出逢いと別れ 5
鳥達の羽ばたきとともに、大きな鐘の音が街の中に木霊する。
夕刻を知らせる音だ。
澄み渡る青い空は、オレンジ色へと姿を変えていく。
もうすぐ太陽が沈み、月が昇る。
ミヤと少年は、ルーファス家の屋敷の片隅に立つ導きの塔の前に立った。
導きの塔の最上階は見晴らしが最高で、おばあ様とミヤの二人だけで過ごしていた。
特に、夕暮れ時にみる街並みは美しく、夕刻の時間になると導きの塔の最上階へと一人上ってみていた。
紅茶を飲んでゆったり過ごしたり、うたた寝したり。
思い出がつきることのない、ミヤにとって大切な場所。
ヘレンがなくなってからは足を運ばなくなった場所。
足が震える。
上に近づくにつれて、足取りも重くなっていく。
怖い、こわい、コワイ。
きっとこの上に、おばあ様がいる。
器のない、魂の存在になったおばあ様が待ってくれている。
あうのが、すごく、恐ろしい。
「大丈夫。怖いことはなにもない。この先には、キミを待ってる人がいるだけ」
背中を押してくれる優しくて暖かい声。
ミヤが小さく頷くと、少年は緩やかに微笑んだ。
階段を登り、扉の前にたつ。深く、深く、深呼吸。
ノブに手を伸ばし、扉を開ける。
整えられた一室。
窓際に座る、一人の淑女。紛れもない、ミヤの祖母であるヘレン・ルーファスが確かにそこにいた。
「……っ」
泣きそうになるもぐっと堪える。こうして、会いたくはなかったおばあ様。けれど、会いたかったおばあ様が今、目の前にいる。
ミヤの声にぴくりと反応したヘレンが窓の向こうから視線を移す。
本来ならば交わる事のない瞳がカチリと合わさる。
ヘレンの目は少しばかり大きく開いたのち、慈愛に満ちた優しいまなざしへとすぐに変えた。
「いらっしゃい。ミヤ」
「お久しぶりです、おばあ様っ…………会いに来るのが遅くなって、ごめんなさい」
「いいえ、私の方こそ。お別れも碌にできずに、ごめんなさいね」
ヘレンは最期、ミヤに声をかけることすらできず亡くなってしまった。一言すらも残せずにいたことをすごく悔いていた。
「またこうして会うことができて嬉しいわ、ミヤ」
「……っ、僕もです。おばあ様」
今浮かべられる精一杯の笑みを咲かせる。
でも、感情が、いろんな思いが溢れ零れ落ちるように、ぽろぽろと涙も零れる。
この世のものでないものが見えるのがひどく恐ろしかった。
なぜ、僕だけがと恨んだりもした。
だけど、この力があったからこそ今こうして、おばあ様と話すことができた。
それなんて、幸せなことなんだろう。
「あら、そちらの方は」
ミヤの後ろに潜むように立っていた少年がお辞儀をする。
「はじめまして。こんばんは。ボクは魂の案内人です。貴方様を迎えにあがりました」
「はじめまして。私はヘレン・ルーファスですわ」
こんな小さい少年がお迎え人だとは思わず。ヘレンは目を見開いてみた。
だがすぐに、状況を飲み込み、優雅にドレスの裾を持ち一礼した。
「貴方様がお迎えにこられたということは、私はあちらにいけるのですね」
「はい。そのために、ボクは貴方に会いに来ました。ですが、その前に彼と話す機会をと思いまして」
そういって、少年はそっとミヤの背を押す。
「ふふ、お気遣いどうもありがとう。そうね、私もあちらに向かう前に、ミヤとお話がしたかったの」
くすくすと小さく笑みをこぼした後、佇まいを戻して、ミヤに視線を合わせた。
「ミヤ。最後のお茶会につきあってくれるかしら?」
ヘレンが紡いだ最後という言葉に、どきりと胸が張りあがる。
覚悟はできていたけれど、いざ本人から耳にした言葉はすごく重く。鉛のように身体にのしかかる。
