第10話 第二部 義陽 第九章 響ヶ原の落日

          (一)


 甲斐かい宗運そううんとの決戦を行うための出陣の前夜。相良さがら義陽よしひは、ただ心穏やかにときを過ごそうと考えていた。

 目の前には酒器があり、脇には心許した近侍、ひがし左京進さきょうのしんが一人だけ控えている。義陽には、それだけで十分であった。

「ご免」

 部屋の外から声が掛かったと思った主従二人は、灯火の光から遠い板戸へと目をやった。戸は開かずに、薄暗がりの闇が一部だけ濃くなっている。それは次第に、人型に見えてきた。

「何奴っ」

 左京進が鋭く誰何すいかの声を上げ、太刀を手に片膝を立てた。その膝を伸ばせば、抜き打ちながら人影と主君の間に入れる体勢である。

 影は、最初の跪座きざしたような姿勢から、今は低く平らに見えている。

「ご領主様。お久しぶりにござりまする」

「おのれ化け物っ」

「左京」

 抜き撃とうとする左京進を、義陽がとめた。影が放った声には、聞き憶えがあった。

おもてを上げよ」

 義陽の静かな声に応じて平伏から直った姿は、もう完全に人であった。

「おのれは、勝軍斎しょうぐんさい……」

 左京進が唖然として呟いた。声から予期をしていた義陽は、口元に静かな笑みを浮かべた。

「生きておったか」

「幻術遣いにござりまするからな」

 温かみが込もった義陽の問いに、勝軍斎も穏やかに返した。

なぜ今まで姿を表わさなかったのかと、思わぬでもない。しかし、己はこの男を斬罪に処そうとしたのだ。最後にこうして顔を見せてくれたことだけでも、謝するべきであった。

「して、こたびはいかなる用で参った」

「お別れを申し上げに、まかり越しました」

「そうか……左京進、いつまでそのような格好をしておる。話しがしづらい、直っておれ」

 義陽はいったん左京進に顔を向けて穏やかに叱ると、また目の前の相手に向き直った。

「勝軍斎、されば相良の最後、そなたの目で見届けてくれるか」

 懐かしい修験者姿の男は、しばらく義陽の顔を見つめた後で、ようやく口を開いた。

「ご領主様。あなた様はそれで、本当によろしゅうござるか」

 叱責の声を上げようとする左京進を、義陽は目顔で制してから言った。

「良いも悪いもないではないか。相良は、もう滅んでおるのだ――宗家の血筋ではない上村うえむら頼興よりおきの系統がどうなろうと、この領の命運は既に定まっておる」

「ご主君」

 左京進がかすれた声を上げた。それは、左京進の悲鳴であった。

「左京進、皆が知っていることであろう。ことここに至りながら、今さら知らぬふりを続けて何になる。むしろ、こうした場だけでもあからさまに申したほうが、さばさばと終われるというものではないか」

 左京進は、義陽に返すべき言葉がなかった。

「ご領主様。情けなきお言葉を伺うた。これが、賢君義陽様のご本心であろうか」

 勝軍斎の珍しく湿った口調に、球磨の領主は強く応じた。

「おう、これが相良義陽よ。賢君でもなんでもない。ただの簒奪者さんだつしゃせがれじゃ」

「ご領主様。領土とは、何でござろうな。誰のためにあるものでござろうか。相良が滅ぶなればそれもよい――なるほど、そうかもしれませぬ。しかし、相良が滅んだ後、この球磨はどうなりまする」

 無言の義陽に、かつてそのちょうを受けた勝軍斎が続けた。

「島津が、どうとでもしてくれまするか――ご領主様、かつて相良が領した八代が、島津の手に渡った今どうなっておるか、あなた様もようご存知であられよう」

 八代は、義陽の下で統治を行っていた国衆くにしゅうの多くが斬られ、あるいは見知らぬ土地へと移されていた。今は、新たに薩摩よりやってきた征服者たちが、これまでのやり方を認めず島津の作法を強要し、強引な統治を押し進めている。残った者たちにとっても、生きづらい暮らしが強いられていた。

