それでも賽を振る

御調

それでも賽を振る

 病室の窓から差し込む光がベッドを優しく包んでいた。

 暖かさに眠気を誘われ、僕は小さく欠伸をして読みかけの本を枕元に置いた。時計を見れば正午前。じきに昼食と薬の時間だけど少しでも寝ようかと逡巡した矢先に、ドアがノックされた。

 点滴のチューブを絡ませないように注意しながらベッドを降り、ドアを開けると、そこにいたのは健さんだった。

「やあ、少年。勝負しようよ、勝負」

 健さんはいつものように笑いながら誘う。僕はもう少年という歳でもないのだが、その気取った呼び方もいつもの事なので、僕もいつものように答える。

「いいですよ。今日のお題は何です?」

 健さんは隣の病室に入院中の患者仲間だ。何か大きな病気で随分長いこと入院しているそうだが、名前の通り頑健で生命力に溢れていて、とても重病患者とは思えない。急性ナントカ炎の手術を無事に終えて来週には退院予定の僕の方がよっぽど病人に見えるくらいだ。

 元気に見える健さんも闘病生活の真っ最中で、一時期は死の淵を彷徨う事もあったというのだが、当の本人が大声で笑いながら話すものだからどこまで本当なのか分からない。運び込まれた当初こそこの馴れ馴れしい隣人に戸惑ったが、すぐに人生初の長期入院に際して不安に駆られていた僕を元気づけようとしてくれていたのだと分かった。今となってはお陰でこの二カ月弱を心穏やかに過ごせたことに感謝している。

「お題は、そうだな、昼飯だ。今日のデザートを当てた方の勝ち」

 健さんは無類の賭け好きでもある。といっても金儲けがしたいというわけではなく、勝負そのものが好きなようだ。初対面の頃から事あるごとにこんな「勝負」を持ち掛けてくる。むしろそれ以外の話題の方が少ないくらいだ。

 しかしながら正直に言って健さんはあまり、いや絶望的に賭け事には向いていない。

「うーん、じゃあ僕はヨーグルトに賭けます」

 まず勝負に先んじて下調べと観察が足りない。部屋の壁に献立表が貼ってあることに気付いていないし、そうでなくても毎週木曜はヨーグルトが出る日だ。

「それじゃあ俺はミカンに賭けよう。食べたいし」

 そして気分屋だ。一度ミカンが頭に浮かんだらもうミカンの事しか考えていない。期待がそのまま確信に変わる、信じたいことばかりを信じてしまうタイプだ。

 案の定、というより献立表のとおり、運ばれてきたのはヨーグルトだった。勝利の報酬として健さんから巻き上げたデザートは美味しく平らげた。

「また負けちゃったよ。次の勝負は明日にお預けかあ」

「今度こそ勝てるといいですね」

「生意気な少年だな、君は」

 このやり取りもお決まりだ。僕と健さんとの間で、勝負は一日一回と決めている。もともとはあまりに頻繁に挑んでくるのが流石に鬱陶しくなって僕からそう提案したのだが、健さんは意外にあっさりと聞き入れてくれた。曰く「一発に集中したほうが緊張感があって良い」のだそうだ。そんなことを言っておきながらこの二カ月弱、未だに健さんは一度も僕に勝てていないのだけれど。


 健さんの勝負弱さの要因は下調べや観察の不足ではあるが、運も悪い。これまでの勝負の中でも単純な運を競うものはそれなりにあったのだが、驚くほど健さんには運がない。次にそこを通るのは男だと言えば女が通り、表と言って投げたコインは裏面を上に向ける。そもそもが健さんの病気にしたって、これほど長期化・重症化するのはかなり稀なケースという事らしい。

 運の無さには本人も自覚があるようなのだが、それゆえ自分の勝負弱さをすべて運のせいにしているきらいがある。運さえ向いてさえくればこれまでの負けを清算して大勝ちできると疑わない。場当たり的な性格が賭け事に全く向かず、本来なら掴めたはずの運まで逃がしていることに気付いていない。それを指摘しても良いのだけど、きっと「難しいことは性に合わん」とでも笑って耳を貸さないだろうし、今のままの方が健さんは面白いので黙っていることにしている。

