ホムラと私4

 朝になった。パチパチと小雨のような音が聞こえるが、天窓からは眩しい日差しが淡く注いでいて、時折ガラスの塵のような霧雨が風に吹かれて瞬いている。私は重たい体を起こし、圧を抜くようにあくびを漏らしながら、いびきを立てて寝ているホムラを一瞥する。

 ため息。

 首を鳴らす。

 ベッドに腰掛けて、手枷を外されたかわりに足首に繋がれた鎖を見つめる。特に何も感じはしない。

 痛みは……少し残っている。

 血の跡も。

 私は、セックスをした。

 はははは。

 一生処女なんじゃないかって思ってたのに、まさか16でね……人生何があるかなんてわからないものだ。

 良かったかって?

 最悪だよ。

 ゴミみたいな体験だった。

 ただ……それが私が今まで経験してきた他のものとは少し異質なものであることはだけは、なんとなく理解できた。これ、というよりこれを求めてくる男に中毒を起こす女がいる理由もなんとなく察せられたし、体験という意味では、全くの無駄ではなかったんじゃないかな。

 ……こんな感じで、少なくとも私は、自分の感情や心と真面目に向き合わないことには成功しているようだった。これがこの世界に放り出されていきなりの体験だったら、そのまま手元の拳銃で自殺していても不思議じゃなかっただろう。そう確信できるくらいには、尊厳というものをずたずたに踏みにじられた気がする。

 自殺か。

 もう、ホントに死んじゃおうかな。

 かすかに笑いながら目をこすったら、泣いていた。涙をおさえようとしたら、ボロボロと信じられないほどあふれ出した。

 ……やっぱダメか。

「うっ……うぇええ……ぐ……」

 横でいびきを立てるホムラを起こさないようにしながら、でも止められない嗚咽をすすり上げる。わかってる、真面目に考えないようにするなんて所詮はただの現実逃避だ。昨夜のことも、これからのことも、あとからあとからドンドン辛くなるに決まっている。ただ、今このときに向き合うのは辛すぎるから、少しでも冷静になってから、ちょっとでもマシになってから考えたい。泣くのは嫌いだ。少しでも、泣きたくない。

 深呼吸。わざと何度も繰り返して、息を浅くして、怒りと涙を押し殺す。涙なんて所詮は体の戯言たわごとだ。こんな面倒くさいタイミングで、そんなものに付き合っていられない。

 泣くな、泣き虫。

 黙ってろ。

 黙れないなら、今すぐ死ね。

 それができないんだから……もう、黙っててよ。

 深く深く息を吐きながら、自分のお腹をさする。

 妊娠……してないといいな。

 本当にやだな、それだけは。

 でもきっと、ここにいたらいつかは必ずその時がくる。いつか、いつか、いつか……もしかしたらもう手遅れかもしれない。そう思うだけでももうお腹が熱い。

 これからどうやって生きようか……。

「ん? おお、女、起きていたのか」

 ホムラの声。げんなりするけど、気にしない。涙を止めるのも間に合った。

「ほれほれ、ちこうよれ」

 言われるがままにまたベッドに倒れ込んで、肉の塊にほんのりと寄り添う。肩を太い腕が抱き寄せて、昨夜の体験がフラッシュバック。こみ上げる吐き気を無視しながら、漂うストーブみたいな体臭をわざと思い切り吸い込んでやる。首筋にあたる脇毛もお尻を撫でてる指先も知ったこっちゃない。ほんっと下らない。こいつも滑稽だよ。こんな子どもに興奮して、まるで世界で一番の宝を手に入れたみたいにウキウキしてる。本物の女を知らないで、こんな貧相なチビで大満足なんて、可哀想だな。

「女よ……昨晩は良かったぞ。わしは感動しておる。褒めてつかわす。稀有な体だ、ここにずっとおれ。わしが大事に守るから。わしがずっと可愛がってやるから」

 これも不思議だ。なんでこんなひとつも嬉しくない言葉で、人を褒めたつもりになれるのか。わかってる、人と思っていないからだ。自分の欲に端を発する倫理観しか持たない獣にとっては、これが礼儀に値するものなんだろう。そうさ、彼は彼の世界の中では礼儀正しいつもりなんだ。

「女、お前はあまりしゃべらんな。昨夜の愛らしい声は実にそそられたがな」

「…………」

「はは、こんなことを言われても困るか。本当にお前はしおらしいのお、愛らしいのお」

 グリグリと太い指先が顔を撫でる。少なくとも、何も喋らず黙っていれば勝手に勘違いしてくれそうなのはありがたかった。よほど何かを求められるまで、このままずっと喋らない女として通すつもりだ。

「ふはは、まだここが不安か? 案ずるでない、わしは蛮族の知将ホムラ、あのクロネコやミョウジョウなどとは頭の作りが違うのだ。ぬしは実に運が良い。ミョウジョウなどに捕まっていてはか弱き女など2日と生きられなかっただろうて。聞くが良い、我は知将、わしがいかにしてあのミョウジョウどもを……」

 セックスの間ですら聞かされ続けたよくわからない自慢を聞き流しながら、天窓にとまった一羽の鳩を眺める。目が白く光っていて、どことなく不気味な鳥だ。痙攣するように首を二、三度傾けたその鳥は不意に羽を広げて軽やかに私とホムラがいるベッドの前に足元に降り立つと、突如、黒い羽を撒き散らしながら巨大なフクロウのような怪物へと姿を変えた。

 亡霊のように濡れた体と黄色いくちばし。

 本能的に、ものすごく嫌いだって思った。

「ひっ……」

「ん? おお、メッセンジャーか」ホムラがガハハと下品に笑いながら私を抱き寄せる。「案ずるな女、こやつらはこの世界の伝書鳩。この世界におぬしが降り立ったこともこやつらが報せてきたのだ」私の頭をお腹に押し付けながらホムラは身を乗り出し、そのメッセンジャーとやらを睨みつける。「さあ、待ちわびたぞメッセンジャー。貴様らの言う通り、わしは女を手に入れた。勝者に与えられる権利とやらを聞こうじゃないか」

 ブルブルッとメッセンジャーは揺れて、漆黒の翼から羽の一片ひとひらが滑り落ちた。その羽を、私がこの世界に落とされた時にも見たのを思い出す。こいつらが私をこの世界へとさらってきたのだろうか。

「まだだ」ノイズがかったザラザラとした声が、黒い伝書鳩のくちばしから漏れた。

 ピタッと、私の体を撫でていた手が止まる。「まだ、だと?」

「お前はまだ権利を手にしていない」

「……女を手にした一人に権利は与えられると、貴様らはそう言ったぞ」にわかにホムラが殺気立つのを感じる。「わしは手に入れた。何が足らん?」

「権利を得られるのは、この世界でただ一人だ」

「ああ、わしだ」

「女を手に入れたのは、お前だけではない」

「……なに?」

「これより黒塵の砂漠、至天台にて最後のお告げが下される。お告げが下るまでのこれより三刻、一切の戦闘行為は禁止である。女を手に入れた男は、ただ女を伴い廃墟へ馳せ参じよ。メッセンジャーはそれを伝えに来た」

「……ほう」

「自分の女を最後まで守り抜いた雄にのみ、最後の権利は与えられる」

「権利、とは?」

「権利とは、遺伝子を残す権利」すっと、メッセンジャーの翼が私を指す。「お前の種を宿したその女を、女の世界へと帰す権利だ」

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