1-22 驚天と動揺

「ハァ……ハァ……ハァ……!」


 息を荒げながら、コートを羽織ったアリサが廊下を走っている。

 何事にも表情を崩さないアリサだったが、今はそのポーカーフェイスを崩しつつあった。


 それは、まさしくジンの容態が原因だった。

 突然引き起こされた、原因不明の発作。


 アリサは急いで治療を施そうとしたが、重傷を負って衰弱していた彼女では治すことは叶わなかった。

 そこで急遽医学に詳しい同僚を呼び出し、『治療お願い』と半ば強引に押し付けたのだ。

 そして、丁度先程『容態が安定しましたよ』と通信が入り、こうして急いで病室に駆け付けていた。


「……取り敢えず、起きてたら……お礼、言わないと」


 あのときは状況が状況だった上に、ジンが突然意識を失ったせいで結局助けてもらったことにお礼を言うことが出来なかった。


 アリサは相変わらず、ジンが嫌いだ。初対面で身体をまさぐってくる変態。立場を弁えずに妙に馴れ馴れしく接してくる礼儀知らず。彼のことをプラスに思える要素がない。


 しかし、


「…………」


 走りながら、首筋に手を当てる。

 切り裂かれた首の傷はとっくに完治した。後遺症なんてものもない。

 しかしジンに助けてもらったあの瞬間や、『呪い』とも言えるこの体質を純粋に褒めてくれたあのときの彼の目を思い出す度に、治り切った筈のこの傷がチクチクと疼く。


「あ……」


 考えごとをしている間に、ジンのいる病室を通り過ぎようとしていたことに気付き、アリサは慌てて立ち止まる。


 アリサは部屋に入る前に一度頬を両手で叩き、そしてドアにノックを――


『君、人間じゃありませんね』


「…………ぇ」


 ドアを打とうとしていた右手が、板に触れる寸前で停止する。


 聞こえてきた声は、ジンの治療をお願いしたアレンのもの。

 だが、その声が紡いだ内容は、どうしても理解出来なくて。


『何が軽くだ。このデータ、精密検査にも程がある。知らない間に身体を弄くられるのは好きじゃないんだ』

『否定はしないのですか?』

『事実を否定して何になる? オレ自身、自分はそういうものなんだって受け入れてる。否定したところで何も始まらないからな』


 続く会話。訊き返されたジンは否定するどころか、当たり前だとあっさり肯定した。


「はぁ……はぁ……!?」


 走ったのとは別の理由で呼吸が乱れる。

 思考が支離滅裂に分解される。ナニカが頭の中を渦巻いて暴れ狂う。


 どういうことだと声に出そうとしても、カラカラに乾いた喉は掠れ声しか出さない。

 引き戸の取手を掴んで開こうにも、腕からそこまでの距離があまりにも遠い。


『感情を植え付けられただけの有機物が、見事に人間社会に溶け込んでいるんだ。必死に人間に擬態しようとするそのあまりの滑稽さに、感動すら覚えてしまう』


 猫仮面が告げたあの言葉。

 聞いたときは、何のことだか分からなかった。何かの例えだと、そう考えていたのだ。


 だがそれが比喩でも何でもなく、ありのままの事実を語っただけだとすれば――


「ッ……!」


 ふと気が付けば、アリサはその場から逃げ出していた。

 それ以上聞いてしまうのが怖かった。その先を知ってしまうのが怖かった。


 そのことを知ってしまえば、ナニカが壊れてしまう気がしたから。


 アリサは無我夢中で走り続けた。その疾走は、髪を見られたときよりも焦燥したもので。

 だが幾ら逃げても、その胸の騒めきだけは、決して取り払うことは出来なかった。

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