「どうせよと。勝軍斎、儂にどうせよというのじゃ」

「どうせよとは。ご領主様は、何をなさりたいがゆえにお聞きになっておられますのか」

 一瞬勝軍斎を睨んだ義陽は、肩から力を抜いた。

「勝軍斎、儂の負けじゃ。確かに相良がどうなろうと構わぬは、これまで申したとおりなれど、国衆が、そして民が苦しむは本意ではない。

 勝軍斎、どうすればよい。頼む、教えてくれぬか」

 頭巾の中の修験者の眼が一瞬なごんだ。そして、再び厳しさを増した。

「難しい。難しゅうござる――が、ただ一筋、光が射しておらぬわけでもありませぬ」

「何じゃ、それは」

「義陽様。あなた様は、御先代様とは違い、これまで自ら動いて道を切りひらかれてきたお方。今さら立ち止まっても、先行きは見えますまい――なれば、最後までご自身の力でお進みになること」

 義陽は、目の前に座る勝軍斎を凝視した。

「やるべきことは、己がやらんとしておること」

「いかにも」

「ならばなぜそのようなことを言いに――心持ちか。これまでの考えを改め、新たな心持ちでことにあたれというか」

御意ぎょい。さすがに我が見込んだ相良の賢君におわせられる」

 勝軍斎は、辞宜じぎを正して義陽に平伏した。

「その賢君と言うはやめよ。小賢こざかしい頼興の倅よと言われておるような気がする」

 義陽は、苦笑しながら内心を吐露した。

 それを聞いた修験者は、何のつもりか己の頭巾のひもを解き始めた。

 左京進が息を呑んだ。荢屑頭巾おくそずきんの下から現われた顔には、火傷やけどあと一つなかった。坊主頭に短い白髪をわうかに残すしわ深いその顔は、義陽が思っていたよりずっとけているように見えた。

 相手が顔を隠し続けてきたため、己と共に歳をとるとの当たり前の感覚を欠いていたこともある。

「それが、お主の本当の顔か」

「御意」

 肯定する勝軍斎の顔を初めて見た義陽は、どこか見憶えがあるような気がして戸惑っていた。

「ご領主様は、ご自身を上村の血筋とお思いのようだが、それは誤解」

「言うな。気休めは聞かぬぞ」

「ご領主様、そなた様のお母上は、そのようなお方ではござりませなんだぞ」

「お主、我が母に会うたことがあると言うか」

 勝軍斎は、無言で己の懐から何かを取り出し、膝を進めて目の前の主君に差し出した。義陽が受け取ってみると、粗末な綿の小袋に入った何かのかたまりのようだった。

 顔に近づけた袋から、懐かしい香りがした。それは、母の記憶と共にある香りであった。

 普段、母からしていた匂いではないが、この香りがするときの母は、いつも悲しい顔をしていた。それが、おさの記憶に強い印象を残していたのだ。

 勝軍斎は、義陽が記憶をよみがえらせたことを、その表情から読んで言った。

「それは、お母上がお持ちであった、そのものではござりませぬ。が、それと全く同じものを、お輿入こしいれの前に差し上げ申した」

 義陽は、手の中の小袋をしっかりと握りしめた。

「それが、何のあかしになる。我と先代義滋よししげ公では、他人ほどに、ものごとのやりようが違うわ」

 素顔になった勝軍斎は、昔を思い出すように宙を見上げた。

「かつて、義滋公の弟に、瑞堅ずいけん坊主と名乗る荒くれ法師がおり申した。兄の言うこともその家臣どもの言うことも聞かず、先走って、謀叛人の長定ながさだを追い出してしまうような、我執がしゅうの強き者にござった。この瑞堅坊主、温厚な義滋公と、紛れもなく父も母も同じにござる。

