説得
明くる日の朝九時頃、蟹江は手提げ袋を携えて小牧の自宅に再び訪れた。
手提げ袋の中にはパソコンやイヤーマフなど大会参加に必要な物はもちろん、携帯や財布などの貴重品も入っている。
表札が傍に掛かったドアの呼び鈴を鳴らすと、少しお待ちくださいと女性の声の後、しばしの間を空けてから、ドアが内から開けられる。
ピリピリとした几帳面そうな雰囲気の女性が現れる。
「どなたでしょうか?」
小牧の母親はドアを開けるなり、見知らぬ者と話すように蟹江へ誰何した。
ついに来た、という緊張から蟹江は身体を少し強張らせる。
「蟹江といいます。小牧梨華さんはいらっしゃいますか?」
「梨華? いるけど、あなた何の用でいらしたの?」
初対面でいきなり娘を呼んでほしいと頼む青年に、母親は警戒心を抱く。
話し合いの座にもありつけずに帰されては元も子もないと、蟹江は低い物腰で小牧の母親に切り出す。
「実は小牧さんのことで頼み事がありまして」
「梨華の事?」
「はい。小牧さんが以前パソコンを使用していたことで、話しておかなければならない事情があるんです」
蟹江がパソコンの事を口に出した途端に、母親は関わりたくないというふうにあからさまに眉を寄せ、家の中に顔を向ける。
「あなたー!」
「なんだなんだ。うちの娘に何の用だ?」
先程からリビングで様子を窺っていたのであろう小牧の父親が、妻に呼ばれて厳しい顔つきで玄関までやってくる。
「あなた。この蟹江と言う方が、パソコンのことで話があるそうですよ」
「うちのパソコンと娘がどうしたというんだ?」
妻から訪問者の要件を伝え聞くと、怪訝な目を蟹江に向けた。
「以前、小牧さんがパソコンを無断で使用していましたよね?」
蟹江は無下に追い返せないディープなところまでこちらが知っているということを、相手に気付かせるつもりで言い放った。
蟹江の思惑通り、両親は互いに目を向け合って対応に困っている様子である。
「何が目的だ?」
父親が疑るように蟹江に睨んで問う。
「小牧さんの事で頼みたいことがあるんです」
どうか話だけでも聞いてくれないか、と懇請するような口調で蟹江は言った。
その思いが伝わったのかどうか、父親が思慮深く告げる。
「あなたがどれだけの事情を知っているのかわからないが、とりあえずその頼みというやつを聞かせてくれ」
「はい。頼みたいことというのは、小牧さんにパソコンを……」
「ダメだ」
蟹江が言い切る前に、父親は突っぱねた。
返事を考える暇のなかった蟹江は、言葉を失くして狼狽える。
「あなたが娘とどんな関係なのかは知らないが、私達の言うことを聞けないようなら娘からは金輪際関われないでくれ」
母親も夫に加勢する。
「主人の言う通りよ。あなたは梨華に頼まれて来たんでしょうけど、うちにはうちのルールがあるの。ごめんなさいね」
決して怒鳴りつけるような声ではなかった。しかしそれよりも余所者をはねのける徹底的な口ぶりは、蟹江の内側に持つ気勢を削いだ。
「話が終わったなら、帰ってくれ」
父親が蟹江に辞去を促す。
まだ何か説得へ持ち込む方法はないか、と蟹江は思考を巡らした。
だが記憶だけしか能のない蟹江の頭には、これといった良策は考えつかなかった。
ダンッ。
と、その時フローリングの廊下を踏みつける足音が響いた。
両親が音の在処を知覚し、背後を振り返る。
そこには階段の上り口に立ち、、瞳に燃えるような怒りを湛えて両親を睨みつけている小牧の姿があった。
「お父さんもお母さんも、大っキライ!」
声を張り上げて両親を罵るが、その唇は震えている。
小牧にも自分が何て酷いことを言い放っているのかという自覚はあった。
でも今なら、師匠がいる今だからこそ言えた。
「なんてこと言うの梨華!」
母親が声を荒らげて叱責する。
「父さんと母さんはお前のためを思って……」
父親も娘の気を宥めるように言を継ぐ。
その言葉を遮って、小牧はぶちまける。
「あたしのためと言って従わせて、何も自由にさせてくれなかった。あたしだって、やりたい事とかしたい事があるんです。それなのにお父さんもお母さんもこれはダメ、あれはダメってダメダメ縛り。時にはあたしだって反抗します!」
「……」
「……」
溜めていた不満を捲し立てる娘に、両親は返す言葉がなく押し黙った。
「そこまでにしとけ、小牧。言い過ぎだ」
激情を吐き散らす小牧に制止をかけたのは、両親の拒絶に対する弁を持ち合わせなかった蟹江だ。
小牧は予想外の方向からの口出しに、きょとんと蟹江を見つめる。
「お前の気持ちは両親に充分に伝わってる。一度、落ち着け」
小牧は蟹江に止められるとは思いもしていなかった。
言葉を詰まらせ、震える唇を閉じる。
小牧が口を噤んだのを見て、蟹江は両親に視線を戻す。
「小牧の事で頼みたいことがあります。聞いてくれますか?」
娘に罵倒されたショックで放心し掛けていた父親だったが、蟹江の声で我に返って少しだけ冷静さを取り戻して訪問者に向き直る。
