第47話 初キスなんかじゃありません

 泥沼から這い上がるように、感覚と意識が浮上していく。

 何かよくわからないけれど、気持ちいい。


 何かが身体を押しているような……。


 突然バチッと弥生の目が開き、かなりな至近距離に肌色を感知した。あまりに近すぎて、最初は何かわからなかったくらいだ。

 ほんのわずか肌色が動き、温かく柔らかい何かが弥生の唇をかすめた。


 弥生がのけ反るように距離をとると、初めてその肌色を人間と認識した。


 キ……………………キス?!


 長く濃い睫毛は閉じられており、スースーと寝息をたてている。弥生より少し高めの体温が弥生の全面にピタリとくっつき、弥生を囲い込むように長い腕が弥生の背中側に回っていた。その手は無意識にか、弥生の背中……というかほぼ尻辺りを揉むように動いていた。


 ヒィ〰️……〰️ッ!


 弥生は声にならない悲鳴をあげ、身体が一瞬で硬直した。

 弥生を抱きしめ寝ているのは賢人で、しかも何故か尻を揉まれている。さっき弥生の唇をかすめたのは多分賢人の唇で……唇で、弥生のファーストキスではなかろうか?!


 いや、あれはただの接触事故!

 断じてファーストキスなんかじゃありません!!

 と言うか、手ッ!


 弥生が賢人の腕を引きずり上げると、尻を揉んでいた手は今度は背中をまさぐり始める。尻に固執していない様子からも、寝たフリをして不埒な真似をしているのではなさそうだ。


 なさそうだが、寝ているにも関わらず、セクシャルに動くその手は如何なものだろうか?!


 弥生は今まで賢人が女の子と何をしてきたのかは知っている。いくら恋愛に疎く生きてきたからと言って、「賢人とネタ」と自慢気に言い回る女子達の「ネタ」が、ただ添い寝しただけの「寝た」ではないことぐらい理解している。

 だからこそ、寝ているのに、きちんと弥生だと認識している訳じゃない癖に、習慣のように隣に寝る物体を抱きしめ、いかがわしく手を動かす賢人に、フツフツと怒りがわいてくる。


 誰とでもこんなことしてる癖に!


 弥生はガブリと賢人の鼻に噛みついた。


「イッタ! 」


 賢人の目が開き、同時に背中をまさぐっていた手が止まった。


「おまえな、もう少し色気のある起こし方しろよ。ってか、今何時? 」


 賢人が弥生の上にのし掛かるように上半身を起こし、弥生の向こうに放り投げていたスマホに手をのばした。目の前に迫る賢人の胸板に、弥生の喉が小さく鳴る。


「やっべ、十時かよ。マジ腹減った。おい、飯……、うん? どうした? 」


 賢人にしたら、異性とこの距離は慣れたものなんだろうが、弥生からしたらベッドでこの態勢は脳ミソが沸騰しそうだった。

 真っ赤になって両手を胸の前でギュッと組み、小さく震えながら身体を縮めて両目を固く瞑る弥生。


 そんな弥生を間近で見て、正常でいられる程賢人は聖人君子ではなかった。下半身に熱が集まり、諸々の衝動に駆られるのは、十代男子としたらしょうがないことだろう。


 息が触れるくらいまで距離を詰め、唇を噛み締めている弥生の耳たぶをなぞるように指を這わせた。

 さらに身体を強張らせる弥生に、賢人がフッと笑った気配がした。


「飯、作って。腹減り過ぎだから」


 微かに耳に唇が触れた気がしたが、賢人はスンナリ起き上がって大きく伸びをした。


「な……なんで一緒に」


 ここは賢人の部屋で、寝ていたのは賢人のベッドだ。ワンピースは多少皺になっているが着崩れてはいない。パンツは……履いている。


 弥生は自分の状況を分析しながら、記憶を一生懸命手繰り寄せてみたが、電車に乗った後の記憶がない。確か、夕方……四時くらいに公園を出た筈で。


「貸し一つな。おまえ、立ったまま爆睡って有り得ないだろ。電車で寝ちまったから、担いで連れて帰ってきてやったんだよ」

「それは……ありがとうございます? 」


 起こしてくれれば良かったのでは? と思わなくもなかったが、寝ている人間を担ぐのは大変だっただろうと、とりあえずお礼を言っておく。

 ただ、だからと言って、同じベッドで寝ていたのは如何なものだろうか?

 いくら弥生が小柄だといえ、シングルベッドに大人二人が寝るのは狭いし、その狭さのせいでくっつきすぎて唇がかするなんてハプニングまで起こってしまった訳で……。


 なんとなく納得いかないというようにムーッと唇を尖らせていると、賢人が弥生の後頭部に手を添えて、掠めるようなキスをしてきた。

 本当に一瞬で、何事か理解できないままに賢人は素早く離れてしまう。


「貸しはおまえのファーストキスでチャラ。風呂入ってくっから、夕飯よろしく。もう遅いから軽めでいいぞ」


 真っ赤になって固まった弥生を放置し、賢人は上着を脱ぎながらバスルームへ向かってしまった。バタンとドアの閉まる音で、弥生は悶絶するようにベッドに倒れ込んだ。

 恥ずかしさと……、まさかのホンノリとした嬉しい気持ちが溢れてきて、自分の感情に戸惑いしかなかった。

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