本選前のひと時

 小牧の父親の運転する乗用車で、開幕時間スレスレで会場入りした蟹江と小牧は、開会式を終えてすぐ、選手控室に引っ込んだ。

 蟹江と小牧は控室の長テーブルの隅の二席に並んで座り、互いに知らずに身体を寄せ合って対戦表を眺めていた。

そんな仲良さげな二人へ、黒髪をポニーテールで後ろで結わえた少女が近づいた。


「陽太と小牧さんは、二人で何をしてるのよ?」


 弥冨は彼氏の浮気の現場でも目撃したかのような冷えた声で話しかける。

 彼女の声を聞き、蟹江と小牧は揃って恐ろしげに振り返る。


「よ、よう、弥冨」

「こんにちはです、弥冨さん」


 二人は口元をひきつらせて、当たり障りのない挨拶を返した。

 弥冨は怪訝そうな目で、二人の頭の間から手元を覗き見る。


「それ、対戦表よね。陽太が小牧さんへする八百長でも企んでる?」

「そんな卑怯な手を使わねえよ。小牧のために作戦会議をしてただけだ」


 一つの嘘も交えずに、蟹江は心外という顔で答えた。

 ふーん、と弥冨は納得したようなそうでないような曖昧な反応をすると、壁に立てかけてあるパイプ椅子を手に掴む。

 掴んだ椅子を小牧と蟹江を挟む位置に置いて開くと、無言で椅子に腰かける。

 蟹江が奇異な目でその様子を眺めていると、弥冨はムッとして眉をしかめた。


「何よ。文句でもあるの?」

「いや、ないけど」

「ないけど、何よ」


 言いたいことがあるなら言いなさい、と命じるような目つきで蟹江を睨む。

 弥冨の機嫌がよろしくなさそうな雰囲気を感じて、蟹江は弥冨から目線を切って対戦表の方に戻した。

 しつこく二人の事情を詰問する弥冨に、蟹江は渋々小牧の置かれた状況を打ち明けた。

 事情を知った弥冨が蟹江ごしに覗き込むようにして、小牧に優しい視線を向ける。


「ねえ、小牧さん?」


 唐突に話を振られて、小牧は驚いた目で弥冨を見返した。


「なんでしょうか?」

「グループステージ突破できそう?」

「そればっかりはやってみないと。勝負の世界ですから」


 小牧は少し気弱な受け答えをする。

 二人に挟まれている蟹江が、窮屈そうにしながら小牧が競うグループにある女性の名を指さす。


「この選手は結構な強敵だぞ。」


 弥冨は蟹江が指さす先を覗き込む。


「エミリー・ウィンター。いろんな意味で確かに強敵ね」


 弥冨の言ういろんな意味が蟹江には分らなかったが、強敵であることは間違いないのでそうだなと同意する。


「他の二人はどうなんですか。強いですか?」


 グループの残り二名を指さして、小牧は蟹江と弥冨にアドバイスを求めた。

 蟹江は他二名の名前を見て、勝気な笑みを口に浮かべる。


「実力でいえば、小牧が負ける相手じゃないな」

「そうですか」


 小牧は内心、肩の荷が少し降りたようにほっとする。

 だけどな、と蟹江は釘を刺すように続ける。


「油断はするなよ。とりあえず小牧はいつも通りにやればいい」

「はい。わかりました」


 小牧は俄かに表情を引き締めて頷く。

 陽太の師匠っぷりが板についてきてるわね、という弥冨の冷やかしも、蟹江は肯定するように何も言い返さなかった。



 グループ戦一回戦の開始十分前になると、小牧はソワソワし出す。


「そ、それでは師匠。行ってきます」


 日頃しない敬礼を何故だか蟹江に送ってから、小牧は控室から会場に向った。

 極度に緊張しているのは目に見えたが、蟹江は指摘するでもなく微笑んで見送った。


「いいの。小牧さん、すごい緊張してたけど?」


 小牧の姿が見えなくなると、気掛かりそうに弥冨が蟹江に尋ねる。

 蟹江は小牧に向けていた微笑みののまま、弥富を振り返った。


「俺がアドバイスできることも、あれくらいなもんだ。対戦前になったら、集中力増してるぐらいだろうな」

「あの状態から簡単に落ち着けるとは思えないけど」

「俺達が心配するほど、小牧は弱くないんだ」


 小牧を信を置いた不安の窺えない顔で言い切った。


「もしも、あの子が負けたらどうするの?」


 そんな蟹江に弥冨はちょっと意地悪な質問をぶつけてみた。


「どうするって?」

「負けたらメモリースポーツ続けられないんでしょう。陽太はそれでいいの?」

「その時にはなんとかするさ」


 蟹江と切磋琢磨し合ってきた仲である弥冨でも、今の蟹江の心情を推し量ることは難しかった。


「それよりも弥冨の方はいいのか?」


 むしろそちらの方が心配だ、という表情になって、蟹江が弥冨を見る。


「一回戦の相手、勝てるのか?」


 気にする蟹江を嘲笑うように、フン、と弥冨は鼻を鳴らした。


「トニーでしょ。自分と戦う前に宿敵の負ける姿を見ることにならないか心配?」


 蟹江を下に見るような口調を返す。

 冗談と受け取っている顔で、蟹江は笑う。


「トニーが負ける確率なんて、お前が俺に告白するぐらいのもんだろ」


 蟹江の軽口を聞いた途端、弥冨は脳みそが焼かれたように熱くなって、シナプスが機能を止めた。

 脳の熱が段々と伝わり、弥冨の顔は真っ赤になる。


「変な冗談やめないさいよ、バカ!」


 赤くなった顔を見られるのを避けるようにそっぽを向いて、蟹江を罵る。

 軽口のつもりだった蟹江には、弥冨の反応は予想外だった。乙女心のイロハも知らない鈍感男だ。

 話を繋げられなくなり、二人揃って沈黙する。

 沈黙が助長して、弥冨は惜しげもなく赤面を晒したいたたまれない思いが、羞恥に代わって湧きおこってきた。

 弥冨はおもむろに立ち上がる。


「私、そろそろ行くから」


 蟹江とは目線を合わせずに、控室の外へ足先を向ける。

 急に席を立った弥冨を、蟹江は不思議そうに眺めた。


「対戦卓へ行くにはまだ早くないか?」

「いいのよ。私には私なりの行動意志があるんだから」


 ちょっと怒った風な口調で言い返すと、弥冨は控室を出ていった。

 蟹江は壁の時計に目を移す。

 つい先程、各グループの一回戦が始まったばかりだ。

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