「わかった。君の話を聞こう」
耳を傾ける気になった父親に、蟹江はメモリースポーツのこと、今日の大会の事、そして自分が小牧の師匠であり、小牧が世界に匹敵するレベルの選手であることを告げた。
話を堰き止めずに事情を聞き終えた父親は、思案するように顎を手で擦る。
「君の話はよくわかった。梨華がそのメモリースポーツとやらの大会に出るためには、パソコンが必要なんだな?」
「はい。なので小牧に今日だけでも貸してあげてくれるとありがたいんです」
「しかしなあ」
悩まし気に溜息を吐く。
「メモリスポーツに梨華がのめり込んでしまったら、勉学の方がおろそかになる。それでは困るんだよ」
わかってくれ、と頼み込む口調で言う。
蟹江は静かに頷いて、承知していることを示した。
話し合いの滞りを感じたのだろう、母親が不意に小牧の方を向いて口を挟む。
「ねえ梨華。この蟹江さんが言ってることは本当なの?」
突然に母親に水を向けられて、戸惑いつつも小牧は言葉返す。
「ええと……一応そうみたいです。師匠ほどじゃないけど、師匠が言うにはあたしは天才らしいです」
「そう……天才ねぇ」
その言葉の響きがよほど良いのか、母親は口の端に微笑を浮かべて天才ねえと幾度か繰り返すと、娘の師匠だという蟹江に顔を戻す。
「蟹江さん?」
「はい、なんでしょう?」
「梨華がメモリースポーツをすることを許します」
「何を言い出すんだ、母さん!」
出し抜けに許可した母親に、真剣に悩んでいた父親はたじろぐ。
「ただし……」
小牧の表情が希望に明るくなりかけたが、母親の言葉が続くことがわかると、喜びを抑えて母親の継ぐ言葉に固唾を呑んだ。
「蟹江さん。梨華が天才だというなら、それを証明してみせて。今日、大会があるのでしょう?」
「ありますけど、大会でどうしろというんですか?」
「決まってるでしょう。ねえ、お父さん?」
「えっ、決まってるのか?」
彼女が言おうとしていることが推測できず、父親は間の抜けた顔になる。
母親は挑戦的な笑みを浮かべて蟹江に告げる。
「梨華が天才だと納得させてくれる成績を大会で出すことができたら、メモリースポーツを続けてもいいわ。しかし万一、不甲斐ない成績のようならすぐにやめてもらうわ。それでいいでょ、あなた?」
「あ、ああ、い、いいんじゃないか」
これは却下できないという諦めの顔で父親は同意する。
当事者である小牧は呆然と両親を見つめた。
「あなた達を納得させられる成績を、小牧が残せればいいんですね?」
ようやく光明を見出したと言わんばかりの、ほっとした顔つきになって蟹江は両親に念を押して尋ねる。
「そうよ。実に単純で実に合理的な条件でしょ?」
「わかりました。その条件を呑みます。ですから今日は、小牧にパソコンを貸してやってくれませんか?」
いかにも目的を成し遂げたような顔で、蟹江が再び申し出た。
「ちょっと待ってください!」
同意できない悲痛な声で小牧が叫んだ。
「私を置いて、勝手に話を進めないでください」
「何よ梨華。大会に出てもいいっていってるのに、文句があるの?」
文句の内容次第では許可を取り消す、と脅すように鋭い目つきで母親は娘に訊き返す。
「小牧。これ以上の寛大な条件はないと思うぞ」
蟹江までも致し方なしの体で、小牧に暗に覚悟を命じる。
「ううっ」
大会には自分より強い人が大勢いるから手厳しい、というのが小牧の本音なのだが、そんな弱気な事をこの状況で言えるわけがない。
師匠しかり、アブラヒムしかり、トニー・マイケルしかり、世界の猛者が何人もいるのだ。おいそれと好成績を残せるとは思えない。
小牧は続ける言葉を躊躇って、表情を曇らせる。
「大丈夫だ、小牧。お前なら勝てる」
確信ありげな微笑で蟹江は鼓舞する。
そんなあっさり勝てるなんて言わないでください、と小牧は目顔で蟹江に訴えた。
しかし蟹江の顔に後ろ向きな思考は窺えず、小牧が負けることなどを心配している素振りはない。
「ところで蟹江さん?」
母親が蟹江に問いかけた。
「小牧の出場する大会というのは、何時から始まるの?」
「これからすぐですよ。予定では十時開幕です」
蟹江の返事を聞いて、父親が俄かに踵を返した。
「母さん、パソコンと車のキーを取ってくる」
「お願いね、あなた。さあ、私も着替えてこなくちゃ」
当初の怪訝にしていた口調とは逆に、ちょっと楽しみにしているような口調になっている。
「どうして着替えるの、お母さん?」
クローゼットのある部屋に入ろうとしていた母親に、小牧がとても理解し難い表情で尋ねる。
母親は至極当然という顔で答える。
「梨華の出る大会を私達も観に行くのよ」
「えええええっ」
「梨華が本当に天才かどうか、この目で確かめるの」
娘に向って試すような口ぶりで言った。
まさかこんな展開になるなんて、と小牧は思いも寄らない状況に、頭の整理が追いついていなかった。
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