でも、もうお別れしないと。
魂のまま縛り付けてたらおばあ様も邪悪なものになってしまう。
ぎゅっとこぶしを握り、硬く閉じた唇を動かす。
「はい、喜んで」
それはとても、肯定の言葉には似つかないほど、かすれていた。
それでも、ミヤにとっては一歩前進の言葉だった。
★
「いつか、この日が訪れるのでしょうと思っていました」
「……そう、ですね。僕も、おばあ様とずっと一緒にいられると思う心の隅で、いつかは別れがきてしまうことがすごく怖かった」
あの頃と同じように、ミヤとヘレンは今日も会話を紡ぐ。
だた、いつもと違うのは、一人の少年がミヤの隣に座っていること。
普段は用意された紅茶とお菓子もなくて。机は広々としていて少し寂しそう。
「本当ならば、私が生きているうちに話すべきことだったのでしょうけど……昔話を聞いてくれるかしら」
ヘレンは、懐かしい思い出を引き出すように、静かに語る。
「私の旦那様…ミヤのおじい様はミヤと同じように亡霊を見ることができたの」
あれは、ミヤが生まれるずっと昔。ヘレンが、ルーファス家の先代当主であるアロイス・ルーファスは、ミヤと同じようにこの世ならざる目を持っていた。
ミヤと違って彼は疎外されることなく、順調に成長を重ねた。
彼は、太陽のようにおおらかで穏やかな人柄で、皆に愛された。あそこに人がいると指をさしたときは気味悪がられたが、冗談だよっと言ってごまかしていたという。
非常に立ち回りがうまく、当主になってからも人が離れることはなかった。
それから、ヘレンと恋に落ちて婚約。
婚約する直前、アロイスはヘレンにだけ目のことを打ち明けた。
『嘘だと思ってくれてもいい。ただ君には隠し事はしたくない。……私は、この世のものじゃない、所謂“幽霊”という存在がみえるんだ』
普段は朗らかに笑う彼がその時だけは真剣な表情をしていた。
ヘレンを映す瞳。その目は、その後ろの何かさえも映しているよう。
『きっと、僕は何もないところで怯えてしまうかもしれない。何もない空間に話しかけることだってあるだろう。一人で笑って、泣いてしまうかもしれない。不可解な行動を見せてしまうかもしれない。それでも、君は、僕と一緒にいてくれるかい?』
きっと、初めて人に打ち明けたんだろう。
彼は珍しくおびえ、身体も小刻みに震えていた。普段は己を隠すように、〝私〟という彼も、その時は〝僕〟だと本性を剥きだした。
「真実を告げることは、時に恐ろしく怖いもの。それでも、彼は好きな人には嘘をつきたくない、隠し事はしたくないと言って話してくれた。私はすごく嬉しくて、幸せ者だと思いました。もちろん、お返事もご了承して、二人で過ごす時間は幸福に満ちあふれたものだったわ」
思い出の中の彼を慈しむように、ヘレンはふんわりと微笑む。
「それと、不思議なことに私は亡霊を寄せ付けない体質だったようで、私がそばにいるときは、彼は嬉しそうにたまにはこういうのもいいななんて、笑ったわ」
ミヤは今の話を聞いて腑に落ちたことがある。
今まで悪霊に追われずにいたのは、おばあ様の存在があったからなんだと。
「それから、二人の男児、ミゲルとエイデンに恵まれて……。本当に幸せだった。旦那様とミゲルは馬が合わなくて、何度も衝突して……エイデンも独り立ちして、ミゲルが家督をついでからバラバラになってしまったけれどね、私は不幸だとは思わなかったわ。だって、子供が自ら考えて、道を歩み出したのです。立派なことでしょう?」
仲良くできたら、もっともっと幸せなことだっただろうが、家族であってもそれぞれに性格や、考え方がある。全員が同じ方向性に向く、ということは限らないのだ。
