

 こうして、しびれを切らした高校生をより一層焦らすのが、古びた時計の唯一の楽しみらしかった。


 結局、僕の視線は巡り巡って、海野へ戻る。海野は頬杖をついて眠たげに俯いていた。

 ビターチョコを溶かしたような髪の毛がぐっしょりと肩までかかっている。小麦色の首筋ににじんだ汗が煌めいた。


「授業なんて、聞いてないくせに」


 海野はそれだけ呟いて、気だるそうに欠伸をする。

 半袖の白シャツの襟元から、マジックの先でつつかれたようなほくろがチラリと見える。


「海野こそ、真面目腐って教科書見てたじゃないか」


 何でも分かっている風な口ぶりに、なんでか無性に腹が立った。


「見てない」


 憂いの混じった熱いため息が、夏の湿った空気に溶ける。


 先生の板書はまだ続いていた。


「自分から吹っかけてきたんだろう?」


 言わなくてもいい言葉ばかり、口から漏れ出る。


「うっさい」


 薄い産毛の生えた小麦色の腕を枕代わりにして、机に突っ伏す海野の背中に、雨雲が影を落としては、横切っていくのを繰り返していた。


「――じゃあ、先週配ったプリントを出して。穴埋めの答え合わせをします」


 ばらばらと蠢く生徒の影と、紙の擦れる音でふと我に返った。くしゃくしゃの紙切れを懸命に広げている人もいた。

 自室に置きざりにされたプリントの姿を、僕は今更ながら思い出した。探すまでもなかった。

 辺りを伺うと、僕と同じか、またはそれ以下だと思われる人もちらほら見受けられる。

 たいていの人には見せてもらえる友人が一人くらいはいるらしかった。だけれど、僕にはいない。


 僕は機転を利かして、焦ったようにプリントを探しているふりをした。僕の不審な動きに気が付いた先生が聞いてくることを期待した。


「佐々木、プリント無いのか?」


 案の定、先生は気が付いた。

 僕は申し訳なさそうな顔を取り繕って、短く返事をした。


「じゃあ、隣の席の人に見せてもらえ」


 これも予測通りだった。これで晴れて、プリントを見せてもらう口実ができる。声をかけようとした手前、先生の声にさえぎられた。


「海野、おい起きろ。気が緩み過ぎだ。プリントはどうした?」


うだるような暑い夏の日差しが、海野の濡れた髪を怒鳴りつけた。


 喉元まで出かかった「見せて」の一言は、つばと一緒に飲み込むしかなかった。


 それから海野は、はじめて先生の存在に気づいたような顔をしてから、


「すいません。忘れました」


 やっぱり、どう見ても申し訳なさそうには見えない表情だった。

 結局、先生が用意していた予備のプリントを、海野と共有した。海野はそれを全くと言っていいほど見ないまま、再び腕の中へ顔を埋めた。

 

 やがて、にわか雨がしたたかにガラスを打って、窓の隙間から降り注がれた。真っ白な海野の背中に無数のシミができる。薄肌色に透けた制服のキャンパスに、ブラのストラップがおぼろげに映った。

 突然の豪雨に気がついた先生が、慌てて教室の窓を閉めて回る。床を鳴らすローファーの音でシャンと背を伸ばした海野の頬は、赤々と火照っていた。

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夏空と雨 ヱノキ @EnokiikonE

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