猛暑の夕空

スエテナター

猛暑の夕空

 東の山のいただきは雷雲に覆われて暗かった。本来なら夏らしい深緑をしているはずのなだらかな山肌が、今は恐ろしく濁って竦んでいる。山腹に点々と光が落ちるのは、分厚い雷雲に僅かな穴があり、太陽の光が貫通しているからだった。涙のように明るく情感的に、本当の真夏の葉の色を浮かばせている。

 東の空に垂れ込める雷雲は町の真上でぷっつりと途切れ、西の空は別世界のように燦然と夕日が輝いていた。雨雲にならなかった白い薄雲が地平線の上にぺったりと貼り付いて棚引いている。その雲の上に夕日がぷかぷかと眠るように浮かんでいる。

 日が沈もうとしているのに暑い。真昼時の皮膚を焼くような暑さが夕方になっても全く熱を失わないままどこか湿気を帯び、じっとりと肌に纏わりついた。

 きっとこの大きな空にも受け入れられる温度と受け入れられない温度があるんだろう。血も干上がるような猛暑のために、夕空は痛々しい膿のような雷雲をいだき、不安定だった。

 その空の真下、田んぼだらけの田舎の県道を、ただ真っ直ぐ、無心に走る。青いコンビニを通り越し、鉄工所のフォークリフトの警告音を車の窓越しに聞き、見慣れた民家を通り過ぎ、またひらけた田んぼの隙間を走る。オーディオはとっくに切ってしまった。音楽の代わりにビビッドな景色が頭に飛び込んでくる。水田には隙間なく稲が育っている。台風が来なかったからだろう。倒れたり乱れたりした稲田は一つもなかった。美しく織り上げられた手織りの反物のようにほつれなく緑を湛え、稲の海は町の果てまで続いている。稲田の向こうにガソリンスタンドの灯りがマッチの火のように小さく見えていた。

 私はアクセルを踏んだ。壊れるくらいに踏んでしまいたかった。心の中で架空の煙草を吸って紫煙を吐き出す真似をして、髪だって金や赤に染めてしまいたい。壊せるだけ私を壊して、行けるところまで架空に行き、嗅ぎ慣れた町の匂いを心に抱いたまま、私だけが心地のいい、天国のようなところに、一晩だけでいい、行ってしまいたかった。

 昔何かの工場だったらしい小さなトタンの建物が、葛の葉にすっかり覆われて朽ち果てていた。その隣には綺麗に整えられた畑があって、しっかり組まれた支柱の合間にトマトやきゅうりやなすがクレヨン画のように鮮やかに鈴生りになっていた。畑の片隅に入道雲のように育っているのは、作物ではなく、ヤマブドウだった。そのヤマブドウの隣に、ぽつんと一台赤い自販機が置かれている。きっと夜になると眩しく灯り、おびただしい数の虫を呼ぶのだろう。

 東の空に掛かっていた雷雲はぐんぐん町を覆い、真横から私の車に迫ってきた。大粒の透明な雨滴が一つ、フロントガラスに落ちた。何かの合図のように雷鳴が低く轟き、二つ目の雨粒と三つ目の雨粒が立て続けに落ちてきた。そこからぱたぱたと車の屋根が鳴り、フロントガラスは雨粒で歪んでいった。アスファルトは濡れた。工場も濡れた。田んぼも濡れた。山も濡れた。コンビニも自販機も、みんな濡れた。大粒の雨はあっという間に滝のような豪雨になり、視界が奪われるほど激しかった。渦巻くような豪雨の中でヘッドライトを付けると、仄暗いアスファルトが眩しく照らされた。車内の速度計やオーディオの文字もぼうっと蛍光色に浮かび上がる。私は閉口した。拭っても拭っても垂れてくる雨の滝。私の憂鬱。西の空だけ黄金の輝きを残している。

 目の前に、八幡宮の丘が見えた。斜面を覆う杉の木々が黒緑に濡れそぼっている。社へ続く灰色の石段は冷ややかだった。私は丘の麓にある八幡宮の駐車場に車を停めた。こんなときにわざわざ田舎の寂れた八幡宮まで車で参拝しに来る人などいない。八台の駐車スペースに、私の車だけがぽつんと停まる。

 私は疲れた溜め息を吐いて、シートを倒した。その上にぐったりと凭れ、カッターシャツの釦を一つ外す。何となく気持ちが楽になった。

 豪雨は私の車を穿つように激しく打ち付け、スチールドラムを鳴らすように騒がしかった。

 私はその喧騒の中で目を閉じた。少し眠りたかった。そうして激しい豪雨の中で、満たされない心を慰めていたかった。

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