「ああ、今日も俺の負けかあ」

 翌日も健さんはやってきて、そして負けた。大袈裟に肩を落として見せる健さんに、僕は苦笑する。そういえば、と思い出して口にする。

「この調子だと僕の勝ち逃げですね。来週には退院ですよ」

「え、もう退院なのか。何曜だ?」

 健さんは意外にも驚いた顔をした。ガリガリと頭を掻きながら焦った様子だ。

「月曜の予定です」

「ってことはあと三回…いや、月曜は俺が手術だからあと二回しかチャンスがないじゃないか」

「手術なんですか?」

「ん、ああ。それはどうでもいい。あと二回か…」

 どうでも良くはないだろう、と言いたかったが真剣な表情の前に思わず言葉を引っ込めてしまう。腕を組みブツブツと何かつぶやく健さんは、あと二回の勝負について本気で考えているようだった。健さんにとって僕との勝負は自分の手術すら脇に置くようなものだったのか。退屈しのぎの遊び程度だと思っていた僕は面食らい、思わず口に出してしまう。

「健さん、そんなに勝ちたいんですか」

「そりゃ当たり前だよ、君に一矢報いなきゃ」

「まさか今までも本気で勝とうとしていたんですか?」

「君、失礼な物言いだな。…いや、いや、確かに俺は弛んでいた。負けても次があると思っていたんだな、うん。ふっふっふ、ここからは真剣勝負だ」

 気取って言うが敗因はそんな気持ちの問題ではない、それ以前だ。そう言いたかったが、不敵に笑ってみせる健さんに水を差すのも違うかと思い直して、代わりにこう返すことにした。

「最後だからって手抜きはしないですからね」


 □■□■□■


 土曜と日曜は退院の準備で忙しく、健さんとの勝負は夜になってしまった。着替えや本を家に戻して幾分広くなった病室で、健さんは二夜続けてがっくりと肩を落としていた。消灯時刻はだいぶ前に過ぎており、外からバレないようにこっそり点けた明りが健さんの影をカーテンに大きく映し出す。真新しいトランプがテーブルの上に散らばっていて、健さんの手には捨てきれなかったカードが握られたままプルプルと震えている。

 どのような言葉をかけようかと迷っていると、健さんの方から声を上げた。

「あー…勝てなかったか」

 先ほどまでの悔しそうな表情とは変わって、吹っ切れたような、諦めたような表情だった。顔を上げてグッと伸びをする健さんの影は、光源から離れたせいか背中を丸めていた時よりも随分小さく見えた。

「僕の勝ち逃げ、ですね」

「本当に生意気だなあ、君は」

 言いながら立ち上がりかけた健さんはしばらく何かを考えているかのように動きを止め、また座り直した。そのままこちらに向き直った健さんの、いつになく改まった様子に少し驚く。思わずこちらも姿勢を正してしまう。

「ちゃんと礼を言っておこうと思ってね」

 普段よりずっと声が小さく聞こえるのは、声を潜めているからだけではない。普段の健さんとは違う、呟くような声だ。けれどその言葉はハッキリと聞き取ることができた。

「俺はね、少年。君に救われたよ」

 突然の言葉にに驚く。僕が健さんに救われたというならわかるが、僕から健さんにやったことなど何もないはずだ。そう言いかける僕を健さんは、まあ聞いてくれと制した。

「俺の病気、明日が手術だって言ったろう? あれな、最後のチャンスなんだ」

 僕は口を挟むことができない。健さんは少し声の調子を明るくしてくれたが、それが却って頼りなく聞こえた。

「いやあ、体重はどんどん減ってくし、食べられないものも増えてて。自分でも薄々わかってたけど。ハッキリ言われると参ってね。もう体力的に限界で次の手術が最後だって言われたのが二ヵ月前だ」

 そんなときに君が運び込まれてきた、と健さんは僕を指さした。

「なんだかなあ、もう自分の望みは薄いと思ったらせめて最後は良いことしようと思ってな。君が随分不安そうに見えたから、それを助けてやるのが役目かなと思ったんだよ」

 思い立ったらそれしか考えられないのが健さんだ。どうすればこの若人の不安を取り除いてやれるだろうかと色々考えたそうだが、そもそも健さんは他人と関わる手段をそう幾つも持っていない。

「…それで、勝負ですか」

 うん、と目の前で大きく頷く。不安が紛れれば、気晴らしになればそれでよい、最初はその程度のつもりだったそうだ。しかし勝負を続けるうち、健さんの心境に変化が生まれる。

