私の世界

私の世界1

 四足歩行の騎馬のような生き物の背でお告げの場所とやらに運ばれながら、小雨の降る砂の海を進んでいく。辺りはわずかに黄色く光る不明瞭な霧に包まれていて、この「不干渉の霧」が晴れるまでは互いに戦闘行為を行うことはできないらしい。規則的な揺れとザッザと砂を踏みしめる音がやけに頭に響いて落ち着かなかったけれど、頭の中は不思議とクリアだった。

 どうやら私は、元の世界へ帰れるらしい。

 このお腹に望まなかった子を宿せば、だけれど……。

 冷たい外気を吸い込みながら、空を見上げる。霧は色濃く、雨は止まない。冷たい雫がおでこに落ちて、スルスルと鼻筋を撫でて唇に落ちていく。

 私は……帰りたい。

 もはや自分がそれ以外に何も望んでいなかったと思えるくらい、ただ家に帰りたい。家に帰って自分のベッドに倒れ込んで、そのまま二日くらいはぐったりと眠りこけたい。もちろん、そんな自己中な理由のために子どもを身ごもるのは死ぬほど嫌だし、その後のことを考えたら気持ちが暗くなるなんてものじゃないけれど……でも、こんな状況で他にどんな選択がありえただろうか。もしこれが私以外の誰かの話だとして、その人が元の世界に帰るためにこの世界の男と子を作ったとしたら、私はその人のことを悪い女だなんて絶対思わない。

 誰だって、こうなるしかなかっただろう。

 こう……なってるんだろうな。

 だからきっと、私は帰れないで死ぬんだろうな。

 心臓がズキズキと耳鳴りのように痛みを放っている。動悸がおさまらない。生きたいって気持ちはこんなにもクリアなのに、私の頭はもう自分の命のことはほとんど諦めてしまっている。

 この世界にはやっぱり、私以外にも女がいた。

 ならもう、私は死ぬしかないじゃないか……。

 シトシトと雨は続く。

 最低な気分だ。どうせ死ぬなら、今この場所で、自分の頭を撃ち抜いてしまえたらいいのに。生き残る誰かの罪悪感になる前に、誰かに見られる前に自分の意志で終わらせられたならどれだけ親切だろう。この期に及んで、もしかしたら生き残ってしまうかもしれないなんて可能性に未来を託すなんて最悪じゃないか。私には誰かの未来を奪ってまで生きられるような気力はない……なんて、撃てやしないことわかってるくせに、身の程を知らない想像だけが先走っている。

 結局私は最後まで、私を撃てない臆病者だったな。

 私が自分を撃てないなら、私の手に握らされたこの銃は、いったいなんのためにあったんだろうか。

 馬が止まり、かすかにふらつく。

 廃ビル。

 雨。

 長い手に導かれるまま馬から降りた私は、白い石でできた幅広で長い階段の前に立っていた。不気味なほどにキレイに磨き上げられた石段の上を雨水が流れ落ちていて、濡れた大理石が宝石のようにつややかに輝いている。階段の行く先には何も見えない。ただずっと上るだけで、最後まで上った先は単なる飛び降り台かもしれない、人生のように虚無な階段だった。

「さあ行こう……チサト」

 声に背中を押されるまま、長い階段を一歩一歩ゆっくり上っていく。

 ああ……怖い。本当に怖いし、胸に色濃く残っている虚しい希望が恨めしい。後悔のような走馬灯も、止まることがない現実世界への未練も、もしかしたら生き残ってしまうかもしれないなんて淡い期待も……自分が生んでしまうかもしれない子どものためにこっそり考えてしまった名前まで、雨水の冷たさや脚の疲れよりもずっと強くハートを揺らしている。

 死にたくない。

 私、こんなに死にたくないよ……。

 何度も頭の中で諦めを言葉にした。自分は死ぬべきだって言い続けた。それでもまだ拭い去れない感情が、チカチカと音も無くエラーを吐き出しながら瞬き続けている。

 命って、そんなに簡単に諦められるものなのかな?

 経験と頭でっかちな理論で築き上げた私の言葉なんて聞こえちゃいない心臓が、私が本当に幼かった頃の顔をして、じっと私を見つめている気がする。

 世界の全てが怖くて、お母さんの背に隠れていた頃の私。

 ……死んでほしくないなって思う。

 私は……私に死んでほしくない。私は死にたいかもしれないけれど、あの可哀想な子どもは殺したくない。

 私の手には、まだ確かに銃が握られていていて……。

 やがて階段を上りきった私は、おずおずと顔を上げた。私が上ってきたのと同じような、先のない階段が5つ……私がいるここを含めて6つが六角形に配置されていて、その間にはうず高く積み上がった瓦礫とそのほとんどを埋める砂がある。階段の頂上はそれぞれ高さがまちまちで、私のところは砂山まで2mほどだろうか。一番高い頂上は7mくらいで、低い頂上は砂に埋まりかけている。

 全ての頂上には化け物のような男が一人と、女が一人ずつ待っていた。

 恐怖が胸を刺す。

 私以外の、女……。

 反射的に伏せてしまった目をこすり、なんとかおもてを持ち上げる。霧がかった光のもやがバリアのように互いを隔絶してはいたが、向こうにいる誰かの姿ははっきりと見えた。

 一番高い頂上にいる、大理石のような岩でできた石の悪魔たちの首魁の前に、白いロングドレスを着たアザだらけの女が立っている。

 わずかに紫色に染まった白い花の妖精に背中から抱きつかれているのは、淡桃色のTシャツのようなワンピースを羽織った女。

 対角にはちょっと現代的な緑のドレスを着た女がいて、その後ろに亡霊のような老人が佇んでいる。

 雪のように白く染まった角を持つ、ヒョウ柄のファーコートを着た鹿男……恐らくあれが呪いの森のセツだろう。そいつの前にも、私とよく似た黒っぽいドレスを着た女がいる。

 尊大と怠惰、強欲、好色、いたずらな加齢……私が嫌いな「オヤジ」という方向性の寄せ集めのように醜い生き物の前にいるのは、下着みたいなオレンジの踊り子の衣装をまとった女。

 みんな、同じ顔をした女だった。

 ここにいるみんな。

 私も含めて。

 私は、背後のクロネコを振り返った。彼は私の肩に手を置いたまま見下ろすが、女のいない世界で育った彼には、私の視線の意味は理解できないようだった。

「ふむ……何を驚いているのかねチサト。不安なのか?」

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