だからこそ、ヘレンはそれぞれの意思を尊重し、犯罪にさえ手を染め慣れければ自由に自分が思うままに生きてほしいと願っていた。
「その後、旦那様は病に伏せて還らぬ人となってしまいました」
今でも忘れられない、最期を共にしたあの時。
その直前、彼は言い残したことがある。
『もし、もしも、僕のような同じ目を持つ子が生まれ、その存在に怯えているようなら優しく傍に寄り添い、守ってい欲しい。きっと君が近くにいてくれるだけで安心できるだろう。僕がそうであったように……――――』
時は過ぎ、ミゲルに二人目の子であるミヤが生まれた。小さいころからミヤは何もないところで震え、怯え、涙をよく流した。
母の背に隠れる様子は、人見知りなのかとも思われたが、一向に収まらない様子に、ヘレンは悟った。
彼と同じなんだと。
「私は旦那様の言葉を思い出しました。私が近くにいると、安心できるということ。私だけがこの子を守れる。私は、できる限り、ミヤの傍にいることにしました」
『ミヤはとても良い子。貴方は悪くないわ』と言ってくれた優しい声。
『私が傍にいる。だからもう怖いものなんてない。大丈夫ですよ』と背中をさすってくれた温かい手。
ずっとずっと守ってくれていた。
守られていたんだ。
「ねぇ、ミヤ。貴方は私と共にいて、楽しかったですか?」
涙が溢れる。大粒の雨みたいに、ぽつぽつと頬を伝って零れ落ちていく。
「とても、楽しかったです。貴方とともに、いられて僕は、幸せでした。怖いこともなく、恐れることもなく、本当の僕でいられた」
「今の僕があるのは、おばあ様のおかげです。おばあ様が、怖いものに怯えても優しく大丈夫だって頭を撫でてくれた。大丈夫、大丈夫よ、って背中をさすってくれた。嘘つきだといわれたことも、おばあ様は僕の言葉を信じてくれたから。優しさを教えてくれたから、今の僕がこうしていられるんです」
ふと、思っていた。
もしかしたら、おばあ様も見えていたんじゃないかと。
でも、思い出した限り、僕が指をさして、怖いものがいるっていっても、おばあ様は困った顔して、優しく抱きしめただけだった。
決して見ることはできなくとも、おばあ様はミヤの言葉を信じた。
アロイスの言葉があったからこそ、信じてあげたかった。
ミヤの恐怖を受け止めて、私が守ってあげると包み込んでくれた。
アロイスが笑ってくれていたことを、思い出して。
「ずっと、僕のことを守ってくれて、ありがとうございました」
でも、もうお別れの時だ。
おばあ様はあちらへと旅立たなければならない。愛しい人のもとへと、送り出してあげないと。
「僕はもう、大丈夫です。一人だと、まだ不安ですけど、彼に背中を押してもらいました。自分の足で立つためのお守りもいただきました」
首にかけられたペンダントが、淡く光をともす。
「まあ、なんて素敵な神様からの贈り物でしょうか。よく似合ってます」
ありがとう、と麗しのほほえみを浮かべて、少年に感謝を告げた。
「ミヤが貴方のような素敵な子と出逢えたこと、本当に感謝しなければなりません。貴方がミヤのそばにいてくれるのであれば、私も安心して旦那様のもとにいけます」
少年は呆然とヘレンを見た後、目を閉じて、うっすらと口角を上げた。
「それも、良いかもしれませんね」
窓の外。太陽は沈み、月が顔を出す。
遠くから、唸り声が聞こえてくる。
亡霊たちが彷徨う時間だ。
「そろそろお茶会もお開きにしましょうか」
楽しい時間はあっという間だ。これで、二人のお茶会は最後。交わらず、それぞれが別の道を歩み出す。
