第5話


 芙蓉は月娟がいる天幕に早足で向かった。

 天幕とは木組みと布で作る簡易な移動式の住宅である。雨風も防げる為、こういう旅路には重宝された。荷を乗せた軒車には輿入れ道具や花嫁装束を用意している為、人数分を用意する事はできなかったが月娟やその侍女達の分は用意してあった。


「月娟様、戻りました」


 天幕の入り口に着くと、中へ向かって声をかけた。


「入って」


 月娟の声に従い、垂れ幕を上げ、中へ入る。公主の為に用意された天幕は広く、高い。地面には西方から取り寄せた絨毯じゅうたんが引かれており、奥にはつくえや化粧台などが置かれていた。

 月娟は卓に向かい、何やら書いていたようだ。紙と筆が用意されていた。


「お邪魔でしたか?」

「いいえ、奏から使者が来たでしょう? 父上に送る文を書こうと思ったの」


 月娟は安心させるように微笑むと首を左右に振った。月の光を集めた様な髪がさらさら揺れる。


「奏王陛下も喜ばれることでしょう」


 早馬を走らせてきた使者は今夜はここで休み、明日の朝、奏国に戻ることになっていた。表立って手紙を書けとは言っていないがきっと内心では愛する月娟の手紙を待っているに違いない。


「ええ、書きたいことは山ほどあるわ。けど、続きは後で書きます。では、芙蓉。先程の約束、覚えていますか?」


 月娟はころころ笑った。その声音は悪戯を成功させた子供の様に明るい。主人が何を言いたいのか理解して、芙蓉は困ったように微笑んだ。


「覚えていますよ。では遠乗りに出かけましょう」


 よく見れば、月娟は乗馬の為に普段の襦裙じゅくんから乗馬用の胡服に着替えていた。艶やかな髪は結い上げておらず、うなじでまとめられている。


「けど、いいのですか? ここは水麗宮ではないんですよ」


 主人の格好に苦笑が漏れた。遠乗りしようと誘ったのは自分だったが、月娟の負担にならないように緩やかに馬を歩かせるつもりだった。しかし月娟の格好を見ると、恐らく馬を走らせることになるだろう。

 女人でもある程度、自由を認められる奏国でも公主が馬を走らせるのはいい顔されない。奏国にとって王の血を継ぐ者は神仙の化身と言われた。敬愛するべき存在なのだと聞かされ育った。彼らが怪我をし、血を流す事は国の疲弊を招くとも言われるぐらいだ。

 自分と相乗りするため、安全には気をつけるが万が一がないとは言い切れない。芙蓉は困ったように頬を掻いた。


「いいのです。清に行けば前のように気軽に馬にも乗れません。この旅路が最後になります」


 細い柳眉りゅうびが下がる。天女の美貌が悲しみに染まるのをみて、芙蓉の口から「う」という言葉が漏れた。

 どうにも芙蓉は主人のこの顔に弱いらしい。元から甘いという自覚はあるが、それでも進言することはあった。

 けれど、


 ——最後にはこの表情なんだよな。


 月娟はわかって、この顔をする。この顔をすれば芙蓉は負けると知っているのだ。

 芙蓉は諦めた様に肩を落とすと深いため息を零した。


「荒れた道は通りませんよ」


 その言葉に天女は大輪の花の様に笑った。




***




「久しぶりね。ちょっと不安だわ」


 芙蓉の胸に背中を預け、月娟は呟いた。不安そうだが、その声は嬉々としていた。


「馬の動きに合わせて頂ければ大丈夫ですよ」

「ええ、わかったわ」

「最初はゆっくり走らせますね」


 月娟が頷くのを確認して、芙蓉は馬の腹を軽く蹴った。小さい頃から世話をした愛馬は、その合図で主人の気持ちを読み取り、最初はゆっくりとした足取りで歩き始めた。


「芙蓉。私は死ににいくのだと思っているわ」


 冷え切った空気を裂く様に走る中、風により乱れる白銀の髪を抑えながら、月娟は言った。後方に座る芙蓉からはその表情は見えないが、強張る声から緊張が感じ取れる。


「私はこの婚姻も失敗に終わると思っているの」


 どこか諦めた様な声だった。何か話しかけようと思考を巡らせるが芙蓉が口を開く前に月娟は言葉を紡ぐ。


「だってそうでしょう? 和平のためだと何度、あの野蛮国に公主を嫁がせたと思う? 私も歴代の公主同様、清王の寵愛も得られず、老いていくのよ」


 月娟は項垂れるように背中を前のめりにした。芙蓉は主人が落ちないように手綱を握りながら、その細い肩に手を置いた。


「清王は戦好きではあれど、聡明な方だと聞いています。きっと月娟様を大切にしてくれるでしょう」


 先王は愚王とまで言われた暴君だった。それを見て育ったためか現王は知恵のある人だと聞いたことがある。

 先王は無類の女好きで、愛する寵妃達の為に金を惜しまなかった。それが国を傾けたとも知らずに酒池肉林に溺れ、遂に国が存亡の危機に陥った。危機感を覚えた臣下が何人も進言したが愚王は耳を貸さず、王に刃向かう者として肉刑か死刑に処したという。

 それに心を痛めたのが当時、皇子の一人だった現王だ。彼は王位からほど遠い末席だったが、父王の醜い様を見て、貧困に喘ぐ民を見て、十九歳の時に愛妾と閨で愛欲にふける父に近づき、問答無用でその首を切り落とし王座についた。その後、素晴らしいと称される手腕と頭脳で僅か数年で落ちぶれ、小国になった清国を大国へと導いた。


「そうだといいわ」


 月娟も現王の噂は聞いているが、父親を殺す男というのが恐ろしかった。父親は優しく、己を無限に愛してくれる存在だと認識していた。その様な存在を殺せる男が自分の夫になる——そう思うと嫌で仕方がない。

 けれど、と月娟はおもてをあげて前を見据えた。


「私は奏の公主。いつまでも父上に甘えているわけにはいかない。この婚姻は和解の為にあるのですもの。私一人の我儘のせいで両国の関係がこれ以上悪化するのは避けなければならない。だから頑張ろうと思うの」


 ——例え愛されなくても。


「……貴女には私がいます。いつまでも」


 気づけば、そう呟いていた。

 幼い頃に出会い、ずっと共にいた。公主と国民で身分は違えど、芙蓉にとって月娟は大切な人だった。月娟には幸せになって欲しい。他国の王に嫁ぐのが決まってもその思いは変わらない。

 ならば、


 ——どこへ行っても月娟様をお守りしよう。


 自分にできるのは側にいることだ。

 芙蓉の心を知ってか、月娟はころころと笑い声をあげた。


「ありがとう。芙蓉、貴女を巻き込んでしまってごめんなさい。貴女の人生を曲げてしまって。……けれど、貴女がいて心強いわ」

「ずっとお側にいます。これからは侍女として、護衛として、ずっと一緒です」


 この輿入れで唯一の僥倖ぎょうこうは、彼女の臣下になれたことだろう。奏国にいた時から彼女の遊び相手としてよく登城していたが臣下にはなれず、ただの幼馴染扱いだった。正式に月娟付きになりたくて、父の景貴に「臣下になれるように進言してくれ」と何度も頼んだが父は難しい顔をして顔を左右に振るだけだった。

 しかし、これからは侍女として側にいられる。護衛としてお守りできる。


 ——やっと一緒にいられる。


 芙蓉は嬉しさに口元を緩めた。



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