 その二人の父君であらせられた長毎ながつね公は、初めて八代やつしろを領された英主にござります。ご性格も、磊落らいらくで活発であらせられた。そして、長毎公のお腹違いのお子である長祇ながまさ公は、御先代義滋公と同じく穏やかなご気性の人物であった。

 このように、人の性格というものは、親子でも兄弟でも違うもの。似ておる同士もおれば、全く似ておらぬやに見える者もござります――血筋というなれば、あなた様は、それこそ確かに、御祖父長毎公の英邁えいまい仁恤じんじゅつを受け継いでおられまするぞ」

「八代を手中にした長毎公と失うた己では、全く出来が違おう」

「そのようなことを言うておるのではござりませぬ。ものごとには時の運がござる。

 義陽様――それがしの申すこと、内心ではもうお判りにござろう。己が上村の血か、相良の血か、お疑いなればよう鏡を見てお父上と頼興の顔を思い出しなされ。それでも足りねば、鏡の中のお顔と、この皺に埋もれた老顔をお比べになればよろしゅうござる」

 義陽は、今はっきりと気づいた。見たことのないはずのこの顔に見憶えのある気がしたのは、そこに義滋の面影を見ていたからだった。

 ――初めてこの男を呼び出したとき、一面識もないはずの相手に奇妙な親近感を抱き、その後もそれが消えることがなかったのは、その声のゆえか。言葉にも態度にも表さぬまま相手が伝えた肉親の情が、己の心に届いていたからか。