「ありがとう、ミヤ。最後にとても良い思い出が作れました。私はもう長い旅路へと向かいますが、いつでもあなたのことを思っております。どうか、強く生きてくださいね」
ヘレンがミヤの身体を包みこみ、背中をさする。
ミヤもヘレンの背中に手をまわして、ぎゅっと強く抱きしめる。
大きかった背中。あのころは、しがみつくのに精一杯だったけれど、今はもう全身で受け止めることができる。
1分間の抱擁。
少し離れ、見つめ合う。
ミヤに宿る目の輝きに、ヘレンは頬を緩ませた。
「案内人さん。お願いできますか」
少年はヘレンの声に頷く。
青い光の数々が、星のように広く、世界を灯す。
それは祝福の光。
それは母なる導きの光。
―――― 光よ。とらわれの魂を導きたまえ。
「 葬送 」
ぶわりと、光があふれだす。
温かく。愛しい。
美しく天へと待っていく。
天へと昇る光に向かって、ミヤは涙を流しながらつぶやいた。
「いってらっしゃい、おばあ様」
★
静かな部屋に、木霊する泣き声。
ミヤは、貯めていた涙をひとしきり流した。
少年はミヤが泣き止むまでの間、壁に寄りかかり、窓の外を眺めながら急かすことなくただ待ち続けた。
しばらく時間が過ぎた頃、ミヤは顔を上げて、少年と向き合う。
「ありがとう。君のおかげで、最後におばあ様との思い出ができた」
「ボクは役目を果たしたに過ぎないよ。魂を導き、生者の後押しをしただけ」
少年は満足そうに微笑む。
「これから、キミを守ってくれる人はいない。キミはまた、亡霊に襲われるかもしれない。もっと悍ましい者たちにも襲われてしまうかもしれないね」
「そうだね。それでも、僕は生きていかなくちゃ。おばあ様が守ってくれた命だから。少しでも長く生きないと、じゃないと、あちらに行ったときにおばあ様に怒られてしまう」
「……もう、大丈夫そうだね」
ミヤは確かな意志を持って、力強く頷いた。
瞳の中に宿る、光が宵闇にさんさんと輝く。迷いは断ち切った。
でも、不安は残る。少年からペンダントを貰ったが、それだけではきっと自身を守ることは叶わないだろう。
「君とはここで、お別れになってしまうのかな……」
折角繋がった縁。
同じ世界を瞳に映すもの同士。
願わくば、君ともっと一緒にいたいと願いたい。決して守ってほしいからじゃなくて、これは純粋に友達になってほしいというミヤの心の現れ。
漏れたミヤの心に、少年は困り顔をする。
「此の街にさまよう魂達は、やがて行く当ても忘れ、落ちていく。ゆっくりと、静かに、少しずつ、染まっていく。そうならないために、ボクは魂を送る」
窓の向こう。
今も此の街で亡霊たちは徘徊する。
人が死ぬ度、亡霊は彷徨う。
人が死ぬ度、魂は求める。
この街は、鳥籠だ。
閉じ込められた魂たちは、祈る。
導きがくることを、願う。
「ボクの役目は、辛く、苦しいもの。この身は縛られ、自由はない。きっと、キミに迷惑をかけてしまう。危険が及ぶことにもなるだろう。だから、本当ならここでお別れをするべきなんだろうけど……」
ため息がこぼれた。
「キミのおばあ様と約束してしまったからね」
交わした約束は守らないと。と少年は笑った。
ミヤは一瞬目を丸くしたが、すぐに溢れんばかりの喜びを表情に現した。
少年は、寄りかかっていた壁からミヤのもとへと近づき、手を伸ばす。
「……――――ボクは、ノエル。魂を導く案内人だ。これからよろしくね、ミヤ」
鳥籠の街 空白 @nightsky27
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