「あんまりに俺ばっか負けるもんだからさ、本気で勝ちたくなってきちゃってな」

 健さんは気恥ずかしそうな、しかしどこか不敵な笑みを見せる。望みは薄いと告げられて半ば受け入れていた健さんの心の中で、消えかけていた火は勢いを取り戻した。僕に勝つことが生きる目標となった。どんなにくだらない勝負でもいいから、運頼みでもまぐれでもいいから、この生意気な少年に勝ちたい、一回だけでも。もし勝てたら。

「もし勝てたら、俺の手術も成功するんじゃないか、なんて思っちまって」

 その言葉に僕の思考は止まる。

 今は箱に収められ机の端に置かれたトランプに目が行く。さっきの一戦、僕はどうしたっけ。勝負はどっちが勝った。健さんの最後のチャンスはどうなった。健さんの弱さの理由も知っていた。それを教えなかったのは誰だ。その方が面白いからって。僕は。

 泳がせていた視線が健さんと交差した。そして、健さんが言葉を続けた。


「さて少年、それじゃあ最後の勝負と行こうか」

 え、と思わず声に出してしまった。最後の勝負はさっき終わったではないか、僕が、勝ってしまって。混乱する僕を見て健さんは愉快そうに笑い、壁の時計を顎で示した。針は零時を指している。

「一日一回だろう? 今日の勝負を始めよう」

 先ほどまでのサッパリした、どこか空虚な雰囲気は既に失せていた。そこにいたのはいつものように、いや、いつも以上にギラギラとした生命力を湛える健さんだった。

 やられた。待っていたのだ、日付が替わるのを。健さんと僕の最後の勝負はまだ終わっていなかった。さっきのしんみりした様子も、時間稼ぎのための演技だったのだ。少しのあいだ心を占めていた後悔も罪悪感も吹き飛んで、ただただ呆れてしまった。笑いを隠さず僕は言う。こう言うしかないだろう。

「いいですよ、お題は何ですか?」


 □■□■□■


 翌日、僕は両親に迎えられて病院を後にした。先生と看護師さん達に礼を言って、久しぶりに自動ドアの先に足を踏み出す。思っていたよりもずっと陽射しが強く、いつの間にか季節が過ぎていたことを知る。車に乗り込むと後方で白い建物がみるみる小さくなってゆき、自分がいた場所はあんな形をしていたのかと、不思議な感覚に陥る。あの建物で、今まさに健さんの手術が執り行われていることだろう。

 健さんの提示した最後の勝負、お題はとてもシンプルなものだった。

「明日の俺の手術が、成功するか、失敗するか」

 一瞬ぎょっとして怯むが、その様子を見て健さんが勝ち誇った顔を見せたので慌てて取り繕った。最後の勝負だからと手は抜かない、僕はそう宣言したのだ。

 僕は健さんとは違って、下調べもするし観察もする。期待した通りの未来が起こる確率を計算する。だからこれまで賭けに勝ってきた。手を抜いてはいけない。それに、健さんが何と言うかは分かっている。だからこう言うしかなかった。

「…僕は、失敗する方に賭けます」

 絞り出した声は震えていたと思う。喉が痛かったのを覚えている。それでも顔を上げれば、健さんの表情は満足気だった。ニヤッと笑ってこう言った。

「俺は、成功する方に賭けるよ」

 確率なんて考えない、期待だけに全てつぎ込んだ、いつもの健さんだ。それで負け続けても反省などせず、性懲りもなく都合の良い未来を望む、いつも通りの。


 その後どんなやり取りをしたのかはあまり覚えていない。泣いていたような気もするし笑っていたような気もする。二言三言、言葉を交わした気もするし、そのまま黙って出ていく健さんを見送った気もする。気付けば朝になっていて、隣の病室は既にベッドごと運び出されてもぬけの殻だった。昨晩の事はもしかして夢だったのではないかとすら思う。

 車の後方で病院は街の景色に埋もれて今にも見えなくなりそうで、手術室の場所なんて見当もつかない。ふと浮かび上がってきた言葉は、あまりに気障ったらしくて恥ずかしくなったけれど、口に出すのを止められなかった。


「…今度こそ勝てるといいですね」


 本当に生意気な少年だなあ、と声が聞こえた気がした。

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