「勝軍斎、そなたは……我が叔父上か」

 修験者の格好をした高僧は、義陽に向かいにっこりと微笑んだ。

 義陽が己を叔父と呼んだということは、心の中で義滋が父であることを受け入れつつあるということだった。

 不意に、二人の脇に控えていた左京進ががばりと平伏した。

「勝軍斎様……」

 頭巾をはずした勝軍斎は、穏やかな顔を左京進へ向けた。

「東殿、過ぎたことはもうよいではないか。お手前の為したることは、全てご主君への忠義心から発したもの。それを疑う者は、この場には一人もおりませぬぞ」

 左京進は、この言葉に応えることも顔を上げることもできなかった。己のしたことが何だったのか、今に至ってやっとはっきり判ったのだ。

 正体を明らかにした勝軍斎は、義陽に再び目をやった。

「さて、本日はここに、若者を一人連れて参っております」

 突然話を変えた勝軍斎の後ろに、見ればいつの間にか侍が控えていた。

「この者、我が一族の末に連なる者にて、新介しんすけと申しまする」

「相良、新介様……」

 東左京進が呟いた。新介と呼ばれた若者は、義陽に頭を垂れたまま、わずかに顔を傾けて左京進に笑みを見せた。

「この者、これよりの相良が生き延びるために役立たせんと、連れて参りました」

「我が後の、相良じゃな」

 義陽のそのいに、勝軍斎は応えなかった。

「相良は、生き延びられようか」

「難しゅうござる。が、やれることをやらねば、何も起きませぬ」

 この男にしては珍しく、更に何か言おうとして、言わずに口をつぐんだ。義陽は、左京進に目を向けた。

「左京進、新介を深水ふかみ宗方そうほうに預けよ。宗方なれば、先にも叔父上より一人遣わされている。よいように取り計らうであろう」

 承った左京進が、若い新介を案内しようと腰を上げた。その目が、己に顔を向けた勝軍斎の眼と合う。

 勝軍斎は、瞳に深い色をたたえて小さく頷いた。

 それを見て、左京進の背筋がすっと伸びた。左京進は、主君叔父君の無言の依頼を確かに受け止めたと思った。

 ――己は相良義陽様の近侍。

 ならば、為すべきことは決まっていた。

 義陽は、新介を連れて部屋より引き下がる左京進の後姿を黙って見送った。

 深水宗方も、その許に預けられていたという荗季しげすえ休矣きゅういも、明日の合戦には置いてゆく。

 できるなら東左京進もそうしたかったが、残しても、自分に何かあればこの男は生きていまいとの確信があった。だから、この男だけ連れて行く。そう決めていた。

「さて、そろそろそれがしもおいとまをする刻限にござりまするな」

 勝軍斎の言葉に、義陽は我に返った。言葉を改め、目の前の叔父に言った。

「お別れにござりますな」

 父の弟である勝軍斎は、言いづらそうにしながら望みを述べた。

「義陽殿。先ほどお渡しした小袋、差し上げたいが、まだ使わねばならぬことがござりまする。お戻し願えまするか」

 義陽は、己が小袋を握りしめたままであったことに気づいた。母の思い出。返すことに抵抗を感じた。それでも、相手に聞いた。

「この国のために?」

 勝軍斎は、義陽の目をしっかりと見つめたまま頷いた。

「この国のために」


          (二)


 出陣にあたり、義陽が統率する兵は、合計で八百ほどであった。いかに領地が球磨一郡だけになったとはいえ、ときを掛ければ優に二千以上、急ぎでも千二、三百ならすぐにも召集が叶うはずなのに、義陽はこれ以上兵数を増やそうとはしなかった。

 甲斐宗運の迎撃の準備が整うであろう頃合いをただ待ち、最初に集めた兵だけで進軍を開始した。

 阿蘇あそに踏み込んで後、義陽は東左京進を呼んで兵三百を預け、別働隊を組ませた。

 別働隊の中核は、母衣衆ほろしゅうとした。母衣衆は君主の直轄部隊であり、自軍が危機におちいったときには、君主を守る最後のたてとなるべき存在である。これを、本来の役割からはずして他の任務に使うことに、配下の将である高塚たかつか上総介かずさのすけらから異論が出た。

しかし、義陽は聞かなかった。

「近侍である左京進が指揮する部隊は、気心の知れた者どもばかりで構成された母衣衆が最適任である。更に母衣衆は騎馬集団であるから、これから左京進に命ずる速攻においても欠かせない」

 そう主張して、頑として譲らなかった。

 いつもであれば真っ先に主君に諫言かんげんし、何よりも主君の身の安全を第一に図ろうとするはずの左京進が、このときはなぜか黙って義陽の命を承った。高塚らが更に強く義陽を諌められなかったのは、この左京進の態度が一因であったろう。


 一方、甲斐宗運は自軍を四隊に分けた。うち二隊を先発させ、間道を進ませる。相良軍に側方から奇襲を掛けるための作戦であった。


 東左京進率いる相良別働隊は、本隊から分離、先行した。進軍の速度を上げると怒涛どとうのように敵に襲い掛かり、堅志田城かたしだじょう甲佐城こうさじょうと、たちどころに二つの城をとしてしまった。後先を考えぬ炎のような突撃である。二城の城代の首を取ると、左京進は使いに持たせて主君に披見ひけんした。

 翌日。甲斐宗運の放った先遣隊のうちの一つが、この左京進の部隊と衝突した。

互いに予期せぬ遭遇戦そうぐうせんとなり、入り乱れて両軍統率のとれぬままの乱戦となった。兵数では甲斐の先遣隊のほうがやや有利であったが、勝敗を分けたのは指揮官の積極性だった。

 左京進は自ら槍を取って奮戦し、敵中に斬り込んでいった。周囲の兵が続かぬわけにはいかない。

 左京進に預けられた部隊の主力が母衣衆であったことが、ここで幸いした。主君危機の折の最後の楯になるべき男どもは、当然、いずれも武勇を誇る猛者である。さらに、馬上戦にも、味方が切り崩された中での単独戦闘にも、対応する準備ができていた。

 甲斐の先遣隊は、騎馬を使った突入を再三繰り返す猛者もさどもの縦横無尽な攻撃に、急戦の勃発ぼっぱつで十分とはいえなかった連携を完全に断ち切られることになった。

 甲斐の第一先遣隊は完全に崩壊し、山中に逃げ散った。左京進はこれを追わせず、兵をまとめると、物見を放つことにした。

 突然起こった遭遇戦闘を、反省してのことである。しばらくすると、物見より、甲斐の先遣隊がもう一つ存在し、間道を進軍中であるとの報せが入った。

 左京進は、この第二の先遣隊に待ち伏せをかけることにし、間道の要所まで兵を進めると、そこに自軍の部隊を潜ませた。昨日からの度重なる戦闘で、皆疲れきっている。伏兵となり足を止めることには、兵に休息をとらせる意味もあった。

 そして、甲斐の二つめの先遣隊をこの待ち伏せによる奇襲で潰してしまえば、敵の進んできた道を逆に辿り、甲斐本軍へ不意打ちの側面攻撃を掛けることが可能なはずだった。それは、相良本軍への十分な支援戦闘になるはずだ。

 左京進は、義陽の心の内を十分察しているつもりではあったが、簡単に目の前の敵に屈するつもりもなかった。

 ――要は、勝てばよい。勝ち続ければ、島津もこの相良をあだおろそかにはできぬようになろう。ご主君は、常勝軍の御大将おんたいしょうとなるのだ。

 そう考え、まっしぐらに突き進むというのが左京進の覚悟であった。

 ――ご主君の尖兵せんぺいとなる。

 それ以外、左京進の頭にはない。


 東左京進の別働隊が阿蘇の二城を抜いたころ、義陽率いる相良本軍は、決戦の舞台として選んだ響ヶ原ひびきがはらに到着した。大将の義陽は、目の前に広がる原野を眺め渡した。

「全軍川を渡って布陣する」

 この指令に、またもや部将の高塚上総介が異を唱えた。

「渡った先は窪地くぼち、攻めかかってくるほうに勢いがつく地形にござります。また、周囲に茂みが多く、万一敵の別働隊に回りこまれたとき気づきにくいところも難点。

 ましてや、川を背にしての陣立ては形勢不利となっても撤退が難しく、川を渡っての布陣というお指図は、お殿様のごじょうとはとうてい思えませぬ」

 母衣衆を本陣から切り離すという常識外の策戦さくせんに続けての疑問手であったため、言い方はかなり強くなる。それでも高塚をたしなめる者が出なかったというところからしても、皆が義陽の考えに反対していることは明らかだった。

 義陽は、表情を変えずに己の幕僚たちを見回した。

「お主らは、負けるつもりで戦さを始めるか」

 主君が麾下きかの兵に向かって口にした言葉は、これだけであった。

 響ヶ原に陽が落ちた。明日は決戦になる。兵たちは黙々と夜営の支度をし、炊き上げた飯を口に運んだ。

 この夜が明けたら命のやり取りになると知っていても、昨日と何も変わらぬ顔で、昨日と同じ事をしていた。皆これまでずっと、戦さに明け暮れてきた男たちであった。

 どこかから、耳に馴染なじんだうたが聞こえてきた。球磨に伝わる子守唄だった。

 誰かが口ずさむ唄が途切れ途切れに聞こえてきて、心にみ込んだ。焚火たきびに無表情な顔を照らされていた男たちの陰影が、少し動いたようにも見えた。

 相良の将、高塚上総介は、陣幕の外に広がる草原に佇む主君の背中を見ていた。

 わずかに顔を上げて星空を見上げる義陽の口から、その旋律は流れ出している。上総介は、これほど寂しげな義陽の後姿を、これまで見たことはなかった。

「上総介。お主には損な役回りをさせた」

 日暮れ前、夜営と警護の手配に忙しく立ち回る中で、ふと人影が絶えたとき、ぽつりと義陽が口にした言葉である。

 それからは、義陽をいさめようとすることをやめた。先を心配するつもりもなくなっている。

 ただ、この主とともにくだけだから。


 夜空に輝く星を見ながら、義陽は己が唄を口ずさんでいることにしばらく気づかずにいた。心に流れる旋律が、いつの間にか口からこぼれ出していたようだった。

 義陽の母は名和の娘であり、義陽は幼い頃、母についてきた名和の女房どもの手で育てられた。だから、己の耳に残っているのは宇土うとの子守唄のはずなのに、出てくるのはこの物悲しい唄であった。

 口を閉じ、月を見上げた。

 ――全ては明日。

 それで、終わるはずだった。


          (三)


 翌日もよく晴れた、心地のよい朝となった。

 響ヶ原の中央に布陣する相良本軍に対し、甲斐宗運は手勢を二手に分け、左右の陣で堂々と進んできた。

 義陽も自軍の兵を前に出す。両軍で戦鼓せんこが打ち鳴らされた。

 形式を踏むように少しだけ矢合わせが行われ、すぐに兵同士がぶつかり合った。

 前面左右から挟んでり潰すように圧迫してくる甲斐軍の兵に対し、相良の兵はその場に踏みとどまって耐えた。

 数は甲斐軍のほうが多い。真正面から足を止めあっての白兵戦は、相良に不利なはずであった。しかし、義陽は甲斐宗運の正攻に、そのまま兵をぶつけていた。

 ――この場から一歩も退く気はない。

 自軍の全てを使って、そう言っているようにも見えた。


「遅い」

 間道で伏兵を潜ませた東左京進は、焦りをにじませて呟いた。もう陽は中天に差し掛かろうとしているのに、いまだ甲斐の第二先遣隊が進んでくる気配はなかった。物見からの連絡もない。

 ――敵は引き返したのか。

 迷いが出たが、そんなはずはなかった。引き返せば、相手も決戦に間に合わなくなる。ここよりほかに、通る道はないはずであった。

 もっと物見に人をくべきだったかと後悔したが、人を増やして相手に気づかれてしまっては、肝心の奇襲が成立しない。苦しいところだ。

 ――奇襲を諦め、進軍を再開すべきか。

 左京進は決断がつかず、歯噛みをした。言い知れぬ不安がこみ上げてくる。耐えられないほどの焦りが身を焼いていた。


 甲斐、相良両陣営本軍同士の激突は、もう四半刻(約三十分)になろうとしていた。さすがの相良の精兵も、少しずつ損害を増やし、押され始めていた。

 そこへ、突如横合いから、喚声かんせいが上がった。甲斐の新たな部隊である。

 相良の将、高塚上総介が素早く反応した。味方の一手を割き、突進してくる敵の別働隊目掛け、逆にこちらからぶつからせる。高塚が采配した迎撃で、横合いから突入される衝撃は、かなり減じられるはずであった。

 相良の別働隊を指揮する東左京進からは、敵が先遣隊二個を展開させており、一つは潰したが、もう一つはまだ捕捉できていないと、すでにしらせがきていた。そのため、最悪を想定しての心づもりはしていたのである。

 一瞬にして崩壊するような事態はこうして避けられたが、数を増した敵をいつまでも押し留めておくことは、もう不可能であった。

「ご主君、この場はこれまでにござります。ひとまず娑婆ヶ峰しゃばがみねあたりまでお下がりになり、そこで軍をお立て直しください」

 本陣で動かぬ大将に、高塚は怒鳴りつけるように言った。それでも、義陽は床几しょうぎに座ったままこちらに顔を向けようともしなかった。

「ご主君っ」

 高塚の声は、両軍の喚声の中に掻き消えた。


 東左京進はついにしびれを切らし、預かった別働隊をまとめて進軍を再開した。

 気は焦り、馬も兵も駆けさせて急進したかったが、いつ敵の先遣隊に行き合うかわからぬため自重せざるを得なかった。前方警戒を怠らない範囲でしか、足を速めさせることができない。

 ――いったい、敵のもうひとつの先遣隊はどこへ消えたのだ。

 表情から苛立ちを隠しきれないまま、左京進は馬を進ませた。


 甲斐の第二先遣隊は、すでに主戦場に到達していた。高塚上総介が対応した、横合いから突っ込んできた敵の別働隊こそ、この先遣隊である。この隊は、間道を途中から相良の知らぬ横道にそれたため、東左京進が潜めた伏兵に遭うこともなく、気づかれぬままに響ヶ原に到達したのだった。

 ここまでの展開は何とか読めた高塚であったが、左京進に蹴散らされた第一先遣隊が残兵をまとめなおし、主戦場に乱入してくることまでは予期できなかった。

 数で言えば、たかだか数十程度の敵の増援である。しかし、もう現状の防戦で手一杯で、いっさい余力のない相良本軍にとっては、十分過ぎるほどの最後の一押しとなった。

 相良の本陣の周囲で、守りの兵が一人、また一人と倒れていった。戦いに先が見えてきたことで、甲斐の兵はもう一度気力を振り絞ることができた。それが、相良の防御の崩壊をまた少しずつ早める。

 床几に座ったまま身じろぎもしない義陽の前に、一つの影がさした。太刀を手にした、甲斐の鎧武者よろいむしゃであった。

 義陽は立ち上がりもせず、両手を膝に置いたまま相手を見上げた。右手に握りしめたままの軍配ぐんばいが、虚しく日の光に照らされている。

 武者の太刀が振り上げられ、振り下ろされるそのときまで、義陽は背を伸ばしたまま相手の顔を見ていた。


 戦の決着がつき、先ほどまでの喚声が嘘のように静まった響ヶ原で、甲斐の大将、宗運の前に相良義陽の首が届けられた。友であった男の死に顔を見た宗運は、はらはらと涙をこぼした。

「神前に不戦を誓い合うた二人が、このようになった。生き残った一人も、もう永くはあるまい」

 そう、呟いたという。

 この言葉がまるで予言であったかのように、甲斐宗運は、ほどなく阿蘇家の内紛に巻き込まれ、己の息子の嫁に毒を盛られて、その生涯を終えることになる。


          (四)


「敵襲っ」

 戦場の後始末を行う甲斐の将兵の中に、大声が響き渡った。皆が動きを止め、一瞬その場に凍りついた。

 はっとした宗運は、周囲を見回した。油断があった。

 戦闘は終わったものと考え、兵は緊張を解いている。陣形も完全に崩れていて、今ここを襲われてはひとたまりもなかろうと思われた。

 ――待つまでもなく、相良殿と同じこの場で命を落とすか。

 落胆と諦念ていねんが入り交じった心持ちになった。

「敵じゃ」

 誰かがぽつりと呟いた。その視線を辿った先に、二、三十騎の騎兵がいた。

 最初に上がった警告の叫びは、正確ではなかった。敵はいる。だが、まだこちらに襲い掛かってはこない。敵は、はるか先で、横隊に馬を並べ直していた。

 ――何をやっているのか。あれほど遠くにあるうち開けた場所に出たりせず、近づけるだけ近づいて、一気に馬を駆けさせたなら、相当の損害をこちらに与えられたものを。この宗運の首を取ることすら、できたかもしれぬのに。

 甲斐の大将の疑念などは知らぬかのように、敵の将らしい男は、左右の仲間を見直してからおもむろに手にした槍をかかげた。一声おめいてから、馬を駆けさせ始める。

 左右の騎馬武者が続いた。それは、整然と矩形くけいをなした、惚れ惚れするような吶喊とっかんだった。


 東左京進は、再開した進軍の途中で、主戦場から離脱した味方に行き合った。

 ――本軍、敗退。御大将義陽様、ご落命。

 左京進は目を見開いた。報告した者の襟首えりくびをつかんで引き寄せ、まじまじとその顔を見つめた後、わめきながら突き飛ばした。

 それからは、かちの兵など無視した急行軍となった。

 もう、途中で敵の部隊と行き合うかどうかなど、どうでもよかった。もし行き合ったら、蹴散らして先へ進むだけだ。しかし、わずかに出合うのは味方の敗残兵ばかりであった。

 響ヶ原を前にして、戦場の様子が見えた。戦闘はかなり前に終わったようで、立っている旗は甲斐のものばかりだった。逃げてきた者の言うことは皆同じであり、目の前の光景も、最初の報告が正しいことを物語っていた。

 馬を停めた左京進は、ついてきた母衣衆を振り返った。

「これより、甲斐の本軍に突入する。但し、狙いは甲斐宗運の首ではない。これよりの突入の目的は、ご主君、義陽様にじゅんずることである。ゆえに、皆共に参れとは言わぬ。その気のある者のみ、ついて参れ」

 そう言うと、後ろも見ずに馬を開けた場所へ歩ませ始めた。数騎が、そしてさらに十数騎が、黙って左京進の後に続いた。

 甲斐の陣営を見渡す左京進の左右に、ずらりと相良の騎馬が並んだ。

 敵は、陣の中で右往左往している。その中軍らしきところの統率が取れ始めたのを見て、左京進は己の馬を一歩前へ進めた。

 槍を振り上げ、己の目指すべき方角へ突き出した。

「突入っ」

 喚声かんせいが上がっている。おめいているのが己か、左右の者か、左京進には判らない。ただ、前を目指して馬を駆けさせた。


 敵の騎馬の突進に、宗運をとりまく左右の将が反応した。前線に弓隊を並べさせる。大慌ての対応であったが、鉄砲の準備すら間に合うほどに、騎馬の隊列は遠かった。

 御弓隊頭は遠矢とおやを射掛けさせ、敵が近付いてからは数撃ち(速射)に切り替えた。鉄砲は、十分に引き付けてから一斉射だけで下げた。

 突進してくる騎馬武者が、ばたばたと転げ落ちた。

 それでも、背を向け逃走に移らんとする者はいない。己に命ある限り、皆が馬を前へと駆り続けた。

 乗馬を射られて失った者も、馬を捨て己の足で突進を続けた。

 騎馬が本陣に到達しようとすると、今度は槍兵が対応した。長柄槍ながえやり石突いしづきを地面に突き刺し、槍の穂先を突進してくる馬へ向けて、十数人ずつの集団で一騎に向かう。弓と鉄砲の射撃で数を減らした騎馬が、この槍衾やりぶすまで脚を止められた。それでもなお、遮二無二しゃにむに前へ進もうとする。

 しかし、相良の兵が前に進む速さより、自分たちと宗運の間の防御の壁が厚みを増すほうがずっと早かった。それでも、最後の一人がついえるまで、相良の兵の前進がやむことはなかった。


 数多くの兵どもが流した血を覆い隠すように、夕日が原野を真っ赤に染めていた。

 その光も、次第に弱まっていく。これよりは、宵闇よいやみが代わりをしてくれるはずだ。

 甲斐の軍勢も引き上げ、もう生きて動く者は誰一人いなくなったはずの響ヶ原で、どこからか、かすかに歌声が聞こえた。

 風に乗せて途切れ途切れに届く旋律は、前夜、相良の大将が口ずさんでいた子守唄であった。


   おどま盆ぎり盆ぎり

   盆から先ゃ居らんと

   盆がはよ来りゃ はよ戻る


   おどんが打死うっちんちゅて

   だいが泣いてくりゅきゃ

   山のからすと せみばかり


   おどんが打死ねば

   道端へみちばちゃけろ

   通る人ごとごち 花あげろ


   花は何の花

   つんつん椿つばき

   水は